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2020年2月21日金曜日

なんとカナダ・トロントから!!  Zen Sanuki Udon オーナーシェフ 柏原清一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場
今回は、なんとカナダ・トロントからTORJA様経由です。

本文より~

白バイ隊員か調理師か。

生まれは東京、育ったのは神奈川県の逗子市。父親は普通のサラリーマンで、祖父は床屋だった。「兄弟にサラリーマンはいないんですよ。」弟たちは床屋と、病院食を作る仕事だという。
昔から体を動かすのは好きだった。中学時代は陸上と水泳、高校時代は山岳部に所属していた。興味があるのは、体育、図工、理科など。「正直、勉強は好きではなかったです。」
また一方で、高校時代からオートバイにはまっていた。「友達のお兄さんがHONDAの250ccのバイクに乗っていて、それに乗せてもらってからですね。」もの凄いパワーに衝撃を受けた。バイクを買うために借金をして、その借金を返すために、週末は飲食店でアルバイトもしていた。
進路を決めるにあたって、最初は父親に「警察官か調理師か」と言われ、オートバイは好きだったが「白バイ隊員になったらみんなに嫌われるよ」という父親からの一言に加え、食べることが好きだったこともあり、調理師学校への進学を決めた。特に昔からの夢、という訳でもなかった。「免許も取れて手に職をつけられる、そういう考えが親父にはあったんじゃないかなと思います。」
仕事が終わると、箱根の山に登ってオートバイを走らせた。50cc,70cc,オフロード,125cc,250ccと色んなバイクに乗った。行動範囲も広がるのが、楽しく大好きだった。調理師学校を卒業した後は数年間、地元の寿司屋で修行を積んだ。

もともと海外への憧れはあった。カナダ・オタワへ。

「子供の頃、親父はシカゴで駐在をしていたのもあって、もともと海外への憧れはどこかにあったと思います。」
海外へ行くきっかけとなったのは先輩だった。彼は、寿司屋の板前としてハワイで働いていた。寿司職人として「海外で仕事ができる」ということを知った。柏原氏の行動は早かった。海外へ行きたいということを父親へ相談した。すると、父親の知り合いから「カナダのオタワで寿司屋の板前を探している」という情報を貰った。その頃、「ビザの取得は今ほど難しくなくて、英語が得意だった親父が書類も用意してくれて。移民ビザを取ってカナダに渡ったのが25歳の時ですね。」
そこから2年間、寿司シェフとしてオタワで働いた。「給料が安く、一緒に働き出した人は続々と辞めていきました。」父親の知り合いの紹介だったため、すぐに辞めることはできず3年ほど働いた。「それからオタワで一緒に働いていた人の紹介で、トロントにある『笹屋』という日本食レストランに移りました。」そこでも数年働いた。そして同じくトロントにある老舗の日本食レストラン『まさ』へ移る。その店はトロントの中でも老舗として知られ、忙しい店だった。「なんで忙しいのか知りたい気持ちもあって。」そこで10年間働いた。「実はその間に、中国人のお客さんに誘われて、別の店でも1年ほど働いていたことがありましたが、ほぼ騙されたと言っても過言でないことも経験しました。これもひとつ勉強だ。と思って、再び『まさ』に戻りました。」思い立ったら動くのが、柏原氏の行動力だ。

いざ独立。

オタワで働いていた時から「自分で店をやりたい」という思いが強まっていったという。「興味のあることは、勉強していました。繁盛店へ移ったこともそうだし、夜中まで働いているマネージャーからお金についても教えてもらいましたね。」ヘッドシェフとしてキッチンを任されるまでになっていたが、店主が亡くなってことで『まさ』は閉めることに決まった。当時は仕事を探そうにも、トロントで寿司を扱うレストラン自体がそんなに多くなかった。そんな時に、トロントのスカボロ地区にあった別のお店の店主から「リタイヤしたいが、仕事のできる人に店を譲りたい。」という話が、柏原氏に舞い込んできた。
メニューは当初、そのまま受け継いで徐々に変えていった。「家賃を払いながらだったので、要はビジネスを買った状態でした。『お金がなくて出来ないと言っている人は、お金があっても出来ない』という言葉もあるように、今こそやる時と決めてやりました。」

カナダでの日本食。

こちらにきた当初は、魚が全然なかった。あったのは冷凍のハマチ程度。「鮮度の良い、生簀に入った獲れたての魚を見て、喜んでいる夢まで見るほどでした。」それが次第に流通が良くなってきて、トロントにも入ってくるようになった。「それを積極的に仕入れて使うようになったのは私たち『ZEN』が最初だと思います。」日本食へのこだわりは強い。「日本人が、日本のモデルを作っていかないと。日本と同じものを提供していきたいですね。そうでなければ日本食が変な方向にいってしまう。日本食の伝統文化を正しく伝えることもひとつの使命だと思っています。」

日本で修行を積んだ和食の職人が数多く働く。

食材だけではない、こだわりもある。「和食というのは見えないところにもお金がかかっているんですよ。寿司だけのほうがはっきり言って楽。え、これ捨てちゃうの?というようなものも、『美味しいところだけを使おう!』という料理人の気持ちがある。それを理解しないと。お皿もそう。自分が作った一品を、納得のいくお皿にもらなかったら価値が出てこないんですよ。魯山人の『器は着物』という言葉もあって、シェフを日本へ連れて行って、お皿を探しにいくこともしています。ひとつひとつ自分で作り上げた作品がお客様に喜んでもらえる、それが彼らの喜び、自信にもつながると思っています。」
さらに柏原氏は、移転を機に割烹、会席、おまかせのメニューなども考案していった。「食べたくてもなかったんですよ、うどんもそうでした。」と続ける。2019年には、粉と出汁にこだわった本格的な讃岐うどんの店もオープンさせた。「今後も、トロントにないもの、自分が食べたいと思うものを時間をかけても作っていきたいですね。」

独立前から支えてきてくれた妻・和子さんに感謝。

今でも現場でともに働く妻への感謝も忘れていない。「オタワで知り会い結婚、和子に知り会うことでどんなに助けられたかわからないです。オタワで大使館の会計にいたのでお店の経理を手伝いながらお店も手伝ってもらい、今があると思います。感謝しています。」

『ZEN』グループの未来。


「ジャパネットタカタの社長の言葉に『知らなかったら、ないのと同じ』というのがあって、その通りだなと思っています。」どれだけ自分が美味しいものを作って、満足できるものを作っても、誰も知らなければ来て貰えない。「自分たちがどういうことをやっているのかを知ってもらいたいですね。」と、雑誌などへの露出やSNSでの発信、さらには動画制作にも力を入れていこうとマーケティングが大事だと語る。
人材育成については「コック45で野垂れ死ぬ、という言葉もあるくらいなので。うちで働くシェフたちも独立はしたかったらすればいいというスタンスではいます。」とのこと。「任せて考えさせてやらせる。自分たちでやることによって、楽しさも出てくると思っています。」
・・・続き
株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏

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2020年2月17日月曜日

株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヴィガー 代表取締役 手嶋雅彦氏登場
本文より~

博多ラーメンと、手嶋少年。

博多ラーメンの発祥には諸説あるそうだ。なかでも、有力なのが1941年創業の「三馬路(さんまろ)」。
今回、ご登場いただいた株式会社ヴィガーの代表取締役、手嶋雅彦氏にとっては、ある意味、家のルーツの一つとなっている。
「上海帰りの森堅太郎氏が、三馬路の創業者です。『三馬路』っていうのは、向こうでいう通りの名だそうです。この『三馬路』にうちの父と、父の義兄が弟子入りします。だからいうならば、『三馬路』が、うちの源流なんですね」。
のちに父と義兄は独立し、「五馬路」を開業する。それからしばらくして、父は義兄から「五馬路」を譲りうけることになった。
「小さな頃は、絶対、飲食なんかしないと思っていました。丸まった父の背中も、母の背中もみていましたからね」。
五馬路(屋台)は、福岡の祇園にあった。
「食卓に夕食が1人分置いてあるんですね。まだ、子どもだった頃はさみしてくってね。つい、屋台まで行ってしまうんです。それで、親父に怒られたりするんですけどね/笑」。
店を構えるようになっても、さみしさはかわらない。
「1階が店で、2階が住居です。よくあるやつですね。そうなっても、やっぱり飲食はイヤだった。トイレは店だし、ね。母親もあいかわらず仕事をしていましたし…」。
ちなみに、手嶋氏は1958年生まれ。昭和のど真ん中で生まれ、育っている。
「当時、私が暮らしていた祇園は、商売をしている家の子ばかりでした。サラリーマンの子なんて、いなかったんじゃないかなぁ。ま、祇園が飲食街っていうこともあったんだと思いますが」。
手嶋氏は、大学2年までこの祇園で暮らしている。
祇園や福岡という街を通して、高度経済成長期をみた1人にちがいない。

台風一過。

「もともとは落語家になりたかった」と手嶋氏はいう。
「ただ、ある時、紅テントの公演があって、友人と観に行くんですね。今もなんで行ったのか、ハッキリしないんですが」。
とにかく、すごい熱気だったそうだ。
これが、手嶋氏の人生の方向を決める。
座長はご存知、唐十郎氏。脇を固めるのは、根津甚八氏、小林薫氏など、今でも語り継がれる錚々たる面々だ。
「舞台も、凄かったんですけどね」と手嶋氏は、目を細める。
その日の福岡は、台風の影響で空が荒れていたそう。
「だから、テントの外で濡れながら待っていたんです。ようやくテントに入っても、なかなか舞台が始まらない。台風で準備が整っていなかったんでしょうね」。
観客は200人ほど。
「そのうち、しびれを切らした観客が『はやくしろよ』って怒鳴るんです。そうしたら、ドーランを顔半分だけ塗った唐十郎さんが、舞台に駆け上がってきて、『いま、いったのはどこのどいつだ』なんて。ええ、もう、喧嘩ごしです」
客も黙っていなかったらしい。
『おれだ。文句あんのか。さっさとやれ』
『なんだと、てめぇ』
「そうしたら、今度は、根津甚八さんとか、小林薫さんとかも次々でてくるんですね」。
舞台が終わった時には、深夜の12時を回っていたそうだ。終電を逃した人もいたようだ。ただ、手嶋氏は、終電などを気にすることもできなかった。あまりの衝撃だったからだ。
「あの、数時間で私の人生は決まったというか。そういう意味では、私の心のなかでの台風一過ですね。ものすごい嵐だった。おかげで、大学も2年で辞め、上京することになります。ええ、役者になるための、長い旅のはじまりです」。

ラーメンの匂いが立ち上がる。

「役者」という位置づけは、難しいと思う。はっきりとした線引きがないからだ。手嶋氏はどんな役者人生を歩むんだろうか?
ともかく、20歳で上京した手嶋氏は、無事、「劇団青年座」の研修生に合格する。
「青年座っていうのは、西田敏行さんがいらした劇団です。こちらの研修生としてスタートするんですが、正式な団員には採用されませんでした。それから、いろんな芸能事務所を転々として。TVのレポーターとか、ドラマのちょい役とか、そうですね、役者だけじゃ食べていけないから、結婚式の司会とか、飲食店の仕事もしました。なかなか役者で独り立ちはできなかったわけです」。
しかし、役者であったのも事実だ。辞めなければ、役者だといいつづけることもできる。
「奥さんも、元々タレントだったんです。私よりは、仕事があって、それで、5年くらいかな、彼女の世話になっていました/笑」。
何でも、最後の事務所は、有名なスポーツ選手が立ち上げた事務所だったらしい。
「35歳になった時ですね。当時、お世話になっていた事務所も自然消滅したりと、いろんなことがあって。もう、役者らしいことはしていなかったのに、『役者は辞めよう』って決意するんです」。
20歳から15年追いかけてきた役者という背中を、もう追いかけないことにした。気力も、気概もなくなっていた、という。
「でも、そうすると、何もないんですね。追いかけるものが…。どうしようか? もう、奥さんと結婚もしていましたし。そんな時、ふと、うちの店が、頭のなかに登場するんですね。なんなんでしょうね、アレって/笑」。
ラーメンの匂い、焼鳥の匂いまで、立ち上がる。目線は小さな頃だから、まだ低い。見上げると、酒の匂いをプンプンさせた大人たちが屈託なく笑っている。父親もまた、笑っている。
「飲食をやろう、と思ったのは、その時です。父も私が店を継ぐなんて思っていなかったから、そろそろ廃業しようと思っていたそうなんです。だから、タイミングも良かったっていえるかもしれませんね」。

ラーメン店、店主は、ソムリエ。


35歳になった時、手嶋氏は、福岡の祇園にあるラーメン店をつぐ。
「世の中のことをぜんぜん知らない。これが、仕事をはじめて最初に気づいたことです。役者の頃は、そういうことを勉強するもんじゃないと思っていましたからね。だから、お客様と話すのが新鮮で、接客がたのしくてしかたなかったですね。でも、最初は戸惑いました。嫁もいっしょに連れて帰ったわけですよ。でも、店の売上は、父と母が食べていくだけで精一杯。社員も、1人いましたしね」。
連日、満席とは言わないが、繁盛していたはずだ。いや、そういう記憶だっただけかもしれない。
「父親とは5年、いっしょにやるんですが、喧嘩ばかりでしたね。私は『ビジュアルだ』、というし、父は『味だ』と譲らない/笑」。
ただ、もめていても、客が来るわけがない。どうなっただろうか?
「話題になったのは、ワインのおかげ」と手嶋氏はいう。ワインのおかげ?ともう一度、質問すると役者時代の話になった。
「じつは、役者の頃、食べられないんで、ホテルで司会とかの仕事をしていたって言ったでしょ。その時、親しくなったホテルの人から『ソムリエ』って資格があるのを聞いていました。そこで福岡に戻ってラーメン屋をやりながら。独学で勉強しソムリエの資格を取ったんです。お金はなかったんですが、ワインには割と詳しくなっていきました。それで、当時の祇園にはまだないような、ヴィンテージ物のワインなんかをお出ししたんです。そうです。これが、バカ当たりするんです」。
父の店は10坪とけっして大きくなかった。しかし、それまでは空席が目立っていた。だか、ワインをだすようになってからは、逆に席がなくなった。外に列ができたのも、この頃。
手嶋氏が、商売人として、独り立ちした時と言えるだろう。
・・・続き
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