「食べログ求人」、これからが楽しみです。
「求人飲食店ドットコム」の競合になるのかな・・・。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。
教室にピアノの音が響く。メロディが流れだすと、だれもが口を閉ざした。
「授業でピアノを弾いたとたん噂になって」。
これは、今回、ご登場いただいたバルニバービ インターフェイスの代表、中村さんが中学生の時の話。「小学2年生のときに、ともだちがオルガンでドラクエを弾いていて、かっこいいなと思って、ピアノを習いにいったのが始まりです」。
「中村はピアノがめちゃくちゃ巧い」。噂は学校中に広がって、合唱コンクールでも卒業式でもピアノを披露することになった。ホームページの自己紹介では「ピアノはショパンまで」と書いてあった。
「運動は苦手だった」と中村さんは正直だ。
「サッカー部に入りましたが、ほぼ幽霊部員。運動はイマイチでしたが、音楽は得意でしたから、将来は音大へ、なんて思っていました。でも、実際は京都外大です(笑)」。
「うちはガチガチの公務員一家ですから、息子の私にもとにかく『公務員になりなさい』と言っていました」。
実は、中村さん、公務員の試験を受けている。
「数学が苦手で、大学も外大でしょ。語学はできたんですが。公務員はマルチな分野の知識がないと、ちょっと無理。で、だんだん就活自体も面倒になって、公務員どころか就職もせずフリーター生活をはじめます」。
中村さんは、高校時代、大阪・梅田にオープンした「リッツカールトン」のオープニングスタッフとして採用されている。「こちらは高校時代の話です。リッツカールトンに直接採用いただたわけじゃなく、配膳会社に登録していましたから、ほかのホテルや芸能人のディナーショーでも配膳の仕事をしています」。
中村さんは、大学4年までこの仕事をつづけている。もっとも、就職で外食は選択肢になかった。
「車が好きだったんで、ディーラーもいいかな、とは思っていたんですが」と中村さんは苦笑する。飲食はもちろん、音楽の道もまた、なかったようだ。
「卒業してからは俗に言うフリーターになって、倉庫の仕事と、ワインバーの仕事をかけもちしていました。倉庫の仕事がいま一つだったこともあって、ワインバー1本にします。そうなると昼が暇でしょ。そのとき、バルニバービの求人に出会ったんです。7月にアルバイトで入り、翌年1月に正社員に登用いただきました」。
バルニバービは1995年、大阪の南船場に1号店となる 「アマーク・ド・パラディ」をオープンしている。以来、様々なカフェをオープンし、現在は「地方創再生事業」にも乗り出している。
「当時は、まだ10店舗程度で、何者かもわからないようなフェーズでしたが、バルニバービの世界観が私には似合っていたんだと思います」。
「でなきゃ、今頃、息苦しくて」と中村さんは笑う。中村さんは「セクシャリティがバイセクシャル」なんだという。
「カミングアウトは25歳のとき。バルニバービに就職していて、ある上司に相談したのが最初です」。
そのときの上司とは「バルニバービ オーガストの田中亮平社長」のこと。
田中さんとの関係についてもうかがった。
「田中さんにお会いしたのは、2004年にカフェカーブに配属になったときです」。
「田中さんのほうが3つ上」と中村さん。たがいにないモノをもっていたという2人は、上司と部下という関係でもあったが、ともにたたかってきた仲間でもあった。
田中さんの役職が上がると、いっしょに中村さんの役職もあがった。
「田中さんも経歴がユニークで、大学時代に柔道で世界2位になっていたり、前職が警察官だったりで。でも、公務員って頑張っても、頑張らなくても給料はおなじでしょ。そういう世界が、いやになってバルニバービに転職してきたそうです」。そういって、中村さんは可笑しそうに笑う。
「田中さんと出会った『カフェカーブ』は、バルニバービの初の子会社です。そこからも、だんだんと分かれ、今(2024年)では、10の子会社があります。私が社長を務めるバルニバービ インターフェイスもその一つ。バルニバービが店をオープンして、子会社が、その店を運営するというスタイルです」。
「会社単位ですから、ハンドリングもわりと自由です。利益は、本体とシェアしますから、利益を上げれば当然、みんなのギャランティもあがる。運営の方法も私たち主導で行っていきますので、実績があがれば自信になりますし、失敗も含め、それが経験になっていきます。この経験はグループの新たな店づくりに参加したときや、独立して店をするときにも役立ちます」。
たしかに、たしかに。すでに独立した人も少なくないらしい。「うちでは、独立希望者も積極的に採用し、独立の支援も行っています。バルニバービのネットワークをそのまま利用することもできますから、比較的独立のハードルは低いです」。
ところで、田中さんに最初にカミングアウトしたときの話。田中さんは、どんな反応だったんだろう。
「田中さんは、ぜんぜん驚かないで、逆に半泣きになってはやく気づいてやれなくて、ごめん、って。田中さんのおかげでマイノリティっていう意識が、いい意味でなくなりました」。
以来、2人は、互いの得意分野と苦手分野をカバーするようにして、二人三脚で、業績を上げてきた。
「仕事のパートナーっていうとおこがましいですが。そうそう、じつは、このインタビューが始まる少し前にも話をしていたんです」。
2人の関係がうかがえる話ですね?。「そうですね。実際、いっしょに店をやったのは3~4年ですが」。田中さんが子会社の社長になると、中村さんが、執行役員となって田中さんをサポートしてきた。
切磋琢磨、というのは、この2人のことをいうのだろう。「性格もちがうし、思考もちがう。ちがうからこそ、気づきもあるし、おぎなうこともできたと、私はそういうふうに思っています。もちろん、感謝は尽きません」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
「飲食の戦士たち」見て、いろんな出版社がアプローチしてます。
採用の武器としては書籍は強いツールとなります。
「飲食の戦士たち」シリーズ“再現ショートドラマ編(season2)”に続き、コロナ前から進めてた「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”を2025年は5冊やる予定です。
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏登場。
本文より~「中学入学早々、どつかれた」と笑う。
今回、ご登場いただいたのは株式会社ピアッティーベッラの代表取締役社長、髙上 彬さん。ピアッティーベッラは、あのバルニバービの子会社の一つ。
バルニバービのグループ会社は、バルニバービ インターフェイス、バルニバービ オーガスト、バルニバービ ウィルワークスにつづき、今回で4社目となる。出会ったのは、いずれも異色のキャラクターだった。今回も、「どつかれた」から話がスタートしたから、期待せずにはいられない。
では、お話をうかがっていこう。
「私は小学6年生まで神戸市で育ちます。小学生の頃の楽しみは、祖父が経営する酒場のお手伝い。毎日のように通ってお小遣いをもらっていました」。
小学生にとっては確かに楽しいアルバイト。さぞ、赤ら顔の大人たちに可愛がられたことだろう。
「中学から広島に引っ越し、私はバスケットボールを始めます。どつかれたのは、この時。髪の毛を染めていたのがあかんかったですね。バスケットボールの成績は市で2位、県でベスト4、近畿大会まで進みました」。
「もし戻れるならもう一回やってみたい」と、当時の話をしながら、髙上さんは目を細める。「監督から、彬は誰より『楽しんどけ』『笑っとけ』と言われていました。副キャプテンで、ムードメーカーだったんです」。
最初から意識していたわけではないが、そう言われて、「はじめて意識してやるようになった」とのこと。
これは、今も実践していることの一つだそう。
「バスケットボールを引退した後、ボクシングを始めました。母親から『男は格闘技やれ』と言われていたんです。階級はバンタムあたりです。高校3年間はボクシング漬けでしたが、プロは意識していなかったです。ただ、楽しいからつづけていたっていうのが、正解です」。
小学生の時と背丈はちがうが、あの時とおなじように「大人に混ざってやってるのが楽しかった」らしい。
ボクシングのかたわら、ダンス教室にも通っている。
ボクシングに、ダンス。だれよりも笑って、たたかい、踊っていたに違いない。その一方で、「じつは、高校1年の時から海外に関心があって行ってみたいと思っていたんです」。
話は、いろいろなところに飛んでいく。
「黒人の文化っていうんでしょうか、彼らの音楽にハマってダンスが好きになって。その延長線上で、海外に行きたいと思うようになるんです」。
行動力は、ピカイチ。今までの話でもわかるが、高校を卒業するとためらうことなく日本を離れる。
「学生ビザで、カナダのバンクーバーに渡ります」。「じつは、辻調理師専門学校にも興味があった」という。
やりたいことが、満載。バンクーバーでのお話もうかがったが、いかにも髙上さんらしかった。
「語学を覚えなきゃいけないんですが、私の場合は、ストリップ劇場でマスターします」。
<ストリップ?>
「ストリップといっても、ワンドリンクをオーダーすればいいだけです。ストリップとお酒を楽しみながら、会話を楽しむ感じです」。
なんだかバンクーバーっぽい。ただ、そのバンクーバーっぽいロケーションのなかで、東洋から来た青年は、どんなふうに映っていたんだろう。
ドレッドヘアで、リンゴを齧り、自転車に乗る。風景がいい感じに後方に流れていく。「そう、そういうのをやりたかったんですが、買った自転車は、その日にパクられます(笑)」。
旅にも出た。
「もともと、海外に行く目的の一つに人見知りを直すっていうのがあったんですね。周りからはムードメーカーなんて言われていたんですが、じつは案外、人見知りで」。
<だから旅にでた?>
「そうです。1人でテントで野宿したこともありますし、ともだちと2人でメキシコまで行こうと言って、国境で色々あって、なぜか私だけメキシコに放り出されて。もう、黄昏時だったんですが、ギャングみたいな人がいっぱいいて(笑)」。
「もうあかん、と思った」とこちらを笑わせてくれる。
言葉は、つたないままでもなんとか通じたそうだ。
青年時代の1ページ。
「バイトは、ホットドッグショップで」。
ボディーランゲージ入りのコミュニケーションで、ホットドッグを渡し、お客様と会話する様子が目に浮かんできた。
バンクーバーでの留学生活は2年。帰国した髙上さんは、広告代理店に就職する。
「求人広告の代理店で、私の戦場はスナックビルでした(笑)」。契約をいただくために、スナックに飛び込んでいたんだろうか?
「じつは、この仕事が、今の仕事に就くきっかけ」と髙上さん。
<どういうことだろう?>
「心斎橋の、これはスナックじゃなく、カフェに営業をかけた時に相手の担当者がむちゃくちゃ格好いい人で。営業マンの私がぎゃくに心をつかまれてしまって」。
<それでどうしました?>
「急に、飲食へ進みたくなるんです。ただ、働くにしても、飲食店は言うたら山のようにあるでしょ。それで、リサーチしようと思って厨房設備のメーカーでアルバイトを始めます」。
<いいお店はみつかりましたか?>
髙上さんは、「うん」とうなづく。
「ある日、イタリア人がオーナーのレストランに冷蔵庫を設置しに行くんです」。
急な階段を上がる。その急な階段が「イタリアにある洒落たレストランのようだった」と髙上さん。内装も、イタリアさながらで、当時はめずらしいピザ窯もおいてあったそう。
厨房からは、笑い声がもれてくる。「オーナーも男前で、とにかく、かっこいいの一言。翌日さっそく、食事に行きました」。
トントン拍子とは、このこと。
食べに行って旨かった→働かせて→じゃあ、明日から。
「君は『ジャコミ(GIACOMI)』ねと、あだ名までつけられた」と笑う。
このあだ名は今使用しているジャコモ(GIACOMO)とは意味合いが少し違うらしい。
ジャコミは、イタリア語圏の男性名で、どちらかというと小さい子供につかうあだ名。バルニバービで働く中でGIACOMO(ジャコモ)に、大人になろうという気持ちを込め、現在ではGIACOMO(ジャコモ)を名乗っているそう。
それにしても、翌日からとは営業の仕事のほうはどうしたんだろうと、多少、気にはなるが、はしょってつぎに進む。
「オーナーはイタリア人でしたが、従業員は日本人です。ホールからスタートします。厳しかったですね。朝から夜までです。2年半くらい経ってポジションが空いたのでキッチンに配属してもらったんですが、こちらもむちゃくちゃ厳しかったです。でも、そのおかげで、本格的なイタリア料理をマスターできました」。
「合計5年働いた」という。
「流行っていましたしね。私も正直、天狗になっていたと思うんです。ホールの時にはソムリエの資格を取得していましたし、もちろん、料理は本格イタリアンです」。
<退職されたのは、どうして?>
「この頃には、もう立派な飲食人ですから、いつかは独立というのが頭にあって。この店では料理はマスターできたんですが、お金のことはオーナー以外ノータッチ。経営に関してなにか言おうもんなら、『出ていけぇ~』ってなるようなオーナーだったもんですから。経営について勉強できる店に移ろうと思っていたんです」。
<それがバルニバービ?>
「正確にいうと、バルニバービの創業者で現会長の佐藤裕久さんがちょくちょく食事にいらしてたんです」。
<佐藤さんもかっこいいですよね>
「そうですね。で、それが縁で、バルニバービではたらかせていただくことになりました。最初に配属されたのは、『アマークドパラディ』で、席数60席。私は、数字のほうを管理したかったから、ホールとして採用いただきました」。
「ぶっちゃけ、下にみていた」と、髙上さん。
「当時、バルニバービって言えばガーブだったんですが、私たちからすればカフェでしょ。こっちは、本格イタリアンですから。料理については、特に下にみていたんです。でも、すぐに鼻を折られたっていうか」。
「とんでもない人がいた」と髙上さん。
バルニバービの創業メンバーで、内定をもらっていた就職先を蹴って、創業者の佐藤さんと冒険にでた人だという。「もう、むちゃくちゃ怒られた」と笑いも多少ひきつる。
「入社してすぐにランチ、担当です。『なにをやってもいい。とにかく、ランチのセールスをあげろ!』って。そんなことを言われても、なにをどうすればいいかわからない。窮地に追い込まれます」。
<どうされたんですか?>
「もう、捨て身で、『じゃんけん大会』でしょ。『◯◯さんを連れてきたら、ドリンク一杯サービス!』なんて無理くり企画を絞りだして。ところが、案外、その捨て身の企画があたって、ランチが大盛りあがり」。
飲食のカテゴリーが、食事一つでないことがわかった。お客様がハッピーになる。飲食の正体は、たぶん、これ。ジャンルは、その方法論のちがいなのかもしれない。
<佐藤会長とは、お会いされましたか?>
「入社してからは、そうそう話す機会はなかったです。ただ、一度、食事をする機会をいただいて」。
「経済か、経営か、そういう話を期待していた」と、髙上さん。経営を知るのが、バルニバービに転職した理由だったから、それも当然だ。
「でも食事の間、佐藤はぜんぜんそんな話はしないんです。こっちはなにか指導して欲しいんですが。ただ、その時、言われたことは今も鮮明に頭に残っています」。
<何を話してくださったんですか?>
「佐藤会長って言うたら、私らからしたら、むちゃくちゃかっこいい神のような経営者です。さぞ、かっこいいことをおっしゃるんだろうと。話についていけるか心配していたんです。でも、ね。昔、中学の時、バスケの監督に言われたようなことを言うんです」。
「へぇ、佐藤さんも、こんな泥臭いこと言うんや。そうか、飲食の大事なことはやっぱりそこなんやって」。
むちゃくちゃ感動したにちがいない。たぶん、飲食の仕事をしている限り、忘れない。
佐藤さんは、髙上さんをみてつぎのように言われたそうだ。
「お前の仲間は笑っているか? お前はだれより笑っているか?」
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
205年4月より新しい期がスタートしました。
前期は点数でいうと70点くらいですかね。
決めた目標に対して、アクシデントさえなかったら達成しました。
ただ部門でばらつきが大きかったのが反省材料です。
今期は各部門の戦略をもっと練って臨みます。
おかげさまで戦略型の人材採用会社=求人会社のキイストンは、食べログ正規代理店が現在38社に絞られましたが、悲願のトップ10入り(2024.12〜2025.2)出来ました。
皆の頑張りに、ただただ感謝です。
また、人材紹介部門は特定技能に力を入れていきます。
といっても、実績はほぼゼロからのスタートですが、
特定技能の分野でも業界内でシェア取れたらと考えてます。
もちろん、求人メディア部門はキイストンの本業なのでがガンガン行かせます!
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏登場。
本文より~山本氏が生まれたのは、京都にほど近い滋賀県高島郡(現在は市)。山本家は両親のみならず、祖父母や伯父伯母までもがみな公務員。3つ上の兄も教師というお堅いお家柄だ。
― じゃあ、小さいころからずっと「お前も将来は公務員に」って言われたんでしょうね ―
「言われたかどうか記憶にないくらい、人の話を聞いてなかったですね(笑)」。
周りからは「何を考えているかわからん奴」と思われるほど、自由奔放・唯我独尊。地元の小学校を卒業後、実家から電車で45分もかかる大津市内の私立学校に入学したのも、何をしでかすか分からない息子への親の配慮からだった。運動神経は抜群で、陸上部では3000m走で市内2位になるほどの実力を持っていたが、2年生になると毎週実施される英単語や漢字テストの補習に追われ、それどころではなくなる。別に勉強が苦手だったわけではない。親友のせいで、勉強することを“やめた”のだ。
「中学時代、一番仲良かった子が、学校で一番頭良くてね。ほかのことは努力すればだいたいなんとかなったけど、勉強だけはそいつに絶対勝てないし、一番になれない。『僕が勝負するのはここ(勉強)じゃないな』ってことで、勉強するのをやめました。僕が勉強しなくなったのは、絶対あいつのせいですよ」。
中・高時代、特になりたいと思うものはなかった。強いて言えば、海外への憧れだろうか。当時流行っていた「世界ウルルン滞在記」や「あいのり」以外に、母親の存在も影響した。教職を辞め専業主婦になった山本氏の母は、子育て終了後オペラ歌手に転身。日本とイタリアを行き来する生活をしていた。
「世の中の人はもっと英語を喋れると思ってたんです。だから英語圏に行ってもしかたがないし、人と同じことをしても自分の特徴にならない。人と違うことをしようって」。
そこで選んだのがイタリア・ローマへの留学だ。母親のこともあり、「イタリアなら反対されにくいだろう」という計算もあった。その目論見通り、高校卒業と同時に山本氏はイタリアへと旅立つが、そこで待ち受けていたのは言葉の壁だった。
「ホームステイ先の人があれこれ説明してくれるんだけど、イタリア語だから全く分からないんですよ。バスの停留所が分からなくて終点まで行っちゃったり、お風呂のガスの使い方が分からなくて、4月なのに冷水シャワーを浴びたり。このままじゃ生きていくのもヤバいと思ってイタリア語を必死に勉強しました」。
もともと集中力があるのだろう。イタリア生活が3か月を過ぎたころ、突然先生の言葉が聞き取れるようになった。しかしヒアリング力を身に着けた途端、学校に行かなくなりアルバイトや夜遊び三昧。あれこれ言ってくるホームステイ先に嫌気がさし、ついには家を出てひとり暮らしを始めてしまう。親からの仕送りを“無限”と勘違いし、お金をガンガン引き出して怒られたが、そんなことは気にせず、どこまでも自由奔放だったという。
3年間のイタリア遊学、もとい留学を終えた山本氏は、帰国後英会話スクールのECCに就職するも、入社早々「使えないヤツ」とのレッテルを貼られてしまう。イタリアで悠々自適に暮らしていたため、PCスキルはおろかクラブやサークル活動を通じて社会性を学んだ経験もなかった。その上、面接時の「英語以外の言語が話せますか?」という質問には、「(英語は話せないけど)イタリア語が喋れます」と答えての入社だ。普通なら萎縮しそうなものだが、「どうやったら周囲をぎゃふんと言わせられるかなー」と考えていたというから驚きだ。
「自分のことを全く知らないお客様と対峙する新規営業(入会案内)なら、他の社員と同じスタート地点で戦える」と踏んだ山本氏は、そこに全力を注いだ。こうして、落ちこぼれだった新入社員が半年後には中部地区でダントツの営業成績を収める。さらに、FCであるECCジュニア(子供向け英会話教室)の収益に注目し、FCビジネスにも興味を抱くようになった。
トップ営業マンから店長に昇格した山本氏は、現場の仕事よりも責任者としての業務に忙殺されることが多くなっていった。会議に出席したり、ハンコを押したり、そんな日々を続けるうち、胸中に危機感が芽生えていく。「このままでは井の中の蛙だ。個人の能力を高めるためには、新たな世界に飛び込んだほうがいい」そう判断した山本氏は、トップセールスという栄光の座を自ら放棄した。
山本氏が次に選んだのは、ハウスクリーニングのおそうじ本舗だった。入社後はとにかく大人しく、目立たないようにした。上司の言うことには「はい」と答えつつ、水面下で独自の営業スタイルを構築。そして1年後、再び営業の頂点に立った。
― お仕事はなんだったんですか? ―
「スーパーバイザー(SV)です。売上げアップのためのアドバイスやサポートと、本部が提供する販促品を加盟店に購入してもらうこと。本部と加盟店、両方の利益を考えるんです」。
― 成績を上げるコツは? ―
「加盟店のオーナーさんに、『山本は味方だ』って認識してもらうことですね。あれこれ指示するんじゃなく、『オーナーさんが今できそうな方法はAとBとCがあるけど、自分ができそうなものはありますか?』って、自分で決めてもらうんです。初期費用払ってFCで独立しようって人が、他人から命令されたいはずはないじゃないですか。自分で決めたことだと思わせたほうが、オーナーさんのモチベーションを維持しやすいんです」。
山本氏には「いくら店長といっても所詮は雇われなのに、本部は本当にうるさい。しかもごちゃごちゃいう癖に、責任だけはこっちに取らせようとする」というECC時代の不愉快な思い出があった。加盟店に寄り添ったサポートの重要性に早くから気づいていたのは、そうした経験をしていたからだ。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏登場。
本文より~飲食業で名をあげる社長には多才な人が少なくないが、その中でも三木智映子氏のプロフィールは群を抜いている。
全米女子プロゴルフ協会(USLPGA)と、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)のティーチングプロフェッショナルA級資格を持つ世界でただ一人の女性にして、40年の歴史を誇るイタリア料理専門店・ミキインターナショナルの二代目社長。2021年開催の東京オリンピックゴルフ競技のテクニカルオフィシャルに指名される一方、在日イタリア商工会議所からは、『男性優位の日本の飲食業界で、女性ならではの感性とセンスを生かし、イタリア料理界に影響力を持つ女性経営者のひとり』として第1回「Phenomena賞」を授与されている。
ゴルフとイタリア料理。全く異なる2つの分野でプロとして活躍するのだから、どれほど切れ者の女性だろうかと思いきや、取材では開口一番「私はやんちゃで、すっごくおてんばでした(笑)」と屈託のない素顔を覗かせる。
それでは、「子供の頃は庭の木や塀に登ったり、木から木へと飛び移ったりして遊んでいた」という彼女のドラマティックな半生を見ていこう。
智映子氏の父・三木忠彦氏が「スパゲティーファクトリー」をオープンしたのは、今からおよそ半世紀前。和風アサリや明太子、納豆など和風スパゲッティだけで100種類ものメニューがあふれ、そのジャンルの先駆けとして一世を風靡した名店である。寡黙だがインテリアセンスが抜群で、数字にも才覚があり、およそ10年で4~5店舗を構えるほどに成長した。
「でも、料理人たちにこう言われたんだそうです。『スパゲッティはイタリア料理なのに、僕たちはスパゲッティしか作れない。しかも和風しか作れない。僕たちはスパゲッティ以外のイタリア料理も作りたい!』って」。
従業員の切なる訴えを機に、本格イタリアンの道に進むことを決意した忠彦氏が目を付けたのは、イタリア料理「カプリチョーザ」だった。忠彦氏は飲食業界に入る前はインテリア会社に勤務していた背景があり、カプリチョーザ本店の設計をさせてもらった関係だった。今では国内外に100店舗を構えるものの、当時はまだ渋谷の1店舗だけ。そこに料理人を送り本場のイタリア料理を学ばせた。
1985年には株式会社 ミキインターナショナルを設立し、今では伝説の名店と謳われる「パッパガッロ」を世田谷代田の環七沿いにオープン。元JALのグランドホステスで接客や折衝が得意だった智映子氏の母が社長に就任し、以後同社を拡大させていくことになる。
「円筒形で目立つ建物だったのですが、初めはお客様もまばらで。当時まだ小さかった私は、サクラとして毎日のようにお店に連れて行かれました。最初は美味しいものが食べられて嬉しかったのですが、さすがに毎日となると、大好きなアイスクリームさえ残すという、食いしん坊の私としては衝撃の出来事がありました」。
娘のサクラぶりが功を奏したかはともかく、「パッパガッロ」の人気は80年代に起こったイタ飯ブームに乗り上昇、テレビや雑誌に何百回も取り上げられ店はますます繁盛していった。
この第一号店の成功により、ミキインターナショナルも店舗を増やしていったが、日本の至る所でイタ飯屋が増えていった。そこで、他社との差別化を考え、「“本場・本物”に徹底してこだわる」というミキインターナショナルの基本方針が確立。今も料理人をイタリアの提携店で修業させ、日本流にアレンジしない本場に忠実な味を再現。そしてホールスタッフにはお手本とするイタリア本場の店舗と同じおもてなしを学ばせている。
さて、今回の主人公である智映子氏に話を戻そう。
三木家の第二子として誕生した智映子氏は、前述のとおり木登りが得意なおてんば娘だった。母は兄の教育にことさら熱心な一方、娘に対しては放任、さらに通っていた小中高一貫校が自由な校風だったこともありのびのび育った智映子氏だが、幼いころから「三木家のお嬢様」という扱いには我慢がならなかったという。
「祖父や両親はすごいかもしれないけど、私は私。私自身を見て欲しかった。だから『自分の力で生きていこう』って、ずっと思っていたんです」。
高校入学後は傘屋でアルバイトを始めた。当時はバブル経済に突入したばかりで値の張る傘が飛ぶように売れ、雨の日には傘の売り上げだけで100万円に達したと話す。月々のバイト代が10万円を超えていたというから、なんとも景気のいい話ではないか。ただ、アルバイトにのめり込みすぎて、高校を欠席することもあったらしい。ところが、もともと放任主義の両親のみならず、学校からも注意されることはなかったそうだ。
「高校の同窓会で、当時の担任の先生に『あの時、なぜ私のことを注意しなかったんですか?』って尋ねたんです。そしたら『お前のスイッチは俺が押してもダメだと思ってたからな。お前のスイッチはいつか入る、いつかやるヤツだって思ってた』って言われました」。
ひとたびこの“スイッチ”が入ると爆発的な力を発揮するのが智映子氏だ。たとえば、試合が秒で終わるほど下手だった高校時代のテニス部では、負けた悔しさから一人で猛練習を繰り返し、3年生の引退試合では見事すべて勝利を勝ち取っている。生来の運動神経の良さと負けず嫌いがうかがえるエピソードだ。
女子大に進学した智映子氏は、ゴルフ部の美しくきらびやかな先輩たちやユニフォームの可愛らしさに惹かれ、幼少期から時折言われていた「智映子はゴルフに向いていると思う」という父の言葉をきっかけに入部を果たす。高校時代はアルバイトに明け暮れて父親と少し距離ができていたが、父親は大喜びしてゴルフレッスンにも通わせてくれた。
「ただ体育会系にありがちな理不尽なルールが多くて、一年生はいつも走らされてばっかり。『もう走りたくない。スポーツは実力の世界だから、まっすぐ、圧倒的に遠くへ飛ばしさえすれば、私も歩けるはず!』と思って、人一倍練習しました。それで、いつの間にかすごく飛ぶようになっていたんです」。
それからはぐんぐん腕を上げ、一年生ながら学外の試合にも出場するほどになった。しかし、18歳でゴルフを始め、強豪校の選手でもない智映子氏のことなど誰も知らない。そのため、試合で無視されることも少なくなかったそうだ。
「ここは実力の世界。実力を示して、相手が会話したくなるようにすればいいって、また練習を重ねました」。
彼女のゴルフに対する“スイッチ”が、こうして「ON」になった。
さらなる高みを目指し、智映子氏はアメリカ西海岸にある世界最高峰の「レッドベターゴルフアカデミー」に通い始めた。ゴルフ部に入って初めてのラウンドは150台だったスコアもわずか1年で90~80台、翌年には70台を叩き出し、メキメキと腕をあげていく。大学4年春と秋の大会ではフィールドでのベストスコア、メダリストも獲得した。プロの道を選んだ彼女は大学卒業と同時に渡米するが、猛反対していた母はそれ以降一度も連絡をくれなかったという。
LPGAの下部ツアー「ミニツアー」(野球でいうマイナーリーグ)に参戦して約3年が過ぎ、智映子氏のゴルフ人生は最高潮に達していた。そして「さあこれからトップツアーに参加しよう!」という矢先、人生最大の不幸が彼女を襲う。それは高速道路上の事故だった。まっすぐ運転していた智映子氏の車に左車線の車が後方から追突した。ハンドルを握っていた左手の関節が一瞬で7つずれた。ゴルファーの命ともいえる左親指を大きく損傷し、ツアープロへの道は完全に絶たれた。全てに絶望して泣きながら実家に電話した智映子氏に、母はこう言い放った。
「せっかくそこまでいったんだから、何らかのカタチにしてきなさい」。
母の厳しい言葉に智映子氏は、悲しさから一転、できる事に目を向けられるようになった。選手として習っていたアカデミーの先生を訪ねる。すると、「智映子はティーチングが向いている」という意外な言葉が返ってきた。こうして新たな希望を抱いた彼女は、指導者として再びゴルフと向き合う決意をする。その後は修練を重ね、ついに日本人で3人目(当時)となるUSLPGAのティーチングプロ資格を取得した。しばらくアメリカ西海岸でレッスン活動をし生徒が増えていたが、先代の社長である母の病気を告げられ、帰国を決意する。
帰国後にはJLPGAのティーチングプロ A級資格も取得し、ゴルフ指導の道に進むつもりでいた智映子氏だったが、母の急死を機に人生で三度目の転期を迎えることになる。それは二代目としての社長就任だった。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)