2020年6月23日火曜日

株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バンズダイニング 代表取締役社長 塙 良太郎氏登場
本文より~

東京進出と、不動産事業の本格始動。

前回(2011年)、ご登場いただいてから9年が経つ。すでに50歳を超えたが、益々、意気軒昂だ。2011年、当時と比べ、事業も格段に厚みを増している。
2013年、ホームグラウンドの千葉から離れ、東京に初進出。「湯島にある不動産を買いました。おなじ年の9月には日本橋に2つの大型不動産を購入し、以前からやりたいと思っていた不動産事業を本格的にスタートさせます」。
飲食では9月に「FRENCH BAR KOUZO」、10月に「BISTRO KOUZO」、11月に「炙りや幸蔵」を次々、オープン。翌2014年1月には、社名も現在の「株式会社バンズダイニング」に変更する。
「バンズは『絆』という意味です。お客様との絆、従業員との絆、地域やお取引先様との絆を大事するという、我々の事業理念を表現しています」。
グループの事業は、前述の不動産に加え、製造業も行い、飲食と合わせて、三本柱の構成となっている。
「ストックビジネスの不動産事業を行っているから、飲食事業のアクセルも思い切り踏み込める」と塙氏。いわば、これが、塙氏のビジネススタイルである。
「飲食にとって、家賃は大きなコスト。千葉で飲食をやっていた頃から、もったいないと思っていたんです。でも、ビルを所有していると、家賃の意味も違ってきます。無駄にならない。たとえば、融資を返済する原資になるわけです。だから、多少の無理もできる。フローとストックをぐるぐる回すことで、事業的にも、経営的にも安定成長が実現できる。それが、うちの戦略です」。
いまや30物件以上の不動産を、都内や仙台を中心に所有しているというから驚かされる。経営者であると同時に、すでに自他ともに認める資産家でもある。
飲食店でいえば、現在合計22店舗。うち9店舗が、自社物件で営業を行っている。むろん、オーナーの意向に左右されず。フリーハンドで経営できるのも大きなメリットだ。
それにしても、2013年から現在(2020年)まで、7年しか経っていない。大胆な戦略が功を奏した結果だが、そう簡単にできるものではない。実際、この7年の軌跡の向こうには、塙氏が「東京のおじさん」という師匠の存在がある。
「母方の親戚で、仲人でもあり、うちの会社の会長です。私の人生にとって、いちばん大きな存在ですね」。たしかに、この「東京のおじさん」がいなければ、「塙スタイル」のビジネスは、とっくにとん挫していたかもしれない。

宴が終わり、生活費は1日300円。

塙氏は、第一回の東京オリンピックが開催されてから3年が経った1967年、千葉に生まれている。小・中は勉強と部活、生徒会に明け暮れ、成績はいつも校内で1、2を争っていたそうだ。
大学は、慶応義塾大学。卒業後は、大好きな千葉に役立ちたいと、千葉県の県会議員の、議員秘書になっている。将来は、政治家という目標があったのかもしれない。
秘書時代は5年に及ぶ。ただし、この間、バブルが弾け、宴が終わる。多くの企業が行き先を失うなかで、今まで躍進をつづけていた父親の事業もまた破綻する。
「私は秘書をつづけながら、父の事業を継ぐんですが、その時、会社にあったのは総額8億円の借金と揉めごとだけでした/笑」。
8億円。いくら坊ちゃんだったといっても、20代の若者にイメージできる額ではない。社長になり、最初にしたのは、「金融機関詣」と塙氏。ひたすら頭を下げ、返済猶予をお願いしたという。
「でもね、頭をさげても、うまくはいくわけじゃない。当時の会社は年間4000万円の赤字を垂れ流していました。利払いだけで月360万円です。生活費も捻出できなくなり、1日換算300円です」。
缶コーヒー3本も飲めない。
「でもね。昔から人が大好きだったんですね。だから、救われた。経営していたお店に出るとイヤなこともぜんぶ忘れることができたからです」。
塙氏、25歳の時の話である。
秘書の仕事もおろそかにできない。もちろん、継承した事業もだ。
「心を込めた」と塙氏はいう。
「飲食店も、父の事業の一つです。学生時代からバイトをしていたもんですから、ある意味、バイトの延長です。だから、こんな事態にならければ、お客様がいかに大事な存在か気づかなかったかもしれませんね」。
「『おー、がんばっているな』。お客様からいただく、その一言がどれだけ私のパワーになったことか」とも語っている。
とはいえ、店をでれば、現実が襲いかかる。
不安と将来のビジョンを描けない長く厳しいトンネルの中で、もがき苦しんだ。
しかし塙氏は「泥水をすすり、ゴキブリにでもなってやる」と強い意志を持って、爪に火を燈しながら身を粉にして働き詰めに働いたそうだ。
その結果、4000万円の赤字を垂れ流していた会社が、翌年には3000万円の黒字を叩きだすまでに回復している。このパワーもまた凄い。
数年をかけて借金の返済も進み、2002年には銀行が融資をしてくれるまでになったそうだ。
資金もそうだが、何より諦めない心や経験、そしてお客様や人材、人脈という大事な財産ができたのが大きかったのではないか。「絆」の始まりは、この時かもしれない。ともかく、このようにして8億円の債務超過を抱えスタートした塙氏の苦難の第一幕は閉じる。以来、塙氏の店は、千葉でもっとも愛される店に育っていく。
そして、冒頭の2013年の話につづく。

「眠れない日々の話」のつづき。

窮地を脱し、快進撃を始めた塙氏だが、その裏では、眠れない日々がふたたび始まった。
「2013年ですね。冒頭でも言いましたが、不動産事業を本格化させる一方で、新たに飲食店も6店舗出店しました。この投資で、7億円の借金が追加されました」。
25歳の時の8億円に匹敵する額。「のるか、そるか」の一大勝負を挑んだのは、むろん、塙氏自身。
「あの時は人生でいちばん、きつかったですね。励ましてくれるのは、おじさん1人です。成功者の言葉ですから信じないわけではないんですが、返済しようにもお金がない。だから、また借りる。借金が、どんどん膨らみます。おじさんがいくら『大丈夫だ』って言ってくれても、このまま破綻してしまうんじゃないかって」。
夜も眠れない。
「実は、2番手だったスタッフが辞めてしまうんです。追い打ちですね」。何につけ、口うるさくなったからだと塙氏。今では、冷静に反省もできるが、当時は、そんな余裕もなかったはずだ。
どうなる、どうすればいい。
「5年くらいつづいたかな。ただ、慣れってあるんです/笑。案外、大丈夫じゃないかなって。そんな風になっていた時かな。テレビを観ていて…」。
IOCの総会でTOKYOと宣言される。2020年、東京オリンピックが決定した瞬間だ。経験者である「東京のおじさん」の言葉は正しかった。
「もう、狂喜乱舞ですね」。ついに、ストックビジネスの花が開く。「これで、助かった。もう大丈夫だ、と。奥さんを起こして、もう大丈夫だから、と/笑」。
いうまでもなく、不動産価格が上昇する。
・・・続き

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