2020年1月23日木曜日

株式会社ワイエスケー 代表取締役社長 山岸裕明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ワイエスケー 代表取締役社長 山岸裕明氏登場
本文より~

経営者の椅子に座ったのは、22歳の青年社長。

「YSKの歴史は、私の祖父が創業した10坪の小さな米屋から始まります」。ホームページのメッセージは、そんな一文から始まる。
2代目となる父親がパン屋をスタートし、昭和51年にセブンイレブン五反田店をオープンする。西暦でいえば1976年。山岸氏によると、コンビニという言葉もなく、セブンイレブンの店舗自体、100店舗程度だったそうだ。今や2万店を超えているのだから、走りの、走りということだろう。
「私が20歳の時に父が他界し、父の跡を継いで、私は経営の道を歩むことになります」。セブンイレブン1店舗。のちに山岸氏は、ゼロからラーメン店を立ち上げるのだが、そもそも経営者としてもゼロからのスタート。予行演習もなにもない。いきなり、実戦に身を投じる。
「私が大学を卒業するまでは、母の義理の弟さんが手伝ってくれましたから、それなりの準備はできましたが、1店舗といっても経営はたいへんです」。
「もっとたいへんになったのは、なんとかやりくりし、もう1店舗を出店し、社員数も4名になった、そんな頃ですね。ある銀行の支店長がささやくんです。『山岸さん、これはいい条件です。値上がりします』って/笑」。
山岸氏が29歳の時というから。1990年。いうまでもなく、バブル経済のなかで、人間がもっとも浮かれた年だ。「20坪の土地です。アホだから、最高値で買っちゃいました」。
浮かれて買ったが、数年後、買値の1/4になる。
「あれだけ勧めた銀行さんですが、そうなったら冷たいもんです/笑」。正確な金額は聞かなかったが、想像はできる。返済だけで、とんでもない額になったはずだ。「セブンイレブンの利益だけじゃぜんぜんおいつかなかった」と山岸氏も語っている。
「あの時はね。もう、毎日、どうしようかの連続です。すでに完済していますから笑って言えるんですが、当時は、きつかったですねぇ」。
それ以降、山岸氏は、一切、融資を受けたことがないそう。それだけつらい経験だったわけだ。
ただし、その苦しい何年間の間に、未来の芽も生まれている。
「30歳の時ですね。もともとうちは米屋でしょ。その頃も細々とですが、アルバイトを採用して配達だけはやっていたんです。10坪だから、コンビニにも転用できない。でも、米の配達だけじゃ儲からない。それでは借金の返済ができないから、思い切ってなにかできないかと思ったんですね」。
その時、思いついたのがラーメンですか?
「そうなんです。ラーメン店だったら、10坪あれば充分だし、うまくいけば行列だってできる。うちの土地だから家賃もいらないから、リスクも少なかったわけですね」。
社員に諮ってみる。その場は、笑い話で終わったそうだ。
「だって、だれもつくったことがないし、ぜんぜんリアリティがない。『社長がするんですか?』『それとも?』。料理がうまそうなのはだれもいない。だから、笑い話にしかならなかったんですね」。
しかし、山岸氏は、笑っていなかった。行列ができれば、借金の返済も進む。コンビニとラーメン店は、おなじサービス業。やってできないことはないはずだ。

飲食経験ゼロでラーメン店、開業。無謀か、英断か。

「やると思ったものの、私は、飲食の経験がぜんぜんなかったんです。頼りになりそうなのもいない。シェフを採用する、そんな余裕もないわけです。そんな時、飲食の専門誌に繁盛しているラーメン店が取り上げられていたんですね。その記事に取り上げられていたのが、ホイッスル三好さんだったんです」。
じつは、社長の三好比呂己氏と面識があったそうだ。すぐに記事に掲載されていたホイッスル三好の経営者、三好比呂己氏の下に向かう。藁にもすがる思いだったのではないか。
この思い切った行動は「吉」とでた。
「三好さんっていうのは、人がいいんですね。しかも、三好さんもゼロからの人だから、私とおなじ。だから、そんなのは無謀だとはいわず、1ヵ月、ちゃんと教えてくださったんです」。
むろん、その時の恩は今も忘れていない。
しかし、すごい行動力だ。人間、追い込まれれば、ちからがでる。
とはいえ、1ヵ月。どうなる?
「コンビニも、サービス業です。しかし、おなじサービス業でも飲食はちがいます。だけど、当時の私は、素人集団でもなんとかなるだろうって。そういう意味では、多少は楽天的なところもあるんでしょうね」。
いや、かなりの楽天家だ。ただ、当時は、何もしないという選択肢がなかったのだろう。けっきょく、どうだったんだろう?
「最初の半年くらいは、苦しかったですね。赤字がつづいたと思います。でも、そうですね。ギリギリ赤って感じですね。ただ、1年くらい経った頃には、いままで想像の世界だけで観ていた行列がうちの店にもできはじめたんです」。
成功の鍵は?というと、山岸氏は「マーケティング戦略」を挙げた。
「私たちが得意としたのは、マーケティング戦略です。だれもがイメージが湧き、食べたこともある。しかし、マーケットがない。そのマーケットをつくりだすこと。それが、私たちの戦略でした」。
「広州市場」のワンタン麺ですね?
「そうです。ワンタン麺の認知度は高いです。にもかかわらず、食べるかと聞かれたら、たいていの人が『あまり食べない』と答える。なぜか、といえば、専門店がないからです。私は、そこに、素人集団でも勝てるチャンスがあると思ったんですね」。
つまり、ワンタン麺がキラーコンテンツ?
「そうですね。ほかでは、食べられない商品を軸に、私たちの戦略は成り立っています」。
戦略の意味はわかった。しかし、いかに戦略にマッチした商品であっても、旨くなければ、心は動かせない。そう思ってホームページを観ると、頭ではなく、からだが反応した。旨そうなのだ、ワンタンが。こりゃ、行くしかない。

受け継がれているチャレンジ精神。

2号店のオープンは、案外遅く6年経ってからだそう。その間にセブンイレブンを、もう1店舗オープンしている。2軸だからといえばそうだが、実際、どうだったんだろう?
「私はもう借金ができない体質ですからね/笑。融資もお断りです。だから、そのぶん、時間がかかったと思います」。
現在では、広州市場」のほかに「HOT SPOON」などの別業態もリリースしている。
「HOT SPOONっていうのは、ちょっとの間ですが、広州市場を別のところで、間借りしてやっていた時があって。そちらを撤退しようとしたら、オーナーから『もうちょっとの間、借りてくれないか』って言われて。それで、『じゃぁ、カレーだろう』と。ラーメンの次っていえば、カレーだっていう、私の短絡的な発想です」。
今度も、社員に諮った。「15名くらいになっていましたね。カレーをやるけど、みんなどうだ。やりたい奴はいるか?っていったら、1人、24歳の青年が手を挙げるんですね。『オレにやらせてください』って。でも、そいつも料理の経験ゼロだったんですね/笑」。
当の本人(Hot Spoon 五反田店/店長、飯嶋玄考さん)は、ホームページで当時の心境を語っている。「私の立ち位置は4、5番目だったんです。だから、待っているだけでは店長にはなれないだろう、と。それで、手を挙げたんです」。
「もちろん、私も素人。調理経験もほぼなし」と話している。思わぬところで山岸氏のチャレンジ精神が受け継がれた格好だ。
「今でも笑い話です」と、山岸氏。どういうことかというと、最初の試食会が、散々だったらしい。「社員全員で、試食会をやったんですが、まずいとか、そういうレベルじゃなくって…」。
一口食べて、全員が黙ったそうだ。
「試食会を終わってから、本人と2人でね。『こりゃ、やばいぞ』って頭を抱えます。それからですね。本を何冊も購入して、有名店でカレーを食べまくって。奴もまだ若いからできたことですね。ええ、おかげさまで、こちらも今では繁盛しています。『牛すじ煮込みカレー』が思わぬヒット商品にもなって」。
現在、広州市場6店、Hot Spoon 4店ほか、居酒屋とバルを経営している。むろん、セブンイレブンも継続中である。
・・・続き
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