2018年11月1日木曜日

株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社パズルフードサービス 代表取締役 奥村 啓氏登場

本文より~

高校生まで。

今回はご登場いただいた奥村氏は、1967年2月7日、愛知県の東部に位置する新城市(当時は南設楽郡鳳来町/2005年に編入合併)に生まれる。
ご両親と兄と妹の5人家族。少々、複雑な家庭で、実母は、奥村氏が生まれた頃に他界されている。当然、今の母は義母で、その親子の関係が、多少なりとも奥村氏の人生に影を落としている。
「兄が頭のいい人で、その兄とことあるごとに比較されて育ちました。でも、べつに兄弟の仲が悪いわけでも、義母との関係が悪いわけでもなかったんですが/笑」。
奥村氏が生まれた頃の、新城市はどんな街だったのだろう。
「今は、新城インターができたんで、もっと近いですが、昔は豊川インターが最寄りで、40分くらいかかりました」。
「小学校は、全校で生徒80人」とも言っているから、都会から離れた街だったのだろう。
この街で、義母は、実母の仕事も引き継ぐようにして、祖母といっしょに衣料店を経営した。父は、上場企業である「トピー工業」の豊川支店で勤務されていた。
奥村氏と言えば、とにかく、引っ込み思案で、素直だったそうだ。
ただ、引っ込み思案と言いながらも、小学生時代から副児童会長を務めている。
「中学からテニスをはじめました。私とテニスがマッチしたんでしょうね。副キャプテンを務め、なかりいい成績を残しました。でも、いい成績を残したのに、高校に進学してもテニス部から声がかからない。『アレ?』って感じで。ハイ、高校からは卓球です/笑」。
テニスや卓球をやりながら、実は、中・高でも生徒会の役員を務めている。みんなから推薦されるタイプなのだろう。ちなみに、高校での成績は入学当初13位。卒業する頃は30位。卓球や生徒会に奔走しながら、成績をちゃんとキープしているからすごい。
「すごいですか? なんだかんだいって、この頃がいちばんしんどかったですね。兄と比べられる。そのプレッシャーもハンパなかったですし、勉強の意味もわからなかった。親からも、みすてられていましたし…」。
「みすてられていた」と、奥村氏は辛辣な言葉を遣う。「高校時代には、もうもどりたくないですね」。その一言は、あながち、うそではないようだ。体より、心が疲れた3年間だったのかもしれない。

銀行、退職まで。

「高校を卒業したら、東京へ」と思っていた。
もっとも、父親からは「愛知大学へ行け」と言われていたそうだが。とにかく、早稲田、中央、明治を受け、なんとか明治の経営学部に滑り込む。
住まいは、三鷹に設けた。ちなみに、仕送り100,000円。当時なら、充分な額だ。
「そうですね。バイトはあんまりしてないですね。しないっていうか、できなかったというのが正直なところで」。
大学に進学すると、誘われるまま、すぐに合気道部の門を叩いた。女子もたくさんいたが、上下関係は、一般の部活動以上にきびしかった。返事に「NO」はない。
「私は、2年から明治大学の全部活43部をまとめる本部会に役員として参加します。たまたま輪番制でうちの部から1人ださないといけなかったんですね。それで、『奥村、行け』と/笑」。もちろん、「NO」はない。
有無もなく、参加した本部会だったが、ある意味、これが奥村氏の人生のターニングポイントとなる。
「学園祭などのイベントの企画・立案・実行。学園祭ともなれば大学全体ですから、予算もかなりの額です。また、各部のキャプテンとマネージャーで行う合宿を企画・実行したのも、いい思い出ですね」。
思い出だけではない。社会にでてからも、そうそう経験できない大規模なイベントの企画や立案、実行を通して、ちからと自信を育てた。それは、独りで生きていくという自信を生み出したのではないだろうか。
やがて明治大学を卒業した奥村氏は、都市銀行に就職。融資課に配属され、高い成績を残したが、お役所的な上司をみて興味をなくし、2年で、その銀行を退職している。
・・・続き
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