2016年5月2日月曜日

株式会社マル安 会長 中山 望氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マル安 会長 中山 望氏登場。
本文より~

中国河南省。

中国河南省は、黄河の下流にあり、殷の都をはじめ、中国の歴史のなかでも重要な都市が置かれたところだそうだ。ちなみに、殷は紀元前17世紀頃に建国されたという。日本ではまだ縄文時代である。
さて、今回、ご登場いただいた中山氏が、この河南省に生まれたのは、1963年である。兄弟は3人で、弟と妹がいる。両親は学校の先生をされていた。中山氏が初来日したのは、23歳の時。1986年のことである。
「当時の日本は、バブルの只中です。私は、中小企業の研修制度に応募し、初めて日本に来ました。研修という名目ですが、人手不足の解消が狙いだったんだと思います」。
勤務したのは、沼津の水産会社。
「研修期間は1年でしたので、初めての日本はわずか1年です。ですが、この1年はとても濃い1年です。上司に銀座に連れて行ってもらったのも、この時です。衝撃を受けました(笑)」。
もともと中山氏は、研修団の副団長という肩書で来日していた。当時の中国は改革解放政策を行っていて、資本主義について学ぶことが一つの目的だったそうだ。
1年の研修期間を経て、帰国した中山氏は、今度は学留学生として再来日。それが26歳の時だ。
「当時の中国は留学ブームだったんですね。私は日本で、日本語学校に通いました。この時、ラーメン店や居酒屋、ホテルの配膳などのアルバイトを経験します。今の原点と言えるかもしれません」。

33歳、経営者への道。

「26歳で再来日し、いろいろなアルバイトをやりながら生計を立て暮らしました。33歳の時に、在日中国人の先輩に『店をやらないか』と声をかけてもらい、新宿歌舞伎町にあった和風居酒屋店の店主となります。同時に、内装業も開始しました」。
33歳、中山氏の人生が大きく動く時である。アルバイトから、経営者へ。結局、この時は失敗に終わるが、それも、一つの経験であり、財産となったはずである。
「内装のほうでは愛知万博にもかかわったんですが、どうもうまくいかない。結局、どちらも行き詰まってしまったんです」。
店も、内装事業も手放した中山氏は、中国人向けの新聞発行を手伝ったり、貿易の仕事に手を出したりした。
「やりたいと思ったことには、なんでもチャレンジしました。2005年、横浜市中区で料金均一の居酒屋をオープンしたのも、この挑戦の延長と言えるかもしれません。『遊食家 楽店』というお店です」。

料金均一。

中山氏は、「楽店」で2つの仕掛けをした。一つは、営業時間である。
「当時は、深夜帯に営業しているお店が少なかったんです。私は、歌舞伎町で店をやっていたもんですから、深夜帯にもお客さんがいることがわかっていました。だから、営業時間を深夜から朝9時までとしたんです」。
もう一つはすでに書いたが「料金均一」である。のち、この料金均一はブームとなるが、その先鞭をつけたのが、この中山氏がオープンした「楽店」である。
「もともとは、古民家風の高級なお店だったんです。しかし、もうバブルの頃でもないし、いわゆるデフレです。デフレ時代に、いままでと同じ発想では、通用しない。それで、思いついたのが、料金均一です」。
バブルの頃から日本に来た中山氏は、日本人以上に日本を観てきた人である。
「いまでは、かなりの数になりましたが、当時、何百円均一なんてお店は、まだまだ少なかったんです」。
デフレの風に乗った。「料金均一」と銘打ったお店は、すぐに客の心をつかんだ。営業を開始すると同時に、客が殺到する。ようやくつかんだ勝機である。

・・・続き

株式会社マル安 会長 中山 望氏
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