2016年5月2日月曜日

株式会社エキサイト 代表取締役社長 井口孝志氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エキサイト 代表取締役社長 井口孝志氏登場。
本文より~

ラグビー少年、船に乗る。

中学からラグビーを始めた。中学2年からは、スクールに通うほどのちからの入れようだった。
「札幌で唯一、花園に出ている公立高校に受かるために勉強もしました」。花園とはいうまでもなく、高校ラグビーの聖地である。
「私が進学したのは、札幌では毎年優勝している公立学校です。でも、あくまで札幌での話で、毎年、札幌ではいちばんでしたが、北海道の大会では勝ちきれず、ついに花園の切符は手に入りませんでした」。
今回ご登場いただいた、株式会社エキサイトの代表取締役社長、井口孝志氏は1974年7月2日、札幌市に生まれる。小さな頃はからだが大きかったが、中学では背丈が伸びず、ラグビーではフォワードのなかでも、小柄な選手が多いフランカーというポジションだったそうだ。
大学でも、ラグビーをつづけた。
進学したのは、現東京海洋大学。船舶関係の国立大学である。この大学にもラグビー部はあった。だが、井口氏いわく「伝統はあったが、弱い大学だった」そうである。
大学の4年間は、寮生活を送っている。「バイトは、基本、船関係しか許されません。私も、港湾などでバイトをしました。海洋にも出ます。ある意味、優遇されていました。学費も安いし、大学生活の最後には国からお金をもらって、76日かけ世界一周もさせてもらいました」。もっとも4人で暮らす寮生活も、船のうえの生活も、過酷だった。海洋に出ると、海が荒れ、甲板で波にさらわれそうになったこともある。卒業生の1/3~1/2は、外航船などの船乗りになった。
しかし、井口氏は、技術系の仕事に就くため大学院に進んだ。船乗りにならなかったのは、船酔いがきつかったからだそうだ。とはいえ、この4年間は、井口氏の視界を広げた4年間ではなかったか。いままで経験したことのない、息が詰まる寮生活もそうだし、世界一周も、その要因の一つである。
ラグビーで鍛えたからだがモノを言った4年間ということもできるだろう。

日揮、入社。インドネシア、滞在。

「就職したのは、日揮」と井口氏はいう。日揮といえば、世界的なエンジニアリング会社である。「私の動機も、日揮なら、『船より大きなモノがつくれる』でした。スケールの大きさに惹かれたんです」。海外に行けることも、動機の一つ。
「海外にはもともと興味があって、20歳の時に1ヵ月だけですが、語学留学もしました」。
「大きなモノづくり」「海外」。この2つが決め手となったそうだ。
狙い通り、本社で3年半勤務したのち、海外に旅立っている。
「インドネシアです。こちらで1年半くらい仕事をさせていただきました。日本人は私を含め8人、従業員は400名です。衣食住も手当され、60万円の給料とは別にお小遣いまで支給されました。でも、残念なことに街まで3時間。週末以外は、遊びにもいけませんでした(笑)」。
海外での暮らし。お金もあって贅沢な暮らしができたが、井口氏は「もういい」と思ったそうだ。その思いを証明するように、帰国後、「日揮」を退職している。会社勤めが、どうも性に合わなかったからだ。

1億円、5年分割で、「ひもの屋」を買った。

「海外が、もういいっていうより、やっぱりサラリーマンだとできることも限られてしまう。日揮にはむろん感謝はしていますが、もっと自由に海外とも接したかった。そうするためには、起業するしかありませんでした」。
「起業する」と、簡単に宣言しても、すぐにできるわけはない。この時、すでに井口氏は31歳。技術一筋のエンジニアである。できることも限られている。
「そうですね。ふつう、起業、独立なんていうと、すぐにできるわけはないと思われがちですが、私の場合は、案外スムーズでした」。
どういうことだろう?
「『つぼ八』を創業された石井誠二さんの本を読んで、すべてがスタートします。当時、石井さんは、八百八町を創業され、『八百八町』『ひもの屋』を展開されていました。ビジネスのスキームも独特で、私は、『ひもの屋』を1億円で買いました」。買った?「そう、5年分割です。もちろん、石井さんに認められた者しか起業でないスキームです。私は、何名もいた候補生のなかでも、いち早く起業させていただいた方です」。
井口氏と同様のスキームで起業した人もいたが、全員が成功したわけではないそうだ。「だめなら、店ごと石井さんに返すことになっていました。確率的には40人いて10人が成功するかどうかです。それでも、多くのチャレンジャーが挑戦しました」。

・・・続き

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