2015年6月30日火曜日

株式会社テイクユー 代表取締役社長 大澤 武氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社テイクユー 代表取締役社長 大澤 武氏登場。
本文より~

大人しい少年。

澤が港区青山に生まれたのは1968年の11月4日。昭和38年のことである。小学・中学、高校に行っても、どちらかといえば大人しいタイプの少年だったそうだ。
「小学校は公立で、中学から私立、日大の豊山中学に進みます。高校もおなじ系列で、エスカレーターで進学。大学も日大に進めたんですが、私が行きたい学部がなかったので、できたばかりの帝京技術科学大学(現帝京平成大学)に進学しました」。
できたばかりの大学。当然、一期生。寮に入り、仲間と語り合う日々が始まった。大澤にとってはすべてが新鮮に映ったに違いない。
学部は、経営情報学科。
「文系でも、理系でもない。パソコンはやりたかったんですが、理系ガチガチだとつまらないと思っていたので、ちょうど良かったんです(笑)」と大澤。
勉強も楽しくなり、それまで大人しかっただけの大澤が、少しずつ大人の姿になっていく。
 「元々、勉強は大きらいだったんですが、自分で選んだ学科だったこともあって、今度は勉強がたのしくなるんです。勉強するようになれば、成績もあがり、それが自信になる。好循環ですよね」。
4年生になった時には、教師を手伝い報酬をもらうまでになっていたそうだ。
「就職を前に『第二種情報処理技術者』の資格を取得。うちの学部でいちばん最初に取得したんですが、それが大きな自信になり、それまでの挫折感から解放されるきっかけにもなりました」とも語っている。
「小さな頃は、経営者になるなんて思ってもいなかった。もちろん、大学でもそうでしたが、その頃から起業家だった祖父ゆずりのベンチャー精神が少しずつ表にでてきたような気がしなくもないですね」。

電機メーカー入社。

頃はバブル真っ最中である。いわゆる売り手市場。特に、パソコン関係の知識を持った大澤のような学生は引く手あまただったのではないか。
「そうですね。ただ、当時から電機メーカーは人気でしたからそう簡単だったわけではないですよ。私は、たまたま希望通り就職することができましたが、何しろまだできたばかりの大学出身ですからね(笑)」。
外にも選択肢はあったそうだが、ほかのメーカーとは異なり、まだ社員数も少ないところに惹かれたのだという。たしかに祖父ゆずりのベンチャースピリッツが、姿を現した証拠だろう。
一方、勉強嫌いだった少年時代の面影はどこかに消えてしまった。「大学時代から勉強が好きになって。入社してからも学ぶという意識はつねにあった気がします」。
入社後は希望をだし「システム営業部」に配属された。「コンピュータにも触れていたかったし、営業もしたかったから、その部を希望した」という。まだまだ希望通りの配属がかなう時代だったそうだ。

才能花ひらく。

遅咲きといっては怒られてしまうかもしれないが、大澤は、まさに「遅咲きの人」である。小中高と地中に埋もれ、開花する日を待っていたような…。花が開花すると、大澤はみちがえるような花を咲かし始める。
「システム営業部に配属されて半年くらいして、スーパー向けのシステムの担当になるんです。当時、スーパーに私の会社のシステムはまだ10台ほどしか納入されていなかったんですが…」。
大澤が日本を代表する量販店2社を新規で落としたことで、シェアはいっきにトップに躍り出た。
「新たな取引ですが、もともとコネクションはあったんです。そのコネも上手くつかって。そうですね。たいへんだったのは、社内営業ですね。顧客の要望をヒアリングして、社内にフィードバックする。聞くちからも大事だし、相手の話を把握するちからも大事です。幸い、私はシステムのことがわかるので、そういう知識を持っていたことで、社内とお客様をつなぐことができたんだと思います」。
年間、相当な取引額になった。社内でも、一目置かれた存在になったのではないか。一方、大澤は、それで満足していなかったようである。29歳、1998年、フランスで開催されたワールドカップを観て啓発を受け、今度は、「海外に、駐在させてくれ」と会社にかけあったそうである。むろん、海外経験はほとんどない。英語もまったくしゃべられなかった。
それでも数年後には、半月に2回は海外に出向くまでになる。香港、シンガポール、台湾、タイ、マレーシア、インド。
当時の肩書は、アジアエリア担当者である。この時の活躍ももちろん認められ、若くして課長に就任している。

・・・続き]

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