2015年6月9日火曜日

山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にあの埼玉ソウルフード『山田うどん山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗氏登場。
本文より~

「山田うどん」の始まり。

「『山田うどん』というのはね。もう、お客さんたちのなかでイメージがついちゃっているから」と言って笑うのは、4代目となる山田裕朗氏。
「イメージを打ち破るのが、なかなかむずかしい」という。「一度、似つかわしくないと思いつつ、パスタをやって大失敗。やはり、うちのお客さんはパスタを食べないことがわかりました(笑)」。
埼玉県人の胃袋をみたしてきた、県民のソウルフード「山田うどん」にも、やはり悩みの種はあるようだ。
「山田うどん」の1号店がオープンしたのは、昭和40年。昭和37年生まれの山田氏がもの心ついた頃には、「山田うどん」は「すっかり人気店になっていた」という。
「もともと所沢周辺は小麦畑だったんです。製麺所を造った曾祖父が、その小麦をつかって、うどんを作り卸したのが、うちの始まり。昭和40年頃になって、私の父親、つまり先代が『いいものをつくっても、スケールメリットには敵わない。どうせなら卸だけではなく店をつくって食べてもらおう』と始めたのが『山田うどん』。当時、うどんは1杯70円くらいだったんですが、『山田うどん』は1杯35円。すぐに行列ができるようになりました」。
1杯35円の山田うどんは、店舗数も、いっきに拡大する。
「いまでいうフランチャイズです。土地を持っている農家の人たちが、『うちにも、うちにも』といって、次々に『山田うどん』を始めるんです。FCという言葉もない時代ですから、ロイヤリティーもなし。ただし、『うどんはうちから』という契約だったそうです。親父が43年にアメリカに視察に行って、翌年から本格的にFC展開を開始します。店は加速度的に増え、最盛期には280店舗まで拡大しました」。
昭和40年代。上空からみれば、埼玉県内に「山田うどん」のキャラクターである<かかし>のマークが、加速度的に広がっていった様子がうかがえたはずである。
「絶好調だったんですが、昭和50年代になるとファミリーレストランが台頭してきます。それに対抗する意味で、うちも、うどん以外の、丼やカレー、またさまざまな定食を始めました。それを境に、それまでのFC店を直営に、順次、切り替えていったんです」。
単品だとオペレーションも簡単だが、メニューが豊富になると対応できないFC店が少なからずあったからだ。 また、この業態転換には、顧客の声も反映されている。「当時、うちの主力のお客さんは、ブルーカラーの人たちです。彼らが『作業着のままでは、ファミレスに入れない』というんですね。それなら、ファミレスに負けないような豊富なメニューをうちがだしてあげよう、と。そういう意味もあったんです」。
なるほど、庶民とともに歩く「山田うどん」の原点と言える話である。
ところで、昭和50年といえば、山田氏はもう13歳になっている。そろそろ、山田氏の話に切り替えよう。

偉大な父に反発する。

「キャッチボールは1~2回くらいかな」と山田氏は言う。「旅行は2年に1回くらい。親父もいそがしかったんでしょう。当時は、たいへんな時期だったんだろうし…。でも、子どもには、そういうことまでわからない。私は、四人兄弟の長男なんですが、長男ということもあったのでしょう。とにかく、私には厳しかった。そういうこともあって、私は小さな頃から親父に反発していたんです」。
「父親のイメージは?」と聞くと、<昭和生まれの、明治男>という返答。「私が、物心ついた頃には『山田うどん』は、もう有名だったわけです。私が、その店の長男だっていうのも、みんなが知っている。そういうのがイヤなんです。だから、とにかく目立たないように、目立たないようにしていました。当時の友だちは、私のことを相当な引っ込み思案と思っていたんじゃないでしょうか(笑)」。
それでも、中学になると生徒会長もしている。野球部では、レフトで、1番。
「昭和50年には、ニューヨークにも出店するんです。私は、普通でいいのに、親父の会社は、どんどん大きくなっていってしまう。学校の先生も『山田のうちは、な。ニューヨークにも…』、なんて話をするんです。そういうのも、イヤだった。こっちが目立たないようにしているのにね」。
反発しながらも、山田氏にとって父は偉大な存在だったはずだ。しかし、その観点から、父親をみることはできない。むしろ、偉大と思えば、思うほど反発してしまっていたのではないだろうか。

・・・・続き

山田食品産業株式会社 代表取締役社長 山田裕朗氏
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