戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
2026年1月7日水曜日
1月7日㈬、“zakⅡ” にサブスク大ヒット、町中華「福しん」「揚州商人」成功の秘訣の記事が掲載されました。
株式会社石橋正和 代表取締役 石橋正和氏登場。
“飲食の戦士たち”に 株式会社石橋正和 代表取締役 石橋正和氏を取り上げました。
店名の由来と“魚嫌い”だった少年時代。
「最初は『鮨 石橋』にしようと思っていたんです。でも、お寺で画数を見てもらったら『よくない』と言われて。それでフルネームにしました。フルネームの画数は、あえて聞かないことにしました(笑)」。
自身の名前をそのまま店名に掲げる――良いことも悪いことも、すべて自分一人で背負う覚悟の表明と言えるだろう。
今では江戸前鮨の伝道師として注目を集める石橋氏。しかし、子どものころは魚が大嫌いだった。その理由は、父の親戚が寿司屋を営んでいたから。父やその兄たちは埼玉県越谷市の店を手伝い、佐野で義父の世話をしていた母もたびたび加勢。夏休みには家族旅行よりも仕事が優先され、寿司と共にある生活に嫌気がさしていた。
小学4年生のころ。家の建て替えを機に、父は佐野で自分の店を開業した。自宅1階の寿司店はかなりの広さがあり、毎日のように手伝いに駆り出された。帰宅後は「牡蠣を剥け」「エビを処理しろ」と容赦なく父の指令が飛ぶ。寿司屋になんて絶対なりたくないと思うのも仕方のないことだった。
剣道の日々と目のケガ、アメリカへの憧れ。
小学生のある日、友人が投げた石が目を直撃。この事故が元で外傷性白内障を患った石橋氏は、大好きだった野球を断念、習っていた剣道も当時は諦めざるを得なかった。しかし、中学入学と同時に剣道の修練を再開。厳しい稽古と指導の下で心身共に鍛えられ、続く高校時代も迷わず剣道部を選択している。
武道に親しむ一方で、石橋氏はアメリカへの憧れを心に抱くようになる。音楽や映画を通じて知ったアメリカは、どうしようもなくカッコ良かった。高校留学は見送ったものの、いつかはアメリカへ。その想いは日を追うごとに強まっていった。
家に帰れば、相変わらず家業の手伝いが待っている。常連客に「ちょっと握ってみろ」と言われることもあり、上手くできないことへの悔しさから練習を重ねた。そうしていつの間にか魚の扱いを覚え、握りの基礎を学び、人前に立つ度胸も身についていった。
夢のアメリカ留学と現地での認識。
高校卒業1年後、石橋氏は渡米し、念願のアメリカ生活が始まった。
「嫌なことなんて一つもなかったですね。アジア人と軽蔑されることすら、むしろ面白かった」。
米国の大学で語学を学ぶかたわら、現地の寿司屋でアルバイトに励む日々。そこで気づいたのは、「アメリカは住むのは良いけれど、仕事をするところではない」ということ。現地の文化風習や国民性を見抜く力は、石橋氏の才能のひとつだ。
鮨を握ることは音楽と同じ。
アメリカ生活も5年が過ぎ、大学卒業を控えた石橋氏が就職先に選んだのは、銀座の名店「鮨一」だった。あれほど寿司屋を嫌っていたのに、なぜ父と同じ道を選んだのだろうか。
「言葉だけで意思疎通するのって、難しいじゃないですか。でも寿司って、お客さんが目の前にいて、自分の拙い英語にも耳を傾けてくれる。それって音楽と一緒だと思ったんです。僕、バンドでライブもやっていたので」。
エンターテインメントの国アメリカで培ったこの感覚が、海外出店を成功に導く鍵なのかもしれない。
経営方針の相違と独立への転機。
「給与面でも恵まれていましたし、独立という選択肢は頭にありませんでした。ただ、オーナーと経営に関する考え方が少しずつすれ違うようになり、あるとき「それならば自分でやろうかな」と思い立ちオーナーに伝えました。とはいえ、常務兼総料理長という立場で、海外進出に関する業務もすべて任されていましたので、実際には責任を果たしてからでないと退くことができませんでした」。
2017年3月。ようやく退職できた石橋氏は、実家のある佐野市に戻る。ところが父の店に往時の勢いはなく、これはまずいと直感。知人に打診され視察に訪れたロンドンでも、いまひとつピンとくるものがなかった。
そんな矢先、とある税理士が「融資を受けて独立しては」と助言してくれた。彼の後押しを受け銀行と公庫から計3,000万円の融資獲得に成功、新たな物件探しが始まった。麻布十番に手ごろな物件を見つけたものの、諸事情により断念。次に目を付けたのは銀座のビルだった。
「麻布十番の物件を見て『あ、ここだ!』って思ったのにダメだったときは、ショックでしたね。ここ(銀座のビル)は日祝は完全閉鎖だし、平日も夜中3時には絶対出ないといけないんです。でもノーチョイスといいますか。僕、わりと行き当たりばったりなんですよ」.
店づくりにこだわったため、融資はあっという間に使い果たしてしまう。こうして2017年11月、「鮨 石橋正和」は運転資金ほぼゼロの状態でオープンした。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
今年で9年目の福利厚生。
2025年12月25日木曜日
働く社員がより充実してもっと仕事に頑張れるようにと…。
キイストンでは、労災保険の他に「ハイパーメディカル」(AIG損保)に2018年から加入してます。
この補償は、仕事中はもちろん勤務外の事でも、保険が下りるようになっております。
私も含め、活用しとても助かってます。
従業員抱えてる経営者の方に、おすすめです。
また、Netflix見放題のベネフィットワンにも会社負担で加入し、年末のおせち料理はもう7〜8になりますが、各社員の家庭(親御さんに贈る人多い)に届けてます。
キイストンで当たり前にやってることが、他社ではあまり聞かないので、在籍してるとその手厚さわからないかも(笑)。
2025年12月24日水曜日
2025年もあと少し。
2025年もあと1週間を切りました。
この1年振り返ると改めて人的ネットワークと損得よりも役に立てることを優先に考え長い付き合いがとても大事で、それが体現された1年でした。
1.人を増やさずしても売上上がるのがわかった。
2.営業力なくても真摯に対応すれば仕事になる。
3.「飲食の戦士たち」を続けてきたおかげで、新しいもの、新しい出会いが自然に増えてきた。
4.AIが劇的に進歩してるので、さらにビジネスチャンスが増えた。
5.部門分けて戦略考えることで具体的な動きに繋がった。
6.大きな風呂敷広げるより堅い目標を確実に作ることが結果早速に繋がるイメージができた。
※気持ちはいつも大風呂敷ですが(笑)
これも社員、外部ブレーン、商材提供企業様、取引先様、「飲食の戦士たち」掲載企業様、これに元キイストン卒業生のおかげ。
2026年は新しい試みを2〜3スタートさせます。
楽しみ・楽しみ!
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
2025年12月23日火曜日
株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏登場。
“飲食の戦士たち”に 株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏を取り上げました。
キーコーヒーとイタリアントマト。
今回、舞台となるイタリアントマトが創業したのは1978年6月。JR「八王子駅」前に1号店がオープンした。1980年代には「イタトマ」の愛称で若者から親しまれていた。
今回ご登場いただいた株式会社イタリアントマトの現代表である小澤さんも「大学生の頃、デートといえばお洒落な雰囲気にひかれてイタトマに行った」と言っている。
このイタリアントマト、現在はキーコーヒー株式会社のグループ会社。実は、小澤さんはキーコーヒーの副社長でもある。
「キーコーヒーは1920年、今から105年前に横浜で創業しました。コーヒー豆の輸入・卸を本業にスタート。当時、コーヒーは高級品で、有名な百貨店やレストランが主要なお客様だったそうです。私がキーコーヒーに新卒で入社したのは1982年です」。
一方、イタリアントマトの創業は1978年。最初から資本関係があったわけではない。
「1986年、ナムコさんがイタリアントマトを買収します。イタリアントマトはキーコーヒーの取引先でしたから、ナムコさんとのお付き合いがスタートします」。
「あれは、日本でもセルフカフェが流行の兆しを見せていた90年代半ばのことです」と小澤さん。
「外資系の大手カフェチェーンが日本にも入って来ていましたので、日本でもセルフカフェが流行しそうだとナムコさんと話をして。だったら、やりましょう、と。五分五分の出資で、株式会社アイ・アンド・ケイ(I&K)を設立して、セルフカフェの『イタリアン・トマト カフェジュニア』(以下「カフェジュニア」)の展開を始めます」。
小澤さんも、主要な人物として関わっている。
「1982年に入社した私は、営業所に9年間いて、10年目から本社で仕事をしています。営業所のときは個人の喫茶店が対象で、本部に異動してからは法人が対象です。『カフェジュニア』はフランチャイズ方式で展開していくんですが、メニューづくりからFC展開まで、すべてキーコーヒーが協力・主導していました」。
小澤さんは、営業として飛び回った。
「そうするとですね。300店舗くらいになって、親会社のイタリアントマトの店舗数を上回ってしまうんです。人間だと、子が親より大きくなるのは自然なことですが、ビジネスですからね。整理する必要があるということでイタリアントマトがI&Kを吸収合併します」。
その時点で、キーコーヒーの資本がイタリアントマトに入る。「I&Kは、5分5分の出資だったのが、イタリアントマトの株式が加わったので、キーコーヒーの比率は30%くらいに下がりました」。
これが、2002年9月のこと。小澤さん42歳。2005年4月になると、ナムコが保有していたイタリアントマトの株式をキーコーヒーに譲渡。イタリアントマトはキーコーヒーの連結子会社となる。
翌月の5月2日、ナムコとバンダイが経営統合を発表。「そう、それで、9月29日に『株式会社バンダイナムコホールディングス』を設立されたんです」。
その後、2024年1月12日、バンダイナムコは保有していたイタリアントマトの全株式をキーコーヒーに譲渡。これによってイタリアントマトとキーコーヒーの関係はより深くなり、現在は完全子会社となっている。
このときの社長は、小澤さんである。
「グループ内にカフェをもつことで、リアルな情報収集ができ、キーコーヒーのお客様への提案にフィードバックできるようになりました。今では、イタリアントマトのほかにも、1946年創業の老舗洋菓子店『アマンド』や『銀座ルノアール』、直近では京都の有名店、老舗喫茶『イノダコーヒ』などもグループに仲間入りし、カフェ事業を拡大しています」。
キーコーヒーでも副社長を務める小澤さんのハンドリングが、キーコーヒーの飲食事業拡大のカギを握っている。
「まさか、これほど長くキーコーヒーとお付き合いをつづけるとは思っていなかったんですけどね」。
副社長の小澤さんは、そう言って笑った。
数学の神様。
小澤さんが生まれたのは1960年。東京板橋出身。「両親が福島からでてきて、結婚して、私たち姉弟が生まれます」。
「福島には今も本家があって、親戚もたくさんいます。何しろ親父は7人兄弟だし、母親の方も兄弟が多いから、いとこも多いんです」。
子どもの頃はからだが弱かった小澤さんは、夏休みには決まって福島へ向かい、休みを丸々、福島で過ごした。
「当時の東京は高度成長に入る頃です。うちの父親は建設業だったんですが、あちこちで重機の音が鳴り響き、まるで東京という街を建設しているような時期だったんです」。
「人口も急増する頃です。私が通っていた小学校も一校じゃ生徒を抱えきれなくなって、3つの小学校に分かれます。準備期間もなかったんでしょう。教室が急造されたプレハブってときもありました」。
プレハブ小屋で学ぶ子どもたち。
そのなかで、小澤さんは「算数の神様」と言われていた。
「からだは弱かったんだけど、頭はよかったんじゃないかな」。
IQはギフテッドクラス。学年では堂々1位。
「私を含め、優秀な生徒が4人いまして。これが、今も付き合いがあるくらい仲良しで。新学期が始まるでしょ。最初の2週間で教科書の問題をぜんぶ解いて。あとは好きなことをしていました」。
「とくに私は算数、中学からは数学なんですが、それが得意で。『算数の神様』って言われていました。それで、何をどう計算違いをしたのか、数字が得意だから公認会計士になると宣言していたんです」と笑う。
中学になっても仲良しの4人は競い合った。
「彼らとは中学時代はサッカー部でも一緒でした。ただ、高校はバラバラ。小・中一緒だったから、そろそろ別れようって計画的にバラバラになったんです」。
小澤さんが進学したのは、有名な進学校。
「先生は、安全パイを言ってくるんです。私的にはもうワンランク上の学校を狙いたかったです。でも、それはダメってなって。先生が勧め、私が進学したのは私学マンモス校で、男子校でした」。
高校で小澤さんはゴルフ部に入る。
「中学はサッカー部だったでしょ。とにかく、走るんです。おかげで体は鍛えられて健康になったけれど。もう走るのはこりごりだと思って、ゴルフなら走らないと考えたんですが、これがまた走るんですね」。
体が強くなった神様は、中・高とグラウンドを走り回った。
浪人断念、母との約束。
高校時代を経て、大学入試。「私の時から共通一次試験がスタートしたんです」。
得意の数学、国語や英語ならなんとかなるはずだったが、社会や理科は、不得意だった。
「結果は明らかだから浪人するって、受験の前から覚悟を決めていたんです。練習のために受験した青山学院大学に合格したのですが、もっと上のランクの国立大学を目指したいと思い、行く気はありませんでした」。
青山学院大学はいい大学だが、偏差値だけでいうともっと上を目指したかったという。
「私は入学に乗り気ではなかったのに、母がその気になっちゃって。寄付金も、入学金も用意したからって。おまけに学生証に使う写真まで用意してあったんです」。
お母様の想いをスルーするのは、憚られた。
「だから、申込みだけと思って青学のある渋谷に二人して出かけて。その帰り、母と初めて二人で喫茶店に入るんです」。
二人は、コーヒーを注文した。
「母は大事な役目を果たしたような安堵の表情で、コーヒーを飲みながら『おいしいね』って何度も言っていました」。
そのコーヒーは偶然だったが、新発売された『トアルコ トラジャ』。『トアルコ トラジャ』は、キーコーヒーがインドネシア共和国、スラウェシ島のトラジャ地方にある自社農園で生産・販売するフラッグシップブランドのコーヒーだ。
もちろん、その時点では将来、まさか自分がキーコーヒーに入社するとはわかるはずはない。だが、お母様は、そのコーヒーを「微笑みながら、いとおしく飲まれていた」そう。
反抗期もありお母様と喫茶店でコーヒーを飲むなんてことがこの日までなかったという。
「その翌朝、母は突然の病で亡くなりました」。
小澤さんは少し遠くを見ながら、淡々と話す。
奇しくもそこの喫茶店での何気ないひと時が小澤さんと母との最期の思い出となった。
「予備校も申し込んでいたんですが、結局、青学に進学します」。
母が喜ぶ姿を願ってのことだった。
「ついでに、公認会計士もあきらめた」と言って、こちらを笑わせる。
ふらっと、運命が傾いた。
「大学は経済学部ですが、数学好きな理系タイプだったんで、電機メーカーを受験し、内定もいただいていました」。
話はとび、就活の話である。
「内定をもらっていたから余裕があったのかもしれません。なぜか、あのとき母と飲んだ『トアルコ トラジャ』が気になって。ふらっとキーコーヒーの説明会に立ち寄ったんです」。
「それが運の尽きだった」と、ふたたび、こちらを笑わせる。
「最終面接まで進んで、当時の会長から『君は『トアルコ トラジャ』の申し子になれ。期待しているからな』とまるで運命かのように言われて」。
「とにかく、会長に背中を押され、入社しました」。
じつは、小澤さん。大学時代も喫茶店でアルバイトをしている。
「大学4年間、池袋の喫茶店でアルバイトをしていました。オーナーにはすごくよくしていただいて。そのオーナーは、今、うちのフランチャイズに加盟してくださっているんです。再会したときは、お互いびっくりしました」。
これも、ひとつの運命。「喫茶店」を舞台に、運命の針が回る。
「キーコーヒーですか? キーコーヒーには22歳で入社して、今65歳ですから43年間、離してくれませんでした」と小澤さん。「大好きな会社」と、顔に書いてある。
「当初の9年間は、首都圏の営業所でコーヒー豆の営業です」。
当時は5年くらいで異動するのが一般的だったが、小澤さんは最初に配属された営業所で9年間、勤めている。
「人事異動のタイミングもあり、なかなかその営業所から動くことがなかったんです。ひとつの営業所にそこまで長くいるのは珍しい。おかげで、新卒から今にいたるまでずっと東京で暮らしています」。
10年目になって、希望していた本社へと辞令が下りた。異動先の部署では、法人が客先となった。
コーヒー文化も花咲き、キーコーヒーも絶好調。小澤さんの業績も絶好調だったにちがいない。
ちなみに、当時、取引先から、「課長のポストを用意するから、転職してきませんか」「部長の椅子を用意します」などとオファーをいただいたそう。
「そう言われると、心が傾いて、ふら~~~っと行ってしまいそうだったんですが」。小澤さんは、時々、ジョークか本心か、わからない口調で話をする。
誘いに乗らなかったのは、キーコーヒーが大好きだったからだろうが、それをいうと「腐れ縁だから」と、おっしゃるにちがいない。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
2025年12月17日水曜日
株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏登場。
“飲食の戦士たち”に名古屋の株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏を取り上げました。
「ちかい」が、行動原理。
今回、ご登場いただいた岩田さんは1984年5月、名古屋市の港区に生まれている。お父様は大手のメーカーで長年務められた。上下関係に厳しく、兄妹に囲まれた岩田さんは「父にも、兄にも頭が上がらなかった」と笑う。
先生の影響で小学生の頃からギターを弾いた。趣味程度というが、なかなか達者に違いない。
中学1年からバレーボールを始め、高校1年でリタイア。回転すしでアルバイトを始めている。
「特別、バレーボールに夢中だったわけではなく、中2のときは顧問の先生がいなくなったもんですから、新しい先生が来るまで部活動自体がなかったくらいで」。
活動エリアは、基本、自宅周辺。じつは、高校選びも、大学選びも自宅からの距離で決めた。
「中学も、地元なんですが通学に歩きで25分。それがきつくて」と笑う。
ギターにも、それほど熱中しなかった。特別な野望も何もない。
飲食でアルバイトをして印象はどうだったか、聞いてみた。
「大学生になってからも飲食店でアルバイトをするんですが、当時は、飲食の仕事をするとは思ってもなかったし、むしろ絶対、やりたくないと思っていたくらいです」。
どうして?と質問を重ねた。
「だってね。最初の回転すしの会社が今でいうブラック。店長は休みなしで働いていましたし、副店長が、お金をくすねたうえに、会社といろいろ揉めているのをみて、なんちゅう世界だって思っていたんです」。
ちかくで、気楽にはたらければそれでよかったから、その世界には染まらなかった。
「大学生になってバイトしたのが、ある鰻屋さんで。料理人の世界だったから、殴る、蹴るが日常だったんです」。
飲食で働いたが、そのぶん飲食との距離が遠ざかる。
人生の針が動いたのは、バイト先で出会ったおじさんたちとの出会いだった。
「そのおじさんたちは、クルマ関係の会社の経営者だったんです。でも、夕方になると、やってくるんです。今でいうWワークですね。その人らを手伝って、私も部品をオークションに出品したりして。起業家のマネごとをしていたんです」。
さらに針が動く。ある経営者と出会ったからだ。
「飲食業の経営者の方です。知り合いに誘われたんです。『岩田って、就職しないんだろ。昔から独立するっていってたし、手伝ってみないか』って」。
飲食の世界と、勉強の日々と。
「とくに好きじゃなかったんですが、飲食店の経験はあったし、独立の勉強になるかな、と」。
人生の針が、ぐるぐる、回る、回る。
とにかく忙しい。目の回るような業務量をこなす毎日が続いたそうだ。
「オープンしたのは、小さな飲食店でした。愛知では、まだ珍しいタイプの飲食店だったこともあって、ひっきりなしにお客様がいらっしゃいました」。
日々が、ぐるぐる回転する。とにかく毎日が刺激的で、毎日が発見だった。
「私はキッチンだったんですが、カウンターで料理をしていたもんですから、お客さんとの距離がちかい、ちかい。『旨かった』とか『ごちそうさま』とか。そういう言葉が、活力にかわっていくんです。もっと、喜ばせたいな、って」。
「人間性も評価された」と岩田さんはいう。笑い合う、常連客と、岩田さんがいた。
だんだんと飲食が好きになった?とたずねると、岩田さんは大きく頷いた。
独立と自社ブランドの立ち上げと。
「計5年の在籍の間で、新ブランドの起ち上げや様々なことを経験させていただきました」。
飲食を好きにさせた常連客も、今の、岩田さんづくりに一役買っている。
その後、岩田さんは28歳のときに独立。1・2号店は業務委託での運営だったが、3号店目で自社ブランド「肴屋八兵衛」を開発・運営している。
「この3号店がオープンから好調で。そこからは自社ブランドの展開を進めてきました」。
独自ブランドは経営者岩田の、誕生を祝うかのように繁盛した。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)


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