2024年3月26日火曜日

株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏登場。

本文より~

校門で、ラグビー部、監督にスカウトされる。

高校入学初日の校門で、ラグビー部監督にスカウトされる。
合計16人の巨体が激突する。ラグビーのスクラムの話である。今回、ご登場いただいたラムバリオンの代表、高田社長はフォワードで、スクラムを組む時にはロックのポジションだった。
ラグビーを始めたのは高校になってから。校門で、ラグビー部の監督に声をかけられたのがきっかけ。高校入学時ですでに187センチあったから、声をかけたくなるのもわかる。
「そもそも野球の推薦で入学した高校なんです。監督にはその話もちゃんとしたのですが、それは俺がなんとかするからと言って(笑)」。
そんなきっかけで始めたラグビーだが「今の私があるのは、この時、声をかけていただいた監督のおかげでラグビーに出会えた事」。
そう言いながら、高田さんは少年時代を振り返る。
生まれも育ちも墨田区吾妻橋、浅草まで徒歩5分の下町で育った。
「野球を始めたのは、小学校から。中学でも野球をつづけ、そのおかげで修徳高校から推薦をいただきました。ただし、校門で運命が変わったのは、すでにお話した通りです」。

ラグビーで、友を得る。

「小学生時代はどちらかというと大人しいタイプでしたが、中学1年の時で180センチメートルありましたから、黙っていても目立ちます。野球はやっていましたが、夢や目標がある訳でも無く、友達とつるんで、フラフラしていた頃です。ラグビー部を始めてからは、ラグビー漬けの毎日で休みも時間も無くそのおかげで真っ当な道に進めましたね」。
毎日 練習、練習だったそう グランドは、荒川の土手。
「学校のグランドは野球部やサッカー部に独占されていて。私らラグビー部は、荒川の土手がグランドです。練習は暗くなってボールがみえなくなるまで。ナイターの設備はありません。土日は監督のツテで、明治大学の八幡山のグランドで練習させてもらいました。強豪チームとも練習試合を重ねます。あれが、いやだった(笑)」。
「なにしろ、勝ち目がなかった」と高田さん。
ときには、明治大学、ラグビー部の1年生と試合が組まれたそう。ラグビーで言えば、エリート中のエリートだ。
「試合になるわけがありません。ただ、負けても終わらない。ノーサイドになっても、監督は怒っている。で、『もう一試合お願いしてこい』って。永遠に終わらないんですよ」。
「辞めたい気持ちもありました。けど怖くて言えないんですよ」。と笑う。もちろん、そのおかげで今があり、今の友もあるそうだ。
「高校を卒業して進んだのは、立正大学です。体が大きいおかげで、色々な大学からもお誘いをいただいていたんですが。立正大学にルートがあって、先輩もいたので選びました。私の代では私を含め3名が進みます」。
ラグビーを通して、何を得たかとの質問には「自分の役割をしっかりこなした上での+@の力がチームに貢献すると言う事と、苦楽をともにしたかけがえのない一生の仲間」と回答している。

背負い投げで、上司を投げ飛ばす。

大学を卒業した高田さんは、大手飲食チェーンに入社、デリバリー部門に配属される。
「新卒の同期は20人。直営店が200店、FC350店の全盛期だった頃で、売上も高かったですね。私が配属された茨城県は、平均に遠く及びませんでした。北関東や東北っていうのは当時まだ、ハレの日に食べるものといったイメージだったんです」。
<のちにその店舗を買い取られているんですよね?>
「そうなんです。すごく思い入れがあって。ただ、最初に配属された店は、こちらには数ヵ月しか勤務していないんです。上司と馬が合わず…ついつい」。
なんでも、背負い投げで、投げ飛ばしてしまったそうだ。
「若気の至りというやつですね(笑)。ただ、この背負い投げで、また私の人生が動きます」。
当然、退職と覚悟を決めていたそうだが、当時の上司に退職の旨を話すと「辞めなくていい。郡山に来い」と思いがけない言葉が返ってきた。
「そこからですね。本当の意味で、私の社会人としてスタートしたのは」と高田さん。
「その上司の下で、むちゃくちゃ仕事をしました。2年くらい休んだ記憶はないですね。まだ出店が少なかった東北に、新規出店の立ち上げをして、そして、3年して、東京に戻り、新卒の研修担当を経て、スーパーバイザーとして本部勤務になります」。

本部のいうことを聞かない、本部スタッフ。

<会社には何年勤務されていたんですか?>
「14年です。名古屋にも転勤しています。もちろん、そのまま勤めるという選択肢もあったんですが、大きな転機が、、いや事件がありまして」。
<どういうこと?>
「社歴も重ね、中堅社員になり、FCのオーナーの二足の草鞋を履いているし調子に乗っていたんです。ある日、部下から『高田さんは、何も言われなくていいですね』って言われたんです。私にすれば、そりゃそうですよ。そのぶん、実績を上げているんだから。だから、上司からも何も言われない。勝ち誇って、オレには自由にする権利がある、と思ってました(笑)。いろんなことで横柄さがでていたんでしょうね。そんな時に同期で一緒に切磋琢磨して昇格していった友人から『みんな高田さんの振る舞いに迷惑しているよ』と言われて、初めて、私の横柄な振る舞いに気づくんです」。
ハンマーに殴られたようだった、とも言っている。
「関係者全員に土下座して謝りたいくらいです(笑)。気づくと恥ずかしくて仕方なかったです。この時、私はすでにFC店のオーナーでもあったんです。この店が、さきほどいった茨城県の店舗です。FC店を管理・指導するスーパーバイザーと、FCオーナーという2つの顔をもっていて、オーナーのほうに心が傾いていたんでしょうね。本部側ではなく、FCオーナー側とのバランスが崩れ、思考がFC側になってしまっていたんです」。
それに気づいたから、恥ずかしかった。もう戻れない所まで来てしまったなと。
「会社はずいぶんと引き留めてくださったんですが、残るという選択肢はもうなかったです」。
会社を卒業。それは、独立を意味していた。

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株式会社ラムバリオン 代表取締役社長 高田泰徳氏

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有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏登場。

本文より~

コックさんの絵を描く。

アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴに旨いラーメン店がある。「Menya Ultra」。この「Menya Ultra」を経営するのが、今回、ご登場いただいたニシキダイナーの遠藤社長である。
もともとアメリカと縁があったわけではない。出身は秋田県大館市。秋田県のなかでも、北部にあり、青森もすぐそこ。
「ご想像通り、田舎です(笑)。裏に畑があってカボチャ、じゃがいもを育てていました。夏野菜は、ぜんぶ収穫できて、お米も含めて、自給自足。消費できない分はJAにお願いしていました。小・中とか水泳や野球などスポーツもやっていましたが、食べるのがとにかく好きで、母親にくっついて、ごはんをつくるのをみていました」。
小学5年生の時には天ぷらの研究をしていたというから、筋金入り。「食材は、そこらへんにありますからね。ちなみにラーメンの文化は、あまりなかったです。そうそう、子どもの頃に将来なりたい職業として、コックさんの絵を描いていました」。
父母と兄の4人家族。
「私のなかでは、兄の存在が大きいです。兄は私より5つ年上です。やんちゃなタイプで、私が高校生の時、自宅の隣にあった喫茶店を間借りしてラーメン屋を始めます。東京で有名ラーメン店で修業をしてきたそうです」。
「これも私のターニングポイントの一つ。ただ、兄は、ラーメン屋を辞めてトラックの運転手に転身します。私自身は高校を卒業し、道路公団に就職するんですが、1年で退職してしまいます」。

ほっかほっか亭の経営、開始。

「仕事を辞めたのは、重度の皮膚症だったからです。中・高の頃から病院に通っていました。頭皮がケロイドになったりします。就職したのは、有料道路を管理する会社だったんですが、ハードな仕事だったからでしょうか。症状がひどくなって、1年で退職します」。
頭皮がケロイドになり、かさぶたのようになって剥がれ落ちる。大学病院をいくつも回ったそう。
「その後、地元のペンキ屋に就職が決まりましたが、初日で逃げ出しました(笑)。その後、飲食関連の会社で経理の仕事をするんですが、給料9万円。治療代も払えなかったので、そちらもやはり退職します」。
兄が、ふたたび、遠藤社長を誘う。
「日産の下請けの浜松工場です。季節労働者というんですが、私たちからすれば出稼ぎというイメージです。給料は破格の40万円。前職が9万円でしたから、その額に目を丸くして、私もついて行きます。たいへんな仕事でしたが、通院もしながら、こちらの仕事もつづけます」。
「仕事は真面目にするほうなんで、評価もいただいて正社員にならないか」と誘われたと言っている。
「今の仕事とは、ぜんぜんちがいますが、じつは、そう仕事をしながらも、コックになりたいとは思っていたんです。道路公団の入社式の日にコックになりたいから、4年で辞めると言っていたくらいですから」。
「季節労働者を辞め、秋田にもどったのは21歳の時です。出稼ぎで貯めたお金と父親からもお金を借りて『ほっかほっか亭』を始めます」。
なんでも、昔、アルバイトをしていた店が売りに出されていたらしい。
「5店舗、同時に売り出されていたんですが、そのうちの2店舗を私と兄、それぞれ1店舗ずつ買い取ります」。
兄は能代市の店舗、遠藤社長が大館市の店舗。一緒に本部に研修を受けたそう。契約金200万円、買取額は500~600万円だったというからかなり、思い切った出資である。

1994年、快挙と伝説の数々を生む「らーめん錦」オープン。

「ほっかほっか亭は原価とロイヤリティを合わせるとかなりのパーセントになって、固定費と人件費を払うとほぼ残りません。最初のお店は、売上も前任者の倍にはなったんですが、7年間やりクローズ。じつは2店舗目も出店していますが、こちらはロケーションがまずかったです。デリバリーを増やして、なんとか売上を確保していきます」。
兄と弟が、経営する秋田の「ほっかほっか亭」。
「私もけっこう大変でしたが、兄のほうがさらに大変でした。私の大館市の店自体も大家さんの都合で取り壊すことになってしまいます。『ほっかほっか亭』をするなら貸さないと言われたので、じゃぁってことで、兄といっしょにラーメン店を始めることになります。これが『らーめん錦』の始まりです」
教えていただいた年表をもとに話を進める。
1994年、秋田県大館市に1号店「らーめん錦」オープン、1997年、秋田県大館市に2号店「らーめん錦」オープン(現:大館錦本店)、2003年、秋田県北秋田市に「麺屋うるとら」オープン、2008年、秋田県秋田市に「らーめん錦 秋田本店」オープン。東北で初めて、サークルKサンクス×錦「コラボカップラーメン」を発売するが、即完売となる。
2009年、秋田市に「らーめん錦 秋田分店」オープン。
東北じゃらん3月号の特集に掲載され、「東北+新潟の究極のラーメン」秋田県部門第1位にかがやき、東日本放送主催「あなたが選ぶ東北ラーメンランキング」東北6県内で第3位に入賞している。
2010年には、大館市に「つけ麺屋 焚節」オープン。東京ラーメンショー 2010に初出店し、行列第一位の伝説をつくる。2011年、東京ラーメンショー 2011にて、伝説はつづき、2年連続行列第一位。
2012年、秋田市に「ニシキ土崎分店」オープン。東京ラーメンショー 2012に出店し、3年連続で行列第一位。翌年の2013にも出店し、4年連続、行列第一位、そして、遂に売上杯数ダントツ第一位の偉業を達成している。
これだけではない。大つけ麺博 日本一決定戦2にて、行列が途切れず「ブース閉鎖」という快挙まで達成している。知名度も広がり、2014年には、長野県・軽井沢・プリンスショッピングプラザに「らーめん錦 濃熟鶏白湯」オープンしている。
秋田を代表するラーメンから、日本を代表するラーメンになっている。

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有限会社ニシキダイナー 代表取締役 遠藤隆史氏

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2024年3月25日月曜日

2024年キイストンのスローガン決定。

2024年度(4月~)キイストンのスローガンは


「キイストンだからこそ」を追求し続け
飲食業界になくてはならない企業になる
~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、
  ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月21日木曜日

営業研修に是非社長取材同席を(笑)

前職では営業マン時代も営業課長時代もかなり売ってましたが、今のやり方なら倍ほど売れてた気がします(笑)

「飲食の戦士たち」の社長取材通じ、ヒアリングの大事さ知りました。

社長取材同席、これ外部の営業マン研修に使おうかな…。

1,000連載(残19社)という圧倒的な数の社長記事は財産です。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月20日水曜日

新しいことが進む時。

“これは行ける”って思い、社員にこれ行けると思うがどうや?っていうとまず、それスゴくいいですね!はなく、悪気のないネガティブな回答が多い。

ただ、それこそがチャンス!と最近とらえてます。

多くの人が気づかないので他でやってないのは本当にチャンス!

自社でいうと“エム採用”の時も“飲食の戦士たち”の時も、求人以外の複数の収益の柱を立てた時も、「また細見さん、儲からない慈善事業やってる」って感じでした(笑)

アイデアが出ることでチャンス到来!!

なので自分でやってみることを今後も大事にしていきます。


戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年3月19日火曜日

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏登場。

本文より~

氷川丸、船上のビアガーデン。

ハレの日は、ファミリーレストランにでかけた。「外食の記憶っていったらそれくらいですね」と子どもの頃の記憶を探る佐藤さん。株式会社バリューテーブルの代表取締役社長である。
「小さな頃はやんちゃなタイプでした。べんきょうは好きじゃなかった。高校は私立なんですが、試験が2教科だけだったので(笑)」。
50人のクラスが20クラスあったというから、マンモス校。卒業生には、人気タレントの、あの出川さんもいらっしゃるそうだ。「インパルス堤下は同級生」と笑う。
残念だったのは、男子校だったこと。だからではないが、高校の夏から、舞台は飲食に移る。
「高校1年の夏に、ともだちと『バイトしよう』ってことになって、氷川丸のビアガーデンではたらき始めます」。
氷川丸は、山下公園に係留保存されており、夏になると、船上ビアガーデンがオープンする。
「これが、私にとって飲食との出会いです。ビアガーデンは夏だけなんですが、評価していただて夏が終わってからも、土・日だけバイトをさせていただきます」。
横浜、育ちは、バイト先もおしゃれだ。
「3年になってから、ちょっとちがったバイトも経験してみようと、コンビニでもバイトをしますが、氷川丸でサービス業の楽しさを刷り込まれたんでしょうね。大学じゃなくて、日本ホテルスクールという専門学校に進学します」。

シアトルのBARと、バーテンダーと。

日本ホテルスクールのホームページをみると、日本で唯一ホテルがつくった学校で、「国際感覚と英語をのばす」とあった。
「通常は2年で卒業なんですが、私は1年間、海外留学に行くコースに入ります」。
計3年。もちろん、印象に残っているのは、海外留学。
「アメリカのワシントン州シアトルにいきます。日本でいうと北海道と緯度がいっしょですから、寒いですね。ホームステイです。アメリカは、刺激的でした」。
ある日、ホームステイ先のアメリカ人にBARに連れていかれる。カウンターの向こうで、客と会話し、左右に動く。シェーカーをふり、カクテルをつくる。そんなバーテンダーの姿に、魅了されたという。
「今でも、目に浮かびますね。ホテルスクールなんで、基本は、ホテルに就職するのが既定路線なのですが、私はBARで仕事をしたいと、そちらに進みます。もちろん、明確なビジョンがあったわけじゃありません」。
帰国して、山下公園ちかくのBARでアルバイトを開始する。学校はあと1年。
「週末になると、横須賀のネイビーたちも来るようなBARでしたね」。BARと言っても100人くらい収容できるスケールだったらしい。
「実は、銀座のBARを希望していたんですが、色々あって、邪魔くせぇと思って、ふだん行かないパチンコに行くんです」。
10万円、勝ったらしい。
「こりゃ、すげぇ、と、ともだちを誘って、当時まだ20だったので、その年代がいくようなBARじゃなかったんですが、気が大きくなって(笑)」。
<それで運命の扉が開く?>
「そうですね。酒の勢いもあったんでしょうね。スタッフに仕事したいというと、親切な人で、オーナーにつないでくれたんです」。
「上質というより、やんちゃなBARだった」と佐藤さん。20歳の少年にとってはアメリカでみたBAR同様、キラキラしていたのではないだろうか。
「楽しかったですね。日本のBARも、アメリカに負けてはいません。客層も、さっき言ったようにネイビーたちも来る。人種も、語学も、一様ではない。そういう世界観にも魅了されていきます。もっとも当時は、将来の思いも漠然としたもので、学校を卒業してからも、流されるようにそちらでバイトをつづけます」。
シェイカーをふる。客と会話する。グラスをみがく。カウンターのなかを自在に動く。人脈もできる。「色々な出会いがあり、付き合いも広がっていきます。ちがうBARでもバイトをしたりして。本牧にあった、焼酎バーも印象に残っています。自分で焼き鳥を焼くんです。もう、こちらもなくなっているんですが」。
氷川丸からスタートした、飲食人生。ここまでが、第一章。

25歳のビジョン。

「25歳の頃ですね。このくらいになって初めて、将来を真剣に考えるようになりました。飲食は楽しい。だから、この道を進むと決めていたんですが、楽しいだけでは将来がちゃんと描けない。とくに、数字ですね。経営に関することもいる、と薄々感じていたんですが、おざなりになっていました」。
漠然としていた将来像が、焦点を結び始める。
「それで、一念発起して、東京の飲食店で仕事をしようと一人暮らしを始めます」。
横浜生まれの佐藤さんにとっても、東京はキラキラしていたそうだ。そして、当時まだベンチャーだった会社のトビラを叩く。
「実は、そちらは3日でやめているんです(笑)」。ベンチャーで、体制がまだ整っていなかった、と笑う。
<そのあと、どうされたんですか?>
「飲食人生の第二幕があがるはずだったんですが、いったん、ちがう道に進もうかな、と。ただ、もう、ちがう道というのも、たいへんでしょ。それで、ワンダーテーブルに転職します。こちらは2年。これは計画通りです」。
面接で「2年で辞める」と、言ったそうだ。つまり、2年で独立するということ。
「ワンダーテーブルさんで、P/Lなどの数値も勉強できました。それで26歳の時ですね。退職し、1年間、物件探しを始めます」。
もちろん、物件探しも、事業計画書作りも初めて。
「結婚もしていたのですが、1年間、奥さんといっしょに私の実家で生活をします。何しろ、お金を遣いたくなかったので。奥さんには、感謝ですね」。
公庫にも借り、父親にも援助してもらい、27歳でイタリアンカフェをオープンする。
「横浜から3駅いったところに南太田っていう駅があって、住宅街なんですが、そちらで創業します。ほぼスケルトンからなんですが、ともだちにサポートしてもらったので、比較的、安く、オープンできたと思います」。
13坪18席、初期投資1000万円。
「いまウルフギャングで料理長をしているやつがいて。由比ヶ浜のダイニングで知り合ったのですが、彼をさそってスタートします。ただ、1年半くらいで海外にいっちゃったので、そのあとは私が料理をつくっていました」。
<いかがでした?>
「業績は、想定通りでした」。
<つまり、悪いわけではないが、特別、いいわけでもない?>
「そうですね。地域密着で、食べるのに困るようなことはなかったんですが、このままつづけても、物足りないと思うようになって。実は、3年目の更新の時に、クローズしてしまうんです」。
<それはもったいない!>
「ただ、まだ若かったですし。当時、スペインバルが流行りだしていたんです。もともと私の飲食人生は、BARに憧れてスタートしていますから、そちらをやってみたいな、と」。
<それでクリエイト・レストランツですか?>
「そうです。ちょうど30歳の時ですね。まだ、岡本さんが社長だった頃で、今、思うと、まだまだ始まりの頃でしたね。こちらで8年間、修業させていただきます」。
私が今あるのは、クリエイト・レストランツのおかげ、と佐藤さんは言う。濃密な8年間だった。ネットワークも広がる。しかし、本格的な葛藤ははここからスタートする。

・・・続き

株式会社バリューテーブル 代表取締役社長 佐藤光彦氏

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株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏登場。

本文より~

高萩村いちばんの、

1941年2月20日生まれで、現在83歳になる。
「村いちばんの貧乏で、住む家もなくってさ。親戚の家を転々としていたから、じつは出身地も正確にわからない」という。
ただ、会長が村というのは高萩村で間違いなさそう。ウイキペディアで調べると「高萩村(たかはぎむら)は、かつて埼玉県入間郡に存在した村」とある。日高市の東部と言えば、およそ位置が想像できる人もいるだろう。
会長は4人兄弟の長男。「兄弟全員、中卒」と、苦笑する。戦争で負傷したお父様に代わって、お母様がゴルフのキャディをして兄弟四人を育てられている。
母を真似て、長男の会長もキャディのバイトをした。
キャディをしたおかげで、人間をみる目ができたらしい。
「だって、朝初めて会った人と4時間もいっしょにいて、その人たちの様子を観て、どうしたらいいかを判断するんだよ。チップをくれるかどうかも、大事だからね」と笑う。
人生初のコーラは、アメリカ人のお客さんからいただいた気の利いたチップだったらしい。
1941年生まれだから、中学生になっても戦争の跡は残っている。戦闘機の格納庫だったところで勉強したこともあるそうだ。そういう話を聞くと、思い浮かんでいた映像が、とたんにモノクロになった。

職を転々と。

「とにかく、お金がないから、早くはたらかないといけない。だから、中学を卒業して、就職します」。県をまたぎ、板橋区にあった小さな工場に向かった。面接に行くにも、電車はつかわない。お父様と、自転車を漕いで向かったそう。
「3時間はかかったんじゃないかな」と笑う。
お父様にも苦労をかけて就職したが、1ヵ月後、会長は実家にいた。
「住み込みだったんだけどさ。実は、逃げだしてしまったんです」。今や大会社の会長といっても、当時は、まだまだ少年だ。
「つぎに就職したのは、ベアリングの工場です。時給15円」。こちらは、1年でリタイア。大手のメーカーに勤めて、バイクをつくったのは、そのあと。
「夜勤のアルバイトだったんですが、工場長から『正社員の試験を受けてみなさい』って勧めていただいて、学歴がないから受からないと思っていたら合格しちゃって。でも、どこか冷めていて、やっぱり飽きちゃうんです」。
仕事は転々としたが、だからと言って下を向いたことはない。
「転職は悪くない。だって、1度きりの人生でしょ。我慢して一つの仕事をつづけても、つまらないだけ。私は、色々な職を経験して正解だったと思っている」。
会長はニヤリと笑う。

オープンしたラーメン店は、1年でクローズする。

「ともだちが暇なんだったらラーメン店で仕事をしてみないかと誘ってくれたのが20歳の時。だから、20歳の時に初めてラーメン店で仕事をします」。
「それまでは?」とうかがうと、会長はつぎのようにいう。
「キャバレーのボーイってわかるかな? バーでもはたらいた。当時は、『水商売』って言ってね。イメージはよくなかったね」。
まだまだ青二才。仕事もそうつづかない。だが、今度は少し様子が異なった。
「ラーメンもそうだし、チャーハンもそう。みんなこちらで教えてもらいました。でも、それだけじゃなくって、ツケを、初めて知るんです」。
「ツケのからくりを知って、その頃から、キャッシュフローに目をつけていた」と会長はいう。現金ビジネスのストロングポイントを若いなりに見抜いたっていうことだろうか。
スーパーの警備員から声をかけられたのは、このラーメン店で働いいていた時。
「ラーメン店をやるから手伝ってくれないか」。
「向こうさんがお金をだして、店は私がきりもりします。ただ、ロケーションが悪くて、申し訳ないことに1年でクローズしちゃいました」。
会長の前に、大家さんがひょっこり現れたのは、その頃のこと。

キミが店をやらないか、天からの声。

「私らにしたら、大家さんなんて金持ちでしょ。だから、好きでもなかったんだ。挨拶だってろくにしない。だけど、どこかで、向こうは私の仕事をみてくれていたんだろうね。『店をやらないか』って誘ってくださったんです」。
青天の霹靂。
「そう、思ってもいなかったからね。ただ、いい話だけどさ。そもそもお金がない(笑)」。
「でね。正直に『お金がありません』って言ったら、大家さんがなんと保証人になって銀行からお金を借りてくださったんです。私が27歳で、大家さんが50歳くらいの時かな。でもさ、おんなじラーメンなんだから、私がオーナーになったって、急に流行るわけがない(笑)」。
リニューアルオープンしたものの、やはりうまくいかない。
「待っているだけじゃダメだ。デリバリーだね。それをやろうと思って。1人じゃ無理だから」。弟さんをスカウトされたそうだ。
「弟が、市役所に御用聞に行ってくれたりしてね」。
市役所からの注文は、日によってかわったが、「タンメン1杯」「チャーハン1つ」だったそう。売上は、タンメン1杯分、チャーハン1つ分だけ、改善した。
<弟さんと二人三脚ですね?>
「そうだよね。私ら兄弟はみんなそうだけど、さつまいもだけで、育ったからね。逆境にもつよいんだ。さつまいも1つあれば、食いつないでいける(笑)」。
その後、会長は深夜営業に活路をみいだし、売上は上昇。ただ、勧められるまま、始めたスナックが大失敗。「妹まで呼んだのに失敗したって噂が広がって。恥ずかしくなって。ラーメンもいっしょ辞めちゃいました」。

「来々軒」創業。

もちろん、これで幕が閉じるわけはない。第二ラウンドの幕があがる。いや、むしろこれが第一章の始まり。
<つぎにオープンしたのが、創業の「来々軒」ですね?>
「5坪の小さい店だったけど、大宮のちかくだから、ちかくに風俗店もあってね。デリバリーの注文もいただいて。でも、1人じゃできないでしょ。だから、さ」。
ふたたび、弟さんが、仕事を始める。
「今度はさ。お袋が弟に『やめておけ』って言っていたらしいです(笑)」。
<でも、来てくださったんですよね?>
「そう、兄弟のきずなですね。そこに、もう1人、ラーメンの修業をしたいという人がはいって、3人になる。そうなると、さすがにキツキツになって。で、来々軒2号店をオープンします」。
ちなみに、ラーメンの修業にきた高橋という青年が、のちに会長とともに社長を務めている。
「弟もいたんだけど、資金繰りからスタッフの募集まで、ぜんぶ私1人でやっていました。今でいう店舗開発も、仕事の一つです。ある日、初めて蕨駅に降りた時かな。貸店舗って貼り紙があって。最初はラーメンはだめだって言われたんだけど、ピンと来たから交渉してさ」。
「その店は今でも、やっている」と会長は笑う。
ところで、会長曰く、「当時は、ラーメン店が株式を公開するなんて、だれも思っちゃいなかった」そう。「だから、みんな独立するんだな。弟も、独立するって言ってたからね。でも、私は3人でやれば、絶対、大丈夫だって。絶対、時代はかわるからって」。
「『騙そうとしている』っていうからさ。大宮駅まで連れて行って。駅からでてくるサラリーマンを観察させます。どうだって。だれもが手ぶらだろって。昔は10人降りてきたら、3人は弁当をもっていたんです」。
<もってないとしたら? どこかで食べますよね?>
「そう、そういうこと。もうさ、時代は動いてたんだよ」。

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株式会社ハイデイ日高 代表取締役会長(執行役員会長) 神田 正氏

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