in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ZENJI 代表取締役 工藤拓也氏登場。
恵まれた環境と父の背中。
青山氏は、大阪府寝屋川市で代々続くガラス施工会社の次男として生を受けた。3階建て自宅の1階は作業場で、2階と3階が居住スペース。父親の会社は代々地域教育機関のガラス交換などを請け負う老舗企業で、経営は安定し地元の信頼も厚かった。青山氏と兄は中学校から、妹は小学校から私立学校に通わせてもらうほど家庭は裕福だった。
真面目な性格で黙々と仕事に打ち込む父親の姿は、幼い青山氏にとって“働くこと”の原風景だった。「この仕事、おもしろい?」と問う息子に、「おもろいよ」と答えてくれた父。仕事は楽しいものだと教えてくれた父に、青山氏は今も深く感謝しているという。
一方、母方の実家についてはあまり記憶がないらしい。ただ中学生の頃、偶然二人きりになった母方の祖父から、こんな秘密を打ち明けられたことがある。
「おじいちゃんは昔、ある印刷会社で働いててな。そこはアサヒビールと付き合いがあってん。で、ブラックニッカのデザインをしたんは、実はおじいちゃんやねん。これ、絶対誰にも言うたらあかんで」。
子供心に「それなら、もっとお金持ちなんちゃう?」と思ったものの、律儀な青山氏は祖父との約束を固く守った。数年前に祖父が他界した後、意を決して母に真相を尋ねてみたが、母はただ笑うばかりで真偽を明かさなかった。
「これ、裏は取れてないんですよ。ブラックニッカのデザイナーを調べても、祖父の名前は出てこなかったですし」。
と楽しそうに語る青山氏は、どこか誇らしげだった。
「上には上がいる」敗北感を乗り越え、得たことも。
中学受験を乗り越え追手門学院大手前中学校に入学した青山氏は、同級生たちの金持ちぶりに圧倒された。自分の家もそこそこ裕福だと思っていたからなおさらだ。さらに、隣のクラスには後にプロサッカー選手となる柿谷曜一朗選手も在籍し、その才能には目を見張るものがあったという。
「月の小遣いが30万円というやつがいたんです。今でも覚えてるのは、天満橋のゲームセンターに連れて行かれた時、そいつがゲーム台に500円玉を積み上げてたんですよ。で、キャラメルフラペチーノを奢ってくれました。まだ中一ですよ。なんかもう世界が違うなって」。
自身を「井の中の蛙だった」と振り返る青山氏。悔しさ、敗北感、そして負けたくないという思いが強く、虚勢を張るようにもなった。この頃から「金持ちになりたい」という想いを漠然と抱き始めるが、具体的な夢はまだ見つかっていなかった。
中学卒業後は、サッカー推薦で東海大学付属大阪仰星高等学校へと進学。同校はラグビーと柔道の強豪校であり、体格に恵まれた生徒たちが多かった。どんなに強がっても体格差はいかんともしがたく、青山氏は徐々に「いきがっていても仕方ないな」と感じるようになっていったという。
「ラグビー部に友人がいたんですけど、そいつがすごい人気者なんですよ。で、『なんでそんなに人気者なん?』って聞いたら、『人のいいとこ、もっと見たほうがええで』って。こいつの考え方すごいな、喧嘩や武力で勝つんじゃなくて、なんていうか愛された方がいいんやなって思いました」。
商売の面白さを知った学生時代。
東海大学ハワイ校への進学を考えていた青山氏だが、周囲の助言もあり大阪工業大学を選択。サークル活動に勢いのないキャンパスで時間を持て余すも、中学の同級生に誘われインカレサークルに入会する。イベントの企画・運営を通して商売の面白さに目覚め、3年生の時は代表として手腕を発揮。芸能人を招いたイベントを成功させ、ビジネスへの意欲を高めていく。またこの時期に多くの著名人と知り合い、特に仲良くなったUVERworldのTAKUYA∞氏とは今も強い信頼関係で結ばれている。
卒業後、就職せず自分で商売をしたいと思うようになっていた青山氏は、一人の実業家と出会う。数々の事業を立ち上げ成功させてきたそのカリスマ的な人物は、青山氏の潜在能力を見抜いたのだろう。「俺と共同経営しないか」と誘ってきた。
「それがね、『一緒にやろう』って言ったくせに、実際にやってみると『はい、これ、給料な』みたいな感じやったんですよ。これじゃ一緒にやってるとは言えないと思って、半年くらいで辞めました」。
辞めるにあたり多少のトラブルもあったが、今でもその実業家とは互いに連絡できるくらいの距離を保っているそうだ。
初のたこ焼き屋は苦戦の連続。
リーマン・ショックと重なり、円高が進行していた学生時代。大学の長期休暇を利用して渡米した青山氏は、アメリカで買い付けた衣料品を販売するなど、イベントサークルでの活動に加え独自のビジネスも展開していく。
大学4年生の時、親が不動産業を営む中学時代の同級生から「100万円ほどで売りに出ているたこ焼き屋がある」と聞いた青山氏は、すぐに購入を決意。ただたこ焼きに関しては全くの素人だったため、アルバイト経験のある友人に声をかけ、週休2日・月給20万円という大雑把な条件で働いてもらった。
しかし現実はそう甘くなかった。売上は月に30~40万円程度で、友人の給料すらまともに払えない状況が続いた。自身も他の会社でアルバイトをして友人の給料を捻出するという、厳しい日々を送ることになった。
店名変更がもたらした転機。
1年ほど自転車操業が続いていたある日。青山氏のたこ焼き屋の店名を聞いたTAKUYA∞氏から、こんなアドバイスが届いた。
「もっとキャッチーな名前をつけた方がいいよ」。
こうして誕生したのが『たこやき王子』だ。言葉を操るプロフェッショナルのTAKUYA∞氏は、“たこやき”を漢字にするかひらがなにするか、字面にまで細やかなこだわりを見せてくれた。
25歳で法人を設立した青山氏は、道頓堀に『たこやき王子』をオープン。味の良さと斬新なネーミングセンスが相まって店は瞬く間に人気を博し、最盛期には大阪を中心に10店舗を展開するほどの盛況ぶりを見せた。
スクラップ&ビルドで高収益を実現。
集客力があり売上の立つ『たこやき王子』だが、利益率は低い。そこで青山氏は、もう一つの大阪名物である串かつ屋への転換を決意。パン粉やソースの配合には徹底的にこだわり、塩1グラムの単位で試行錯誤を繰り返した。完成後も改良を重ね、気になる点があればすぐにLINEで各店長に指示を出した。当初は「社長は何でこんなにコロコロ変えるねん」と戸惑っていた彼らも、指示通りにすれば味が格段に向上することを実感し、今では積極的に協力してくれているそうだ。
「串かつなら、やっぱり大阪だけに特化した方が多分価値が出ると思うし、全国に広げようとは1ミリも思っていません。ちょっと古い考えかもしれませんけど、『美味しかったら絶対認知される』って信じているんですよ。だからグーグルの口コミとかをチェックして、お客様の声を拾って、何かあればどんどん改良していきます」。
青山氏は現在、『串かつおうじ』3店舗と『たこやき王子』1店舗を展開。インバウンド需要には目を向けず、既存店の強化に全力を注いでいる。オペレーションを効率化するためデリバリーは行わず、徹底的に無駄を省き、過度な店舗拡大は目指さないというスタイルだ。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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