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2024年5月14日火曜日

しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏登場。

本文より~

マハラジャと、菅野家と、しゃぶ禅。

日本の男女が熱狂した。ディスコテック。マハラジャはドレスコードや黒服という言葉を、少年少女に教えてくれた。
源流をたどると、「檻の中」や「深海魚」「最後の20セント」「メビウス」」と言う名が上がる。こちらの話は、現会長にインタビューさせていただいたコチラをご覧いただくのがいいだろう。
さて、今回、ご登場いただいたのは、現会長の菅野晃さんの甥にあたる菅野雄介さん。現会長の兄であり、創業者、菅野諒さんの次男である。
「父ですか、父は、すごく厳しい人でしたね。『おはようございます』。子どもたちは、私も含めてですが、礼儀正しく挨拶しないといけません」。
何かあるとゲンコツがとんできたそうだ。
浮き沈みも経験されている。
「当時はバブル経済です。マハラジャはディスコブームをつくり、バブルの象徴のように言われていました」。
たしかにそうだった。毎夜、マハラジャのレジは入りきれない札束で溢れたという。
「全盛期だったんでしょう。その時は、うちの車もロールスロイスでした。ただ、あれ?と思ったら、ボロボロの車に代わっていました(笑)」。
栄枯盛衰がピッタリな表現かも知れないが、案外そうでもない。マハラジャがつくりだした宴は、もう一つの宴にひきつがれていく。
それが、今回の舞台となる「しゃぶ禅」。
2023年12月で創業から40年になる名店だ。
「マハラジャを運営する一方で、1983年に、六本木に『しゃぶ禅』をオープンします。『高級な和牛のしゃぶしゃぶをお腹いっぱい食べることが出来たら、お客様が喜んでくれるのではないか』と、スタートしたブランドです」。
どうすれば、お客様が喜んでくださるか。創業者の諒さんは、このテーマを追いかけつづけた。
「この頃は、ロールスロイスの時代だったんでしょうね。やがて、バブルがはじけ、マハラジャが幕を閉じます。そのあとに残ったのが『しゃぶ禅』でした」。
今や、外国人も日本旅行の楽しみの一つに挙げるジャパニーズレストランの一つ。
さて、つい長くなったが、いつも通り、今回の主人公、菅野さんを子ども時代から追いかけてみよう。

「マハラジャ」の終わりと「しゃぶ禅」の始まりと。

「私は1974年、目黒に生まれます。大田区や世田谷など転々とした記憶もありますね。小学校は池袋にある立教小学校 。中学校も立教です。うちは、父も兄も立教です。ただ、私は高校進学時にエスカレーターからこぼれ落ちます(笑)」。
「案外、厳しくて、中学から高校に進めるのは全校生徒の1/3。私は2/3に入り、東海大学の附属高校に進学し、ここでも下から2割のなかに入り、進んだのは別の大学で、帝京大学です」。
もっとも卒業はしていないらしい。
「父が『お前じゃ、どこにいっても無理だろうから、うちに入れ』と。そう言われたので、留年することなく、友達といっしょに、大学を離れました」。
「子どもの頃は、通知表が悪いと殴られた」と、菅野さんは目を細める。
「中・高にもなると、だいたいの子が遊びに行くようになるでしょ」。
ディスコは、当時の中・高生にとって憧れのステージ。父親の仕事を知っている少年たちが、マハラジャを話題に挙げることも少なくなかった。
「ただ、私自身は興味がないというか」と菅野さん。
熱狂する人たちを、どこかさめた目でみていたのかも知れない。
「マハラジャが幕を閉じたのは、私が大学生頃です。所有していた不動産もバブルといっしょに弾けたもんですから、借金は30億円くらいあったんじゃないですか」。
大学生の頃から「しゃぶ禅」で皿洗いなどのアルバイトをしていたそう。大学を離れ、就職したのは、グループ企業の不動産部門。
「もっとも大変だった部門の一つですね。ただ、残った『しゃぶ禅』もしんどかった。人件費がないので、私は18時まで不動産部門ではたらき、18時から23時まで『しゃぶ禅』で仕事をしました。仕事といっても、サポート程度ですが、もちろん、無給です」。
マハラジャの宴をつぐはずの「しゃぶ禅」はどうなっていくんだろうか?

独立。しゃぶ禅のフランチャイズ店をスタートする。

「じつは、私、25歳で独立しているんです」と菅野さん。独立?と驚くと、「独立と言っても、そうしないと融資を受けられなかったから」と種明かしをしてくださった。
「今の四谷店ですが、もともとは『叙々苑』さんが、そこでしゃぶしゃぶのお店をされていたんです。ただ、うまくいかず、私どもに話をもってこられました。チャレンジしたいお話でしたが、なにせ、お金がない(笑)」。
「しゃぶ禅」では銀行融資もままならなかったそう。
「それで、私が会社をつくり、そちらに融資してもらおうと。そういうスキームにして、無事、1500万円の融資をうけて、『叙々苑』さんのあとで『しゃぶ禅』のフランチャイズ店をスタートしたんです」。
菅野さんの意思ではない。「だって店長の経験もなかったんですよ」と笑う。父親から「やれ」と言われ、やるしかなかったというのが、本音。
むろん、状況が、状況だ。失敗は許されない。だからこそ、父の諒さんは、だれでもなく、息子の菅野さんに託されたにちがいない。だとしたら、その賭けは、まちがっていなかった。
しゃぶしゃぶ食べ放題は、四谷でも人気になる。「ロケーションが悪くなかったから」と謙そんするが、むろん、菅野さんの仕事も評価されるべきだろう。とにかく、店舗は連日連夜、賑わい、月商は1000万円をオーバーする。
「『しゃぶ禅』は6Fだったんです。おなじビルの地下も空いたので、今度は、そちらで焼き肉食べ放題『牛禅』をスタートします。こちらも、好調です。少しずつ、私にも自信がついてきます」。
ただ、このあと、貯金通帳の残高が62円となってしまう。

通帳の残高62円。

「調子に乗ってやってみようってことになった」と菅野さん。
「京都のマハラジャがあったところで、焼鳥ブランドをスタートするんですが、こちらが大ゴケ」と苦笑する。
「2年で撤退しますが、1億円くらいの借金が残りました」。またまた、借金生活。追い打ちをかけるように、BSEが、起こる。せっかく好調だった「しゃぶ禅」「牛禅」を直撃。
「あの頃、月末になると、所持金は1円玉、3枚、通帳の残高をみたら、たったの62円なんて時がありました」。
それでも、前を向きつづけた。
父であり、カリスマ創業者だった諒さんが他界。諒さんのあとを受け、現会長の晃さんが、社長に就任する。晃さんは、菅野さんからすれば叔父となる。
「その頃からですね。いずれ私が『しゃぶ禅』を継ぐことになると、そういうことを意識しはじめたのは」。
むろん、所持金3円からの大逆転も果たす。神楽坂にオープンした「しゃぶ禅」も大ヒット。2016年には、晃さんが会長に、菅野さんが社長に、という人事が発表される。
その時点で、「しゃぶ禅」には、すでに30年以上の歴史があった。負債も少なくなったが、この歴史は大きい。今までいちばんたいへんだったのは?と聞くと、コロナという回答。
業態が、業態だけに、たしかに厳しい。ただ、この時、菅野さんを励ましてくれたのは「しゃぶ禅」の長年のファンたち。「歴史」という財産が、明らかになった瞬間だ。
「社長に就任して、それまでの体制を改めて、いよいよって時にコロナだったんで、そりゃ、落ち込みます。でも、なんとか従業員の給料も下げることなく維持できたのは、従業員はもちろんですが、そういうファンの皆さんのおかげですね」。
もちろん、2024年になり、客足は完全に戻っている。

・・・続き

しゃぶ禅株式会社 代表取締役社長 菅野雄介氏

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2016年6月29日水曜日

株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”にあの伝説のディスコ“マハラジャの創業者のおひとりの株式会社しゃぶ禅 代表取締役会長 菅野 晃氏登場。
本文より~

和歌山の九度山に生まれた、長男と次男。

九度山町は紀ノ川の南側にあり、かつて「真田幸村」が配流させられた町として知られている。この九度山町に今回ご登場いただく菅野氏が生まれたのは1942年のこと。
当時から人口が少なかったに違いないと調べてみたところ、1970年以降に過疎化が進み、年代が代わるたびに一段と人口が減っていた。
菅野氏の父親はこの町でパルプ工場を経営されていたそうである。大阪大学を卒業し、大手化学メーカーに入社。子沢山で、末っ子の菅野氏は5番目の子どもである。しかも、長女とは14歳違い、長男とも7歳離れている。
「いちばん近いのが三女ですが、それでも5歳離れていました。年がぜんぜん違うから兄弟喧嘩もなく、かわいがられて育ったというのが、小さな頃の記憶です」。
事業をされていただけに裕福な環境だったはずだが、菅野氏が小学5年生の時に会社が倒産してしまった。
「そういうこともあって、私が中学1年生の途中で一家で東京に引っ越します」。東京に引っ越したのは、父親の親戚が多くいたからだそうだ。
ところで、この時、長男の菅野諒氏は、すでに大学生である。「兄は、立教大学の経済学部です。彼は、大学を卒業し、大手の証券会社に就職しました」。
小遣いも、兄からもらったそうだ。そんな兄の諒氏は、29歳の時、証券マンとして敏腕を振るいつつ、そのかたわらで飲食店を開業する。
「私が22歳の時ですね。原宿に『檻の中』という今でいうスナックをオープンしました。民家の倉庫を改造したお店で、広さは20坪くらいだったでしょうか。当時として斬新で、靴を脱いで飲食するスタイル。いわゆる『絨毯BAR』です。私も何度か客としていきましたが、丸いテーブルがあって、ギターの弾き語りがあり、お客様は絨毯のうえに座布団を敷いて飲食します。この店が大ブレイクしました」。
絨毯BAR。「絨毯」という響きが、今ではなんとなく懐かしいが、1960年代の当時は、それがまだ、斬新な響きだったのだろう。
「月商300万円。利益は月150万円。初任給が、2万円くらいだった頃のことです。私はちょうどその頃、芝浦工大を卒業し、住友スリーエムに就職。正確な記憶はありませんが、初任給はたしかに2万円くらいだったと思います(笑)」。
当時、「住友スリーエム」はコンピュータに利用する磁気テープなどをつくっていたそうだ。菅野氏は、エンジニアで採用されている。

「最後の20セント」が、大ブレイク。

兄の諒氏は前述通り、最初は証券マンと二足の草鞋を履かれていたわけだが、2年くらいして飲食一本に絞られた。そして、『檻の中』以外にも、2店舗目、3店舗目を出店されていく。
ちなみに、この2つの店名も表記する。2舗目は、渋谷にオープンした「深海魚」。そして、たぶん、こちらのほうが有名な気がするが、六本木にオープンした「最後の20セント」。
いずれも、一世を風靡した店である。
「最後の20セントは、アルカポネみたいな世界観です。スーツの胸ポケットに、おもちゃのピストルを差し込んで」と菅野氏は愉快そうに話す。
もちろん形式は「絨毯BAR」。店内には真紅の絨毯が敷き詰められていた。
この店が、いうならば「マハラジャ」の原型である。
ところで、菅野氏は28歳の頃に、兄の諒氏から誘われている。
「会社組織にするから来いっていうんです。当時、私は6年目でしょ。親会社のスリーエムに1年の留学も決まっていたんです。でも、兄から『給料はこれだよ』って言われ、その額についクラって来て、『わかった』と返答してしまうんです。え? 額ですか?当時、6年目の私の月給が6万円くらいです。兄が提示した額は5~6倍でした(笑)」。
むろん、額だけの話ではないだろう。何かと気をかけてくれる兄の誘いをむげにはできるような菅野氏ではない。
菅野氏は、28歳で「専務取締役」となった。

ディスコテック。新たな時代の幕開け。

「当時の会社は、むろん若いスタッフばかりです。アルバイトだけで40人くらいはいました。私たちも模索の時代です。時代の先がわからない時代だったんです。ただ、お手本がありました。アメリカです」。
菅野氏によれば、当時は「最後の20セント」もそうだが、生バンドが決め手だった。
「しかし、生バンドはリアルではあるんですが、一流のバンドにはかなわない。なかには下手な奴もいるわけでしょ。ならいっそのこと、ディスクにしたほうが『音楽的に上等なんじゃないか』ってことになって。アメリカではそういうディスコテックっていうのがすでに流行りだしていたこともあって、それをお手本にやってみようということになったんです」。
これが、日本におけるディスコテックの始まりである。ディスコテックは、「ディスコ」の語源となったフランス語「discotheque」、意味は、「レコードの置き場」となるそうだ。
このディスコテックの1号店が「メビウス」である。
「メビウス」がオープンしたのは、昭和50年の頃。ウィキペディアでは、「日本で最初にレコード演奏のみで営業した」と紹介されている。
むろん、こちらの店を記憶している人も少なくないだろう。ともかく、兄、諒氏とともに、菅野氏兄弟の新たな幕が上がる。

・・・続き
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