in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社焼肉坂井ホールディングス 代表取締役社長 髙橋仁志氏登場。
本文より~父と母と割烹料理店と。
「父母の背中をみて、将来はサラリーマンがいいと思っていた」と、今回ご登場いただい焼肉坂井ホールディングスの髙橋社長。ご両親は、三重県松阪市で割烹料理店を経営されていた。
「とにかく繁盛店だったものですから、そのぶん、忙しい。朝早くから夜遅くまで働く姿を見ていましたから、たいへんだな、と(笑)。私と、弟がいるんですが、私たち二人は、祖父母に躾けられ、育ったようなもんです」。
朝、真っ白だった割烹着が、帰宅される時には真黒になっていた。それが印象に残っていると、髙橋社長は言う。
「父は中学を卒業し、三重から包丁一本を持って大阪へ行き修業をしました。母と出会ったのは、その時で、結婚した後、三重に戻り割烹料理店をオープンしました」。
おじいちゃん、おばあちゃん子だった、と髙橋社長。しかし、父母といっしょに、グルメは堪能した。
「父にすれば、研究だったんでしょうね。でも、いろいろなお店に連れて行ってもらいました。もちろん、他の友達のように土日親子で行楽に行くってシーンはなかったですね。その他にも時々、店に行って、冷蔵庫からコーラやサイダーを取りだして飲む、それも楽しみの一つでした」。
さみしくなったら店に行く。仕込み中なら、お客様もいない。コーラを飲み、父母の姿を追いかける少年の情景が浮かぶ。
「父は料理人で、口数は少ないですね。寡黙な職人そのものです。代わりに、大阪出身の母は天真爛漫で、明るい性格。私は、顔は父にそっくりなんですが、性格は、母似。母譲りのコミュニケーションスキルは、私の人生でも武器の一つになっています」。
人生の旅が始まる。
高校は、三重高校。秀才が通う三重高校のなかでも、特別進学クラスに進学する。ただ、高校に進学してから勉強は二の次になったそう。
「旅行が好きで、寝台特急で東京に行ったり、と。もちろん1人で、です。食べるのも大好きでした」。
たぶん、好奇心も旺盛だったのだろう。そう言えば、小さな頃、「母に連れられ、母の実家がある大阪でマクドナルドのハンバーガーを食べたことがある」と話されていた。「美味しすぎて、フライドポテトの塩まで味わってましたね」と、笑いながら。
旅の先には、まだ、知らない美味しいものがある。そう思って、列車に乗り込んでいたのかもしれない。
三重高校を卒業した髙橋社長は、松阪大学(現、三重中京大学)に進学する。
「好きな『旅行』の行動範囲は更に広がりました。でも、大学でも勉強はそれほどしてなかったです(笑)」。
就職先は、三重銀行(現三十三銀行)。
「就職が決まってからですが、アメリカ、ロスアンゼルスに3ヵ月、留学します。ここで、私の人生のターニングポイントになるような出会いがありました」。
<三重銀行に就職される前のことですね?>
「そうです。まだ学生ですね。社会人になるまでの、大好きだった『旅行』の集大成といいますか、ロスアンゼルスへ行って、ホームステイをさせていただきました」。
アメリカは、どれだけ広いのだろう。どんな美味しい料理があるんだろう。好奇心で、心は高鳴るばかり。しかし、話を聞くと、髙橋社長の心をもっとも、ときめかせたのは1人の日本人だった。
日本の大手ハンバーガーチェーンの創業者と、ビバリーヒルズで。
「お会いしたのは、日本生まれの、あの大手ハンバーガーチェーンの創業者です。あるカフェで知り合って、ビバリーヒルズにある豪邸に招いていただきました」。
その時の、髙橋社長の頭の中を表現すると、「!!!!!!!!!!!」となるに違いない。「プールでしょ。温泉でしょ。それに、お隣さんはだれもが知っている超有名な映画俳優さん」。
<もしかして1対1で、ですか?>
「そうなんです。ありがたいですね。創業のきっかけとなったお話も伺いました。当時、父の仕事もすごいと思っていましたが、同じ飲食でも、こういう世界を手にすることもできるんだというのが、正直な思いでした」。
あの大手ハンバーガーチェーンの創業者と、1対1で会話できるなんて日本にいてもそうはできない。しかも、偶然、レストランで出会っただけ。「もう、本当にラッキーだったと思っていました」。
21歳のジャパニーズ。
「当時は、日本経済が絶好調。ロックフェラーセンターを買うなんてことが話題になった頃です。もっとも、その方に影響は受けましたが、やはりサラリーマンがいい。私の頭はまだ、少年の頃と変わりませんでした」。
人生の旅の始まりは、銀行員から。
予定通り三重銀行に就職した髙橋社長は、ビバリーヒルズの豪邸をイメージしつつ、上昇志向のかたまりとなって次々と、輝かしい実績を打ち立てる。
「ちょうどね。プロ野球の野茂さんが、MLBに移り、ドクターKと言われていた頃です。新人だった私に先輩が、“三重銀行の野茂”ってニックネームがつけられます。銀行の中では、トッププレイヤーで、トップスターでした」。と髙橋社長。
「しかしね。私はしょせん、地方大学出身です。そりゃ、地銀といっても一流大学出身の同期もいますからね。上司が目をかけるのは、結局、彼らなんです。私がいくらいい成績を残しても、学歴社会の中では、二流のままだったんです」。
頭ではわかっていたが、衝撃を受けた。これが、リアルな社会の構造だった。
「今だから言えますが、労働時間は長かったですね。当時、アルバイトの時給が500円程度だったと思いますが、私の給料を時給換算すると、250円くらいだったんじゃないかな。まぁ、そういう時代だったんですが」。
髙橋社長は「頑張れば一番になれる」と思っていたそうだ。それだけ、ピュアな青年だった。入行して3年、ピュアな青年は、銀行を後にする。
宅配ピザ創業。
一握りの野望と、母親譲りのコミュニケーションスキル。武器は、まだこの二つ。いや、正しく言うと、もう一つネットワークがあった。
「実は、銀行員時代、アオキーズ・ピザと新規で取引をさせていただいたんです。それがご縁で24歳の時に、アオキーズ・ピザのフランチャイズをスタートさせていただきます」。
父親から900万円ほどを借り、宅配のバイクや厨房の機器は出世払いと言って、後払いで譲ってもらったそう。「宅配需要が増えていったタイミングですね。素人でしたが勝算はもちろんありました」。
宅配ピザの状況をウオッチしていた結果だという。
「実際、儲かりました。投資資金はすぐに回収できました。ただ、そこがゴールじゃなかった」。
<ゴールはビバリーヒルズ?>
「そこまではいかなくてもね」。
掲げた目標を次々クリアする。
宅配ピザを16店舗、コメダ珈琲を7店舗出店している。
24歳で宅配ピザを始め、30歳でコメダ珈琲をオープン。37歳になるまで、苦労もしたことがない、という。「もちろん、最初は自ら色々やりました。ワンオペです。ポスティングもしましたし、デリバリーもしました。そういうのを苦労と言えば、苦労をしたことになりますが、そういうのはお客様の笑顔をみたら忘れてしまう苦労です」。
どうすれば、人が喜んでくれるか。これは、髙橋社長が起業した時から外食ビジネスにおいて、追いかけてきた重要なテーマである。
・・・続き
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