2022年11月30日水曜日

株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏登場。


奇跡の大逆転。

小学校時代、本人はそのつもりはなかったが、周りからは優等生タイプだと思われていたらしい。勉強も出来たし、スポーツも平均以上。ただし、それを自慢するタイプでもなかった。
「習い事は沢山しましたね。公文やピアノ、書道。運動系では、水泳、テニス、剣道、サッカーなど。親としては色んな習い事に触れることで僕の可能性を広げようとしてくれたのだと思います。ただ、習い事が多すぎて他の同級生と同じようには遊べなかったのが自分としては少しつらかった気がします。当時は、親から刷り込まれていたので、ぼんやりとですが将来は医者になるのかなあ、とか思っていました(笑)」。
秀才だから、無理な話じゃない。
父親はエリート銀行員、父方の祖父は政治関係、母方の祖父は大学教授。サラブレッドだ。「ただ、そのエリート時代は、長く続かなかったです。」と笑う。
どういうことだろう?
「中学受験をし、神奈川御三家の一角と言われる中高一貫の私学に通うことになりました。そこまでは良かったのですが、その最初の中間テストで270人中240位という成績を取ってしまい、下位40人が先生に呼び出されました。そこで言われたのは「君たちは今までは各小学校で成績優秀だと言われていたかと思うが、ここはそういった人たちが集まる学校だ。だから、今の自分の立ち位置を認識して頑張るように」という内容。今までの自分が体験したことのない立ち位置で結構な衝撃を受けました(笑)補足すると、進学先の大学は早慶以上でないと人生の落伍者のレッテルが貼られる学校でした・・・」。
秀才のハナが折られたということ?
「そうですね、特に中学時代は良い思い出がありません。成績も下の方をうろうろ、当時の人気漫画の影響で始めたバスケットボール部ではレギュラーはおろか15人のベンチ枠にも入れず、時々部活を休んで家でゲームをしていました(笑)」。
ただ、高校に進級するところから大きな変化が。
「中学時代は身体の成長の早さの差による体格差もありなかなか一度決まった序列を覆すことが出来なかった。だから、3~4軍のまま。ただ、中学の部活が引退するタイミングで、過去の序列はシャッフルされて、私にもレギュラーを狙えるチャンスがあると感じました。それがモチベーションになって、練習は一度も休まず、毎日個別で昼練をするなどガラリと部活に取り組む姿勢が変わり、最終的にはレギュラーを射止め、チームで最も得点を取るエースになることができました」。
4軍からの奇跡の大逆転。スカッとする話。「私の中では、絶対的な成功体験だったと思います。あ、ちなみに勉強の方は、そんな大きな逆転劇は起こらなかったですね(笑)」。
ところで「早慶以上に行かないと人権がない学校」とも言っていたが、はたして人権は手にできたんだろうか?
「おかげさまで。なんとか現役で慶応義塾大学に進むことができました」。
慶応義塾大学でも、立派なエリートだと思うのだが、優秀な人たちの中ではまた違った感覚があるんだろう。
ちなみに、3つ下の弟さんは東京大学を卒業されている。

外資系金融機関でトップクラスの成績。

「大学に進んでからは、バスケットボールではなく、テニスサークルに入り、代表を務めることになります。この時の経験も私にとって大きな財産の一つです。色んな人との出会いがあり、結果、私の人生に大きな影響を与えます」。 就職は日本IBM。 「金融機関を担当する営業でした。在職は3年だったんですが、部署や担当先にも恵まれて3年目には年収800万円を超えるようになっていました。給料も悪くないし、辞めるなんて一切考えていませんでした。しかし、当時、前述のサークルの後輩でお医者さんの娘さんとお付き合いをしていまして。その彼女から「自分の親が私にしてくれたことをあなたのようなサラリーマンでは出来ないから結婚出来ない」と言われてふられてしまいます。一般的には高給取りのはずでしたが、800万円くらいは『彼氏まで』だったということですね(笑)」。
ショックな一言だったが、その一言が大きな引き金となった。
「当時は凹みましたね。お金がないということが人生の可能性を狭めるということを身を以て学んだので・・・じゃあ、医者を超えるくらい稼いでやろうとたまたま誘われた完全歩合の外資系の生命保険会社に転職します」。
どうでしたか?
「むちゃくちゃ楽しかった。人生で一番楽しかったと言っても良いくらいですね。給料はうなぎ登りで、天井知らず。何よりスカウトされた営業所が、全社でもトップを独走。トップクラスの人材と一緒に熱く仕事ができたことは人生の宝物です。3年目には営業所長に昇格し、5年間全社TOP3%の成績をおさめ年収5000万円を突破しました」。
順風満帆、なんの悩みもないですね。
「よく言われたんですけど・・・実は、入社当時、上司から『年収5,000万円を超えると、自分って貧乏だな、と思う時期が来るぞ』と言われたことがあるんです。当時は全く理解出来なかったですが、だんだん実感してくるんですね。お付き合いする人が超富裕層に変わっていくことでその彼我の差を感じるようになるんですね。
そして、この会社でのキャリアもある程度見えてしまった。マネジメント職では支社長がトップというか、あがりなんです。だからその先がない。もちろん、成功すれば年収は1億円を超えるようになっていくんでしょうが、じゃあこの仕事をそのまま30年間続けるのか?と思うと・・・」
漠然とした不安と不満を感じるようになった。むろん「未知数の未来」と「今」を天秤にかければ、今がいいに決まっている。さて、どうなったんだろうか?今回もまた、山科氏を次のステージにいざなう出会いが、待っているのだろうか?

ロピアに転職。

話を先に進めると、今や関東だけでなく関西圏でもその名を轟かせているスーパー「ロピア」の経営陣として山科氏は転職することになる。オファーを受け、決断までわずか2時間だったということだ。 どういう経緯だったのだろうか。
「ロピアの2代目社長の高木さんが、大学のサークルの先輩だったんです。当時からとてもかわいがってもらっていて・・・そうですね、自分が保険会社の支社長職になろうとしている31歳の時に、高木さんと食事をしている中で、『ITや金融という虚業は確かにお金を稼ぎやすいとは思うが、実業の世界で一緒に会社を成長させていく夢を見てみないか』というお誘いを受けます。その場で妻に電話をかけて「俺会社辞めるわ」と。家に帰ると妻が待ち構えていて、最初は不安そうでしたが、話すと意外にも背中を押してくれて。誘いを受けてから3時間くらいで承諾していますので、まぁ、即決ですね」。
今までとは、まるで違った道がスタートする。
「ロピアっていうのは、スーパーの中では最近勢いの良い新参者という感じでした。私が入社した当時で年商700億円程度だったかと思います。それを高木さんは1兆円企業にしたい、というビジョンを語るんですね。その熱に動かされました」。
そして、天秤は思わぬ方向に傾いた。
「小売りのことを全く知らない私は現場の一社員から経験していくつもりでした。しかし時を同じくして、ロピアは総菜やデザートなどの食品メーカーである利恵産業をM&Aすることとなりました。なので、その社長に就任したところからロピアグループでのキャリアが始まります。5年赤字続きだった会社だったのですが、今までの経験からなんとかなるだろうと安易に『1年後に単月黒字にする!』と宣言してしまいます。すぐに、無謀な一言だったと分かるんですが(笑)」。
食品メーカーを傘下にすることで、シナジー効果があるとロピア経営陣はそろばんを弾いていたに違いない。だが、「蓋を開ければ、相乗効果以前の話でした。ロピアは、黒船来航よろしく、他のスーパーのマーケットを奪って成長してきた会社だったので同業他社さんからよく思われていなかったんです。それで、今まで理恵産業が卸していた会社から次々と、『ロピアの傘下に入ったので、取引はやめる』と打診され、入社後3か月で、売上の7割を失うこととなったのです」。
赤字+7割減からのスタートですか?
「そう。単月黒字なんて、とんでもないホラ吹き男になっちゃうところでした(笑)」。
そこから2年程で、山科氏はある銀行出身者に社長のバトンを渡している。もちろん、単月黒字を諦めたからではない。むしろ、その逆。
「ある高級スーパーで扱っている有名なチーズケーキがあるんですが、それとほとんど同じ品質のものを半額で売れるように開発することに成功しました。それを担いでロピアは勿論のこと、私が直接、他のスーパーマーケットや、ドン・キホーテさんに営業をしかけます。その結果、ロピア以外の各地方のスーパーマーケットでも販売いただけるようになり、これが起爆剤となって、就任からちょうど一年後に単月黒字を達成することが出来ました。そこまで浮上した次は安全運転のフェーズです。そうなると私より、もっと緻密な細かい管理が出来る人にバトンタッチする方が良いじゃないかと思って、社長を譲りました」。
原野を切り開き、新たな苗を植え、芽吹かせる。元優等生の山科氏だが、今や、ちから仕事が山科氏には似合っていた。ただ、この時、次にさらなる力仕事が待っているとは、本人も思ってもいなかっただろう。

・・・続き
株式会社eatopia 代表取締役 山科博昭氏

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