2022年8月6日土曜日

株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏登場。

本文より~

病弱な姉と健康で活発な妹。

「24歳からここで働いていますから、日比谷公園から出たことはありませんね」と笑う小坂氏。幼いころから活発な少女だったようだ。
「両親と2歳上の姉の4人家族で育ちました。ただ姉は身体が弱く病気がちだったためか、母は姉に付きっ切りのような日常でした。極端に言えば“ほったらかされ状態”のようで子ども心に『お姉ちゃんばっかり!』と振り返った小坂氏。それが、家の中より外で友だちを作って遊ぶのが好きな積極的で活発な子どもに育った要因と言えなくもない。
「両親には『もっと自分もみてほしい』という思いはありました。勉強も頑張りましたし、学校では生徒会活動に励んだり、と結果的に活動的な自分を作っていったように思います」。
小学校は姉と同じ区立小学校に進学。「姉は学校になじめず一緒に3回転校しました」。

小学6年の3学期、1月にイギリスに渡った。

小学校を卒業した12歳の春、イギリスに渡った。
「イギリス留学は母の勧めでした。母は父と結婚する前、英国大使館に勤めていたこともあり、見分を広めることもあったのか、海外で学ばせることを考えていたようです。それは、言語が通じないなかでコミュニケーションを図るとか、相手を理解するとか、海外での経験が人生において役に立つと考えていたからではないかと思います」。
かくして小坂氏は先にイギリスに渡った姉を追うように1年半後、イギリスの地を踏んだ。留学したのは、ロンドンとブライトンの間くらいの南イングランドのウエストサセックス州にある、立教英国学院。
「寄宿制の学校でした。ですからベッドが空かないと入学出来ないんです。丁度小学6年の3学期スタートの時期に空きが出たので、中途半端な時期でしたが、イギリスに行きました。留学当初は英語も話せず、生活習慣も違うので苦労しました。友人たちにずいぶん助けられました」。
当然だと思うがイギリスの学校も日本と同じように春休み、夏休み、冬休みがある。驚くことに小坂氏は、その間、中学2年くらいから高校卒業までほとんど帰国することはなかったとのこと。
「姉は休みのたびに帰っていましたが、わたしは中学2年から高校卒業までほとんど帰らず、その間、ホームステイをして過ごしていました。ひとつには、当時のレートで1ポンド500円くらいだったと記憶していますが、父が旅費もかかるので懸念していましたし、当時は直行便なかったことなどが帰らなかった理由のひとつですね」。
本人が意識するかしないかは別問題として、こうした体験が現在の小坂氏の精神性を作り上げた要因のひとつであることに変わりはないだろうと推察する。

事業を継ぐ意思はなかったのだが…。

中学・高校と6年間の留学生活を経て帰国。立教大学へ入学。
「心理学を志望していたのですが、環境がそうさせたのか、社会学部観光学科に進みました。一方で、帰国した当時の同世代の学生の間隔に戸惑う場面も多々ありました。たとえばみんな同じとは言わないまでも誰もが似たスタイル、ファッションに身を包んでいましたし、流行なのかどうか同じスポーツ~テニスですけど~をしているし、画一的に写りました」。
大学生活を過ごしながら将来のことを、どう思い描いていたのだろうか。
「父の事業、“松本楼”を継ぐことは考えていませんでした。教師になりたい、あるいは小説家、作詞家になりたいと思っていました。元々、幼いころから自己表現がある意味で得意だったせいかもしれませんね。現在、さまざまな機会をいただいて講師を務めることがあるのですが、表現という意味で現在に繋がっているように思います」。
「継ぐ意思はなかった」という小坂氏が、結局は継いで現在にいたるわけだが、どのような経緯で「継いだ」のか。

大学卒業、就職。そして「松本楼」へ。

「将来は海外に移住したいと考えていました。そのために必要な資金は自分で貯めてからからと考えました。海外に行くチャンスがあると思い、外資系の会社に就職しました」。
就職したのは外資系のWaterford Wedewood Japan株式会社でマーケティング部に所属、思い描いた順調な社会人生活をしていたところが、思いもかけない事態が起きた。
「明治以来続く”松本楼“の跡継ぎに関しては、父なりの考えはあったと思います。父は、1932(昭和7)年生まれで、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”でしたから、女性が社長になるという考えはなく、姉か私のどちらかが婿をとって継がせることを考えていたと思います」。
「姉が急遽、お見合いで銀行マンと結婚してしまいました。そして、周囲の人たちにとっては私が跡継ぎになるのだろう、ということが暗黙の了解になってしまいました。母に説得され、努めていた会社を辞め、“松本楼”に就職しました。24歳の時です。最初は厨房から入り、料理やケーキを作る手伝いから始めました」。
「話は変わりますが、いわゆる“昭和ヒトケタ生まれの男性”すべてに共通しているとは思いませんが、父はともかく仕事一筋でしたから、家のことは母に任せていることが多く、普通の家庭なら当たり前のようなクリスマスなどの家族で過ごすイベントなどはありませんでした。母も寂しかったのではないでしょうか」。

シングルマザー奮闘記。

“松本楼”を継ぐことに決めた小坂氏。一方で、当人の結婚問題に直面した。父親は元々、恋愛に関しては干渉してこなかったが、婿候補となれば話は別、厳しい目線で判断されたようだ。
「当時、お付き合いをしていた方がいたのですが、両親から干渉され破局してしまいましたし、一方、“松本楼”と継ぐという重責に耐えられず、自ら身を引いた男性もいました。お見合いも何度か経験しましたが、最終的には27歳のとき、当時お付き合いしていた人と結婚しました」。
が、結婚生活は長くは続かなかった。
「1年後に離婚となりました。ちょうど臨月の頃に重なりました。生まれたのは男の子です。つまり、一人で生んで一人で育てたということになります。いわゆる“ワーキング・シングル・マザー”です」。
無事に出産を終えた身に「いつ復帰するの?」と母に職場復帰を促され、また本人も早く復帰しなければという思いもあり、産後2カ月程度で復帰した。つまり、生後2か月の乳飲み子と仕事を両立させる生活を送ることになった。
因みに現在は、産後8週間の産後休暇、その後、子どもが1歳6か月まで(延長で2年)の育児休暇の取得が法律(労働基準法)で定められている。小坂氏が取得した2カ月というのは短い。
こうした日々、乳飲み子の育児と仕事とにプラスして新たな負荷が加わった。母の看病である。
「母が癌になり、看病、介護が10年間、続きました。銀行マンに嫁いだ姉は、シカゴ、ロスアンジェルス、アムステルダムと海外勤務が続いていましたから、結局は私一人で対応するしかなかったのです。10年間の闘病生活の末、母は67歳でなくなりました」。
当時を振り返って小坂氏は、こう言う。
「30歳代はとにかく大変でした」。

時には衝突もあったけれど、認めてもくれた。

父親が代表を務める“松本楼”。小坂氏は、販売企画など旧来にはなかったようなプランを提案するも、そこは“昭和ヒトケタの男性”。父親には長年積み重ねてきた、娘の小坂氏には絶対的に不足している経験も知恵も自負もある。
「『お前に何がわかる!』と叱責されたり、提案した企画など却下されたこともありました」。父と娘の衝突がたびたび起こることに。とはいえ、全面的に認められなかったわけではなく、小坂氏独自の視点、企画で業績を伸ばしていくこともできた。
「ここは場所柄、霞が関が近く、接待やパーティなどでのご利用が多かったです。そこに“官官接待”(大蔵省接待汚職事件)の問題が持ち上がり多少、経営が厳しくなるなどした時期に私の発案で“レディースランチ”やワインのイベントを行うなど現在に続くイベントが生まれました」。
余談ながら“松本楼”といえば“10円カレー”が知られていて、実際に食べた方も多いことだろう。今年で50回目を迎えるが、発端は、こうだ。
1971(昭和46)年、沖縄返還協定に反対する過激派グループによる放火で全焼し、一時は閉店に追い込まれた“松本楼”だったが、全国のファンの支援により2年後の1973(昭和48)年に再オープン。その感謝の気持ちを込めた記念行事として始まったイベントである。毎年、9月25日に開催されている。
また「支店の展開については、郊外型ファミリーレストランが流行してきた時代にデパート食堂が衰退し、戦略の見直しを余儀なくされました。そこで、病院や大学のお話がでてきたので、そちらにシフトしていきました」とのこと。

社長就任は父親のインフルエンザがきっかけ?

社長に就任したのは2017(平成29)年。
「息子が大学に進学したのがきっかけになりましたが、就任3カ月前、当時83歳で元気だった父親がインフルエンザに罹ったことが大きな要因でした」。
何事にも慎重だった父親で、当然、資金面での管理も万全でした。ただ、それが思わぬ事態を招いた。
「インフルエンザによる高熱で、金庫の番号を思い出せなくなってしまったのです。お金の管理は厳しかっただけではなく、金庫の番号は誰も教えられてなく父しか知らなかったんです。要するに、開けられない事態になったんです。困りましたよ!」と笑うが、当時は“笑いごと”ではなかった筈だ。
そんな、失礼ながら“笑い話”のようなアクシデントを乗り越え、副社長から社長へ就任したが、就任3年後、また歓迎したくない試練がやってきた。
“新型コロナウイルス感染症”の世界的な流行、日本も例外ではなかった。いわゆる“パンデミック”だ。

・・・続き

株式会社日比谷松本楼 代表取締役社長 小坂文乃氏

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