2019年12月9日月曜日

株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 三宅祐一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サッポロライオン 代表取締役社長 三宅祐一郎氏登場
本文より~

1964年、生まれ。

まだ、中心街にも空き地があった。学校が終われば、空き地で野球。これが当時のスタンダード。「仮面ライダーごっこも定番ですね。ちょっと高いところから『ライダーーーキーック』って」。
1964年、三宅氏が生まれたのは、昭和のど真ん中。この年、新幹線が開通し、1度目の東京オリンピックが開催されている。
「笑っちゃうんですが、小学生の頃から真剣に俳優になろうと思っていたんです。なんででしょうね。でも、割と真剣で、高校2年からプロダクションにも所属します」。
大学で柔道を教えておられた父親の影響なのだろう。小さな頃から柔道をはじめ、中学では主将も務めている。
「ところが、高校には柔道部がなかったんですね。親父は『わざとない学校を選んだんだろう』っていうんですが、たまたまなかっただけで。ともかく、それで柔道は卒業し、サッカー部に入ります。サッカーなんてやったことがないから、そちらも辞めて。2年になって、役者の道を選びプロダクションにお世話になります」。
どうでしたか? 役者の道は?
「当時だと、『中学生日記』とかですね。そういうドラマのエキストラはあるんですが。それ以上の役はなかったですね。17歳になってオーディションを受けまくるんですが、ぜんぶ落ちましたし/笑」。

役者を断念。新たな道が始まる。

それで役者の道は断念ですか?
「そうですね。大学に進んで、学費やら生活費やらで、バイトに専念しなくちゃいけなくなって。それが断念したいちばんの理由ですね。その時のバイト先が『名古屋ビール園 浩養園』です。じつは高校2年の時に半年ほどバイトしていたことがあって、それで、大学になってからもう一度、はたらかせてもらったんです」。
運命みたいな奴ですね?
「そうですね。長い道のりのはじまりです/笑」。
浩養園は、サッポロライオンが運営する大型レストラン。「ビール園」と謳っている。いまは道も整備されているが、三宅氏がアルバイトをしていた頃は、広大な園の道は、まだ砂利道だったそうだ。
「私がバイトしていた頃の先輩が、まだはたらいています。だいたいサッポロライオンは人も長くつづきますが、とにかく歴史的な資産が多いんです。こちらも、その一つです。ホームページを観てください。これだけの広い園ですからね。400名様以上の宴ができるのは、珍しい」。
ともかく、半年のアルバイトが、すべての始まりとなるから面白い。
けっきょく三宅氏は卒業後、サッポロライオンに就職している。役者じゃない、もう一つの道は楽しかったんだろうか?

銀座のライオン。

「大卒採用は、だいぶ昔からやっていたんじゃないですか? 私の時は、同期15名いましたね」。たしかに、サッポロライオンの歴史は古い。三宅氏は歴史的な資産と言ったが、現存する日本最古のビヤホール「ビヤホールライオン 銀座七丁目店」もサッポロライオンが経営している。
歴史の重みは、人の重みでもある。そういう観点からみれば、早くから新卒採用をされていたことにも頷ける。新たにライオンの意志を受け継ぐべく入社した15名は、どうなっていくんだろう?
最初に配属されたのは、名古屋ですか?
「いえいえ、それこそ東京のど真ん中、「銀座ライオン 銀座五丁目店」です。ともかく、でかい!/笑。こちらで、もう一度オペレーションをイチから勉強します。5年半こちらにいて、つぎに千葉に異動します」。
楽しかったですか?
「そうですね。最初はついていくだけで精一杯でしたが、配属されて2年目くらいから余裕もでてきたんでしょう。楽しくなってきます」。
アルバイトと正社員、やはりマネジメントなど、ずいぶん役割が異なるものらしい。
「最初の転機は、4年目に次席に昇格したことですね。次席になると、お金の流れもリアルに把握できるんです。だから、売上数字があがっていく流れも手を取るようにわかる。スタッフたちとの関係性もむろんかわります。主体的に関係をつくる側になるわけですからね」。
「でも、いっちゃまだ支配人にぶらさがっているわけですから、やはり、いちばんの転機は『神楽坂店』で支配人になったことですね。32歳の時です。2月に赴任し、翌年1月に表彰され、私の取り組みを発表します。これで初めて、上層部にも認知されたと思います」。
何を評価されたのだろう?

獅子、吠える。

「じつは、赴任してから20ヵ月、前年対比で100を割らなかったんです。これで、社内で年間表彰を2年連続でいただきました」。
舞台は、全国の支配人が集まる年に1度の大きな会議。
「役者になりたかったくらいですから、人前で話すことは大好きです。そりゃ、相当なベテランもいるわけですから、気も遣います。ただ、私がそういうベテランを差し置いて2年連続で選ばれたのは、結果もありますが、表彰することで私を刺激剤に使ったんだと思います」。
それにしても、20ヵ月はすごい。最初の1年は、前任者とのたたかいだが、2年目からはいうならば自身とのたたかい。2年目ともなれば、新たな発想も思いつかない。
「そうですね。20ヵ月はそうない記録です。そういうことも評価していただいたんだと思いますが、つぎに川崎にあった中華ブランドに異動します。こちらでも、2年間業績をアップしつづけました」。
いわば、破竹の勢いである。結果を残すことで、つぎのチャンスが回ってくる。これは、一般の会社でも、飲食でもおなじ。「そうですね。ただ、チャンスと言ったらチャンスですが、課題ですね。『課題をやるから、乗り越えてみろ』みたいな」。
渋谷の店だったそう。
「13年経営してきたんですが、当時は赤字がつづいていました。私への指令はこうでした。『あと3ヵ月で閉店して、新しい店をオープンする』。ここまでなら、わかりますよね。でも、つづきがあるんです」。
「どんな店をやるか、お前が考えろ」。
そう言われたらしい。コンセプトも一切決まっていなかった。いわば、白紙の小切手。「チャンスって言えばそうですが、もうチャンスを超えているでしょ。わずか3ヵ月だし。その間の営業もあるわけですからね。でも、『好きにやれ』って言われて引き下がれないでしょ」。
「やってやろうじゃないか」。
獅子は吠えた。

新ブランド、PRIVATE DINING 点(ともる)、大ブレイク。

「毎夜、毎夜、街に繰り出します。代官山や青山…、そうですね。ひたすら、食べ歩きました」。料理やサービスはもちろんだが、ユニフォーム、食器、音楽、内装…、いいも悪いも、すべてが教科書だった。情報をインプットし、三宅流に再構築する。
「当時のビヤホールは、サラリーマンのメッカなんですね。だから、思い切ってライオンじゃなくしよう、というのが最初の発想です。そう、若い人たちをターゲットにしたわけです」。
それで、生まれたのが「点(ともる)ですか?」
「そうです。でも、最初の試食会では『任す』と言っていた上司も黙っちゃいましたね。だって、サッポロライオンなのに、ビールは1種類だけ。グラスサイズも大も中も小もない/笑。ビヤホールの定番料理の枝豆もやきそばも、ピザもない」。
「ランチ営業もしない」と言い切ったそうだ。「どうして、ランチをしない?」。ある上司がきつい口調でたずねたが、「仕込みができないからだ」といい放った。
「まるで今までと違います。まったく新たなコンセプトです。いうならば、脱サッポロライオンですね」。実際、三宅氏は、従来の客をしめだしている。「もちろん、狙ったわけではないですが、結果的にそうなってしまいました。だって、今までのメニューもない。ライオンなのにビールも1種類」。
老舗のビヤホールチェーンが、何を思ったかプライベートダイニングをはじめた。この噂は、すぐに雑誌社やTV局の知るところになり、取材が殺到する。
・・・続き
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