2019年5月17日金曜日

RIZE株式会社 代表取締役 大間謙一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”RIZE株式会社 代表取締役 大間謙一郎氏登場
本文より~

日常に、暗雲がたち込める。

君津市は「新日鐵住金 君津製鐵所」で知られている。ネットで調べれば、1960年君津製鐵所の操業により人口が急増したとある。今回、ご登場いただいたRIZE株式会社の代表である大間氏のご両親が、九州から君津に移られたのも、その頃だ。
ご両親は、製鐵所ではたらく人々の胃袋をみたす飲食店を開始された。最盛期には同時に3店舗、結果的には7~8店舗出店していた。「玄界灘」と言えば、君津ではかなりの有名店だったそうである。
「私は1975年に君津で生まれます。ハイ、根っからの君津っ子です。父の店が最盛期だったのはバブルの頃でしたから、私が中学になる頃ですね。当時、シーマって車があったんですが、父は千葉で2番目の購入者だと威張っていました。それだけ、羽振りがいい時代だったんですね」。
ところが、だんだん雲行きが怪しくなる。「だんだん、親父の車のグレードが下がっていくんです」。それでも、うちにはお金があると思っていたそう。「だって、生活はなにも変わりませんでしたし…」。
まだ、中学生。知らないで当然だ。しかし、雲は、だんだんとあつくなる。

韋駄天。高校から走り去る。

小学校の頃から駆けっこが、はやかった。サッカーも巧く、運動神経は抜群。ただ、才能に溺れず、練習もした。「からだを痛めれば、それだけ巧くなれると信じていたんです」。
中学2年になると、3年も含め、大間氏の先を走る生徒はいなくなった。タイムを聞くと、100メートル11秒台。そりゃ、敵わないはずだ。
「女の子にもモテましたね。ええ、挫折なんて知りません。勉強だって、やればできるほうでしから。ただ、勉強はもちろんですが、サッカーや陸上にものめり込むことはできなかった。高校も、すぐに退学してしまったんです」。
高校に進んだはいいが、留年が1年の夏に早々と決定。2年になる前に高校を中退した。16歳。むろん、何もやることはない。

選択肢は2つ。東京か、アメリカか。

「うちから店まで、そう離れてはなかったんですが、当時は妹が私のごはんをつくってくれていました。私たちは3人きょうだいで、年の離れた弟がいます。まだ医大に進んでいます」。自慢の弟である。
「私は、16歳で高校を中退し、父親の紹介で東京にある割烹に就職します。就職といっても『小僧』の就職です。でも、いま私があるのは、その店のおかげです」。
「飲食の道に進もうと思っている」と打ち明けた大間氏に、父親は2つの選択肢を用意した。一つはアメリカ、もう一つは東京。「アメリカっていうのは、ステーキハウスの『紅花』でした。ただ、アメリカで仕事をするなんて想像もできないから、東京を選択します」。
小僧の修業は、たいへんだった。しかし、たいへんな道を進むのは、スポーツとおなじ。甘い仕事より、大間氏には向いていた。
・・・続き
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