2018年7月10日火曜日

株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ブランニュー 代表取締役 織野敏一氏登場。
本文より~

国民食で勝負。

日本でもおなじみのカーネル・サンダース氏がケンタッキー・フライド・チキンを創業したのは65歳の時だそうだ。今回、ご登場いただいた織野氏は、カーネル氏より10歳若い55歳で「鶏唐揚専賣店」を創業した。
「おしながき」をご紹介すると、定番のしょうゆ、塩、にんにく入りのスパイシー、カレー、チーズ、甘だれ…、すべて100グラム、210円。お弁当もあり、こちらは税別で500円。毎日でも足が向く種類の数と値段だ。
ある調査によれば、「鶏の唐揚げ」は、人気ナンバー1の定番おかず。スーパーに行っても数十種類の「唐揚げ粉」が置いてある。それだけ、人気が高いということだ。
織野氏も「唐揚げは国民食でしょ。だから、勝負できると思ったんです」と語っている。
とはいえ、競争相手は少なくない。織野氏の経営手腕が問われる点だ。
では、その話に移る前に、いつも通り織野氏の足跡を追いかけてみよう。

テニス、スキー、飲み会、バイト、時々、勉強。

織野氏が生まれたのは1960年2月。品川で生まれ、横浜で育っている。2人兄弟の長男。
少年の織野氏は、当時は誰もがそうだったように野球が大好きだった。特定の球団はなく、とにかく強いチームが好きだったそうである。中学に進んでからはテニスを始め、高校時代には関東大会にも出場している。学業のほうも優秀で、高校は県内でもトップクラスの進学校に進んでいる。ところが、学業のほうは、高校入学後、徐々に順位を落としていったらしい。
「進学校ですから、ランク分けされるんです。AからEまで。このすべてにランクされた生徒はそういないんですが、私はAからEまで、すべて経験しました。学年トップクラスから、その逆まで。高校に進学してから、ぜんぜん勉強しなかったものですから/笑」。
高校時代はとにかくテニスと遊びに没頭した。学業はそっちのけ。
「大学は日本大学です。専攻は経済。こちらでも勉強より、テニスやスキーに飲み会やバイトっていう生活です。この時のバイトがきっかけで、大学卒業後、『ウエラジャパン』に就職します」。
どういうことだろう。
「バイト先の貸衣装店の社長が紹介してくれたんです。『君にピッタリのいい会社がある』と」。
織野氏が就職したのは、氏が22歳の時だから、1982年。「ウエラジャパン」が設立したのが、1972年だから設立から10年経過している。(ちなみに、2010年P&Gジャパンに統合され、現在、コンシューマー向けのウエラ製品は、コティ・プレステージ・ジャパンから発売されているそうだ)。
ともかく、バイト先の社長が、織野氏を紹介したのは、当然、織野氏を見込み、織野氏の性格も知ってのことだろう。
外資というのも、織野氏にとっては幸いしたのではないか。
こののち、織野氏はヘッドハンティングなどで転職を繰り返すが、当時の日本流の「はたらきかた」を知る者からすれば、枠にはまらない生き方自体が新しい。
ともかく、織野氏は、この「ウエラジャパン」で、織野氏はめざましい活躍をつづける。

打ち立てた金字塔。

入社しておよそ10年間、「社内の表彰を総なめにした」と織野氏は語る。入社、以来8年、つまり96ヵ月、連続で目標を達成しつづけたそうである。唯一、達成しなかったのは、入社1ヵ月目のみ。いまでも、そうそう破られることのない金字塔に違いない。
その活躍が、スカウトの目にとまる。
「ヘッドハンティングされて、ペットフードのメーカーに転職しました。そちらでも目標は常にクリア。1年後には東京支店の支店長に抜擢されました」。
独立採算制だったそうである。
「だから、そちらで経営全般を学ぶことができました。とくに流通や物流を学んだことが、そのあとの人生に役立ちます」。
やがて、二度目の転機を迎える。「また、ヘッドハンティングです/笑。今度は、美容室のチェーン店の本部です。そちらで110店舗の統括部長になります」。入社3年で31店舗のFC店をオープンし、敏腕ぶりを発揮する。
「こちらには8年いて、そこからまた引き抜かれて、大手の美容ディーラーに移ります」。
なんともはや。引っ張りだことは、こういうことを言うのだろう。
・・・続き
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