2015年9月9日水曜日

株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社メティウスフーズ 代表取締役 松澤 俊氏登場。
本文より~

人生を開くカギとなった、「ルクセンブルク」。

「ルクセンブルク」は通称で、ただしくは「ルクセンブルク大公国」という。ドイツとフランス、ベルギに囲まれた小国だ。面積は神奈川県と同規模にすぎず、人口も10分の1に満たない。とはいえ、ヨーロッパのなかでも経済的に恵まれた国で、豊かさは「世界最高水準」と言われているそうだ。
「ルクセンブルクは、移民の国なんだそうです。なかでもドイツ人が多くを占めていましたので、料理はドイツ料理。そう、ソーセージとかです(笑)」。
今回、ご登場いただく松澤 俊氏が、単身「ルクセンブルク」に渡ったのは、氏がまだ21歳の時である。
「母や、世話になったチーフに背中を押された」とのことだが、21歳の青年にとっては、大きな決断である。
滞在はわずか1年だったが、この1年が松澤氏の人生を開く一つのカギになったことは疑いない事実である。
ところで、松澤氏が21と言えば1993年のことである。バブルが崩壊し、日本経済が長いトンネルの入り口にたたずんでいた時である。

「チューバ」を吹きながら、独立を考えた少年時代。

松澤氏が、生まれたのは1972年3月28日。
「生まれは、東京都の杉並区ですが、北海道の『さまに』町でも暮らしていました」と松澤氏。「さまに」は漢字で「様似」と書くそうだ。初めて聞く地名だったので、調べてみると、「日高本線」の終着駅が「様似」駅だった。北海道の「襟裳岬」にある町と言えばイメージが湧くだろうか。
中学生になった松澤氏は、様似ではなく、東京の多摩にいた。そして、「チューバ」を吹いていた。
「チューバ」は、トランペットを大型にしたような金管楽器である。金管楽器のなかでは、もっとも大きいそうだ。この「チューバ」を少年、松澤は、吹いた。チューバ独特の低音が、流れ出す。
「中学生の頃は、吹奏楽に没頭しました。演奏していたのは、チューバ。そう、あのでかい奴です(笑)」。「吹奏楽に没頭した」と松澤氏は言うが、「時折、サッカー部にも顔をだしていた」そうだ。たんなる「気まぐれ」かもしれないが、「音楽」と「スポーツ」の両方に才能があったのは確かである、
ちなみに、松澤氏は中学を卒業後、就職する。そのあたりの理由を知りたくて、「独立志向はその頃からですか?」と質問してみた。中学時代から「独立」を具体的にイメージしていたという経営者とも少なからずお会いしてきたからだ。
「そうですね。私も中学くらいにはもう、『独立しよう』と決めていました。だから、中学を卒業してすぐにはたらくつもりだったんです」。
両親に反対されたそうだが、松澤氏の意志は固かった。中学卒業と同時にはたらき始める。むろん、道はそれほど多くない。飲食は、独立志向の強い松澤氏にとって、格好の選択肢だったはずだ。
就職先は、東京駅八重洲口にある「ホテル龍名館東京」。ちなみに、今も健在で、ミシュランガイドに4年連続(2012 年~2015 年)で掲載されている。外国人にも人気のホテルだという。

「ホテル龍名館東京」から「ルクセンブルク」へ。

「当時、いくつか内定はもらっていたんですが、お断りして、『ホテル龍名館』でお世話になろうと決めました。面接官が料理部門のチーフで、それが決め手になりました。同期は3人。中卒は、むろん私1人。私がもちろん最年少です(笑)」。
中卒。まだ15歳である。しかし、社会はそうはみてくれない。
「そうですね。中卒であろうが、まだ子どもだろうが、就職すれば、ほかの人とおなじ扱いです。ただし、素直な性格が幸いしてか、結構、可愛がっていただけました」。
仕事は朝7時に始まり、深夜1時にまで及んだそうだ。それでも月収は10万にも満たなかった。住み込みでなければやっていけない金額だろう。
「当時は、どこもこんなもんでしょ。比較するだけの知識もなかったし。それに、貯まりはしなかったですが、お金が足りないということもなかった。そもそも、暇もないし、お金を使った遊びなんて、知らないわけですから」。
松澤氏は、「ホテル龍名館東京」で6年間、勤務している。下地のすべてがここでつくられた。6年後、21歳になった松澤氏は、冒頭で書いた「ルクセンブルク」に渡るのだが、そのチャンスを拾ったのも、このホテルのなかだった。
「『龍名館』に勤めていた時ですね。同僚から、『オレの身内が、向こうで日本料理店を経営していて、料理人を探しているから、どうだ?』と誘われたんです。ホテルがイヤだったわけじゃないし、仕事もキライだったわけじゃない。そもそも、海外なんて頭がなかった。でも、母に相談してみたら、めずらしく強い口調で『行きなさい』っていうんです。普段、そういう言い方はしない人なんで、これは何か意味があるのかなと思って。それで、ルクセンブルク行を決意したんです」。
「龍名館」に入社した時、面接官として出会い、その後も世話になったチーフも背中を押してくれた。
「もっとも、同僚の話では『経営している』だったんですが、行ってみたら経営者ではなく、『店長』だったんですが(笑)」。
海の向こう。「ルクセンブルク」での生活がスタートする。

イタリアで食べた、パスタの味。

人気店だった。「ルクセンブルク」で勤務した料理店のことだ。
「日本料理店です。お客様は、日本人だけじゃなく、向こうの人も少なくなかったですね。経済的にも豊かな国ですから、『食』に関心がある方が多かったのでしょう」。
アメリカもそうだが、ヨーロッパ諸国も「チップ」の国である。その点も伺ってみた。「そうですね。チップはスタッフにとって貴重な収入源なんです。私もチップが主な収入源でした(笑)」。
1日3000円~4000円のチップをいただけたそうだ。しかし、それが主な収入源とは、心もとなくなかったのだろうか。
「だいたい、そういう薄給には慣れています(笑)。ちゃんと寝るところはあったし、食事にもお金がかからなかったから、別段、問題はありませんした」。
「おかしかったのは、日本にいた時は洋食部門にいたでしょ。だから、外国の料理をつくっていたわけです。で、こちらに来てからは、日本料理でしょ。向こうの人からすればやはり外国の料理です。食だけではなく、異国の文化を、料理を通して紹介する。そういうミッションを、いつのまにか私が担っていたんです」。
「にもかかわらず、言葉はまったくできなかった。日本人は、店長と私の2人だけ。あとはフィリピン人とかね、そういう人たちだったんです。結局、1年いて、相手にギリギリ伝わるかどうかくらいまでしか上達しませんでした(笑)」。 すでに書いた通り、「ルクセンブルク」での料理は主に、ドイツ料理である。
「ドイツ料理はどうも旨いとは思わなかった。でも、イタリアに寄った際に、食べた一皿のパスタ、アレにすっかり参ってしまって。当時、日本にもスパゲティはありましたよ。でも、日本のとは、ぜんぜん違ったんです」。

・・・続き
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