2015年7月21日火曜日

PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”PJ Partners Group Ltd CEO 高橋世輝氏登場。
本文より~

台湾で生まれ、育った少年。名は「ゴ」と呼ばれていた。

小さな頃は「ゴ」と呼ばれていたそうだ。高橋の父は台湾人で、母は日本人。だが、母も台湾で生まれている。小さな頃、高橋が暮らしていたのは、台湾。「台湾では日本語はいっさい使わず、マンダリン語、北京語を使っていた」という。
日本に来たのは10歳の時。子どもだから生活にはすぐに慣れた。ただ、日本語はそう簡単にマスターできなかったそうだ。名前が「高橋世輝」と代わったのは、中学生の頃。当時は、陸上部に所属していた。高校は都内の城北高校に進学。米国への留学を決意したのは、この高校時代。英会話をマスターするため、「英会話教室」にも通いだした。準備、万端。大学進学時に、アメリカに向かった。

ワシントン大学からモルガン・スタンレーへ。

「私が最初に通ったのは、ミズーリ州にある『メルビルカレッジ』です。こちらで2年間過ごし、奨学金が下りたので、3年目にワシントン大学セントルイス校に転校しました」。
ワシントンと名はついているが、ワシントン大学もミズーリ州にある。全米の大学のなかでもトップクラスの大学であり、「中西部のハーバード」と言われている大学である。
「アメリカというのは、私に大きな影響を与えてくれた国です。他人に流されず、すべて自分で決める。こういう習慣が身に付いたのもアメリカで暮らしたからです。大学卒業後もアメリカで暮らすつもりだったんですが、就職することになったモルガン・スタンレーが当時、日本に進出していて、『トウキョー』に行ってくれないかと言われて。それで帰国。1986年のことでした」。
1986年。ご想像通り高橋を待っていたのはバブルに突入した日本である。

香港では、アジアの海運王『包玉剛』の関連会社に就職する。

高橋が担当していたのは、債権営業というカテゴリーらしい。モルガン・スタンレーでは、計7年間勤務している。転機は、香港で観た風景だった。「当時、香港は返還前です。活気に溢れていて、私もすっかり魅了されてしまいました」。
アジアで仕事がしたいと高橋は思うようになる。一度、思えば突っ走るのが、高橋流。
「大学の先輩が香港の大財閥の関係者で、『資産管理会社があるから、そちらで勤務しないか』と言われました。その会社は、アジアの海運王『包玉剛』に関係していました。その会社では、1992年~1995年まで勤務しました。父が急に他界し、それをきっかけに帰国。父の会社は妹が継ぐことになりましたが、私はそのまま日本で暮らすことしました」。

オージーワインの店。

高橋は、帰国後、定職を持たず金融やベンチャー企業などを経営する友人の仕事を手伝ったりしていたそうだ。「これだ」という仕事に巡り合えなかったとも言えるし、手伝っているだけでも十分な収入が得られたからだとも言える。そんな時、行きつけのバーが、クローズするという話を聞いた。「ロック125」という店だった。
「この店は、当時めずらしいオージーワインを揃えたリーズナブルな店でした。流行ってもいたんですが、ビルの建て替えでクローズすることになったというんです。それで、もったいないなと思って、店長に独立を勧めたんです。独立の資金は、私が出資しました。元の店のオーナーにも独立の許可をいただき、彼を店長に『アロッサ渋谷』の営業を開始したんです」。15年前の話である。


・・・続き
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