2015年5月12日火曜日

株式会社酒菜企画 代表取締役 西牧重雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社酒菜企画 代表取締役 西牧重雄氏場。
本文より~

杉並区生まれ。

東京都杉並区に西牧が生まれたのは、1962年(昭和37年)。戦後の復興を遂げ、欧米列国を目標に、ふたたび日本経済がちから強く動き始めた頃である。
西牧の父は、浅草橋と信州・松本でミシンの製造・販売の会社を経営していた。
「当時は、右肩上がりでしょ。父親の会社も業績は良かったはずです。兄弟は2つ離れた弟が1人。母は専業主婦。父はというと、たまに帰ってくるんですが『厳格』という言葉通りの人で、私たち子どもにとっては怖い存在でした」。
戦後、誰しも仕事に追われていた。勤め人ではなかったが、西牧の父もまた仕事に追われた1人だったのだろう。父が仕事に没頭する一方、母は、教育熱心な人だった。西牧は母に勧められるまま、野球や柔道を始め、水泳教室、学習塾にも通った。当時ではまだ珍しい中学受験も経験している。
「いまはもう塾に行かない子のほうが少ないと思いますが、当時は限られていました。だから、みんなと遊んでいても私1人、『塾があるから』と先に帰っていた記憶があります。もっとも強制されていたわけじゃないし、そういうのが当たり前だとも思っていたんでしょうね」。<ぼくは、みんなとは違う。父さんの跡を継ぐためには、勉強して偉くならなくっちゃ>。少年、西牧はそう思っていたのかもしれない。
ちなみに小学校から始めた塾通いは中学になっても続けている。中学生になると塾通いが「楽しくてならなかった」そうだ。
「私が進学したのは男子校だったんです。塾に行けば、女の子もいるでしょ」と西牧は笑う。もっとも本当の理由は「成績が上がったから」だそうだ。
「中学から通ったのは英語塾だったんですが、不思議なほど英語の成績が良くって。するとほかの教科も上がっていくんですね。いつの間にか学年でも上位に入るようになっていました」。

大学進学。

高校に進学してからも、成績は優秀だった。優秀だから、大学も推薦で決まった。
「当時は語学が大好きでね。大学に進学してからも英語はできたし、第二外国語も得意だった。でも、だんだんと勉強とは距離が離れていってしまうんです。学生だから仕方がない(笑)」と西牧。ただ、西牧は「大学ってこの程度なのかと落胆した」とも言っている。「大学に進学したもののドライブがかからない」と表現すればいいのだろうか。
話は少し戻る。西牧が飲食と出会った話。高校2年の時のことである。
「うちはけっして貧乏じゃなかったんですが、とにかく小遣いが少なかったんです。高校といえば、異性とも付き合いたくなるじゃないですか。でも、小遣いがないからなんにもできない」。小遣いの額は月/3000円だったそうである。
「服も学ランしかないわけで。まさか学ランでデートというわけにはいかないから、お小遣いで服を買う。するともう残金がないんです。デートどころじゃないでしょ(笑)。で、『バイトをしたい』と言って、許しがでたのが母の親戚の鰻屋さんだったんです」。
「とにかく楽しかった」と西牧はいう。いままで会ったことのない人との出会い。まるで人種が違うような人との出会いを西牧は楽しんだ。社会を覗く窓になったのかもしれない。
「私は、小さい頃から親の勧めに従うような子どもでした。バイトも母の勧めで母の親戚でやるわけですから。ただし、縛られていたわけではない。割と自由にさせてもらったことのほうが多かった気もします。しかし、その一方で、いずれ父の跡を継ぐというのは暗黙の了解だったかもしれません」。
暗黙の了解を、両親が口にしたことがある。大学進学時の話だ。
「元々、行きたい大学があったんです。水産関係の大学です。私はだいたい人嫌いなんです。だから、商売するより研究とかのほうが向いていると思って。それで、サカナを研究するから『○○水産大学に行かせてくれ』って両親に頼んだんですが、猛反対されました。ハッキリとは口にしなかったですが、両親の頭にはいずれ会社を継ぐ息子の姿があったのかもしれません。だから、サカナを研究してどうするんだ、と(笑)」。
「水産大学」。「小さな頃から魚釣りが好きだったから」と志望の理由を上げる。しかし、反対を受け、断念した。という経緯があり、推薦で合格した大学の話に再度、つながっていく。

・・・・続く

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