2014年8月19日火曜日

日本橋ゆかり 店主 野永喜三夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本橋ゆかり 店主 野永喜三夫氏登場。
本文より~

小学生の時に、早くも「からすみ」をマスターする、料理界の天才少年。

創業昭和10年。宮内庁にも出入りを許されている老舗料理店「日本橋ゆかり」。3代目の野永が生まれたのは、1972年2月26日のことである。
小学3年生で早くも魚を3枚に下ろせたそう。小学校を卒業する頃には「からすみ」の作り方までマスターしていたという。凄い少年だ。とはいえ、本人は「遊びの一つ。料理をするのが楽しかったから」と当然のような顔をする。料理だけではなく、ものづくり全般が好きだったのだろう。学業では、図工の成績がずば抜けて良かった。
今も料理だけでなく、空間デザインにも、陶器づくりにも興味を持つ野永らしい少年時代の話である。

「服部栄養専門学校」時代。実技では負けなし。

小学生の頃から包丁を握った。「楽しかったから」と野永は笑うが、「日本橋ゆかり」2代目店主から授かった才能と技は、世代の中ではやはり群を抜いていたのだろう。「服部栄養専門学校」時代、実技で彼に敵う生徒はいなかった。卒業後は京都の名店であり、日本を代表する料理店「露庵 菊乃井」の門を叩くことになる。
「少しでも早く入ったほうがいいだろうと思って、3月26日に入社しました。同期は、私を含め3人。最初から頭一つ抜けようと思ったんです」。ところが、出鼻をくじかれた。「私以外の2人は、1年前から店でアルバイトをしていたんです(笑)」。
標準語になるのかもしれないが、江戸っ子の言葉も壁を作った。
「当然、同期の2人と私では、仕事も違います。彼らは盛付けまで任されていましたが、私は皿洗いなどの裏方の仕事ばかりでした」。周りには、野永同様に名店の2代目、3代目も少なくなかったそう。水をあけられた、と焦る気持ちはなかったのだろうか。「私は、チャンスだと思いました。裏方から周りを冷静にみることができたからです」と野永。
たしかに、端から頭角を現していたとしたら、今の野永はなかった気がする。人は、頭を打たれて初めて貪欲にもなることができるからだ。修業の正体は、それかもしれない。
ともあれ、野永が語る「菊乃井」の話は、とても興味深い。料理人はこうして出来上がっていくというお手本のようにも思えるからだ。

修業時代に書き留めたメモは、何十枚にも。天才少年の努力。

「賄で、うどんを作った時です。こっぴどく怒られました。関東と関西のうどんの違いを知らなかったんです。全く異なる味。怒られながらも、これだけ違うんだって、びっくりしたのを覚えています。」
違いはいろいろあった。料理に対する考え方も、その一つ。「菊乃井」では、男性も接客に努める。料理人であっても、サービスマンでなければならないという考えからだ。知らないことは、全てメモに取った。特に、店主である村田吉弘氏に言われたことは、全てメモに残した。そして、それは何十枚もの束になった。
「もともと菊乃井に入ることにしたのは、父の助言があったからなんです。『これからは、菊乃井の時代になる』と。そういう目で見ていましたから、店をどう運営していくか。料理だけでなく、サービスも含め、総合的に勉強させていただこうと心掛けていました」。
「菊乃井」と実家の「日本橋ゆかり」。その違いを客観的に見て採り入れようともしていたはず。
「人にも恵まれました」と野永は言う。先輩や料理長に可愛がられた。いつしか、はんなりとした京都の言葉もマスターしていたのだろう。「休みの日には、京都の有名な料亭に連れていってもらったりしました。なかには、名店の息子さんもいて。で、『家に行こう』って」。
「繋がっているんですよね」と野永がよく言う。名店の次代を担う店主たちが、修業時代に繋がっていく、そういう様子が伺える。
尊敬できる人にも出会った。「料理長が凄い人で、彼の料理を見てハッとすることばかりでした」と言っている。
食材の生産者にも出会った。「私らが、朝一で農家に行って野菜を仕入れてくるんです。加茂茄子を仕入れに行った時のことです。『食べろ』と言われたんです。『え、生でですか?』って言ったら、『そうだ、食べてみろ』と」。半信半疑でかじると、まるで果物のようだった。「改めて食材の大切さを意識させてくださったのは、この方です。断然、興味が湧いて、休みの日には野菜を育てるお手伝いをさせていただきました」。交流も広がった。今も電話一本で、食材を入手できるのは、当時からの付き合いがあるからだ。
いつしか、先輩たちを追い抜き、頭角も現した。村田氏がTV出演する際のサポートをするようにもなったのは、入社して1年後の20歳の時だった。「神経も使ったし、胃潰瘍も起こしましたが、そういうことを乗り越えて今があるんだと思います」。
才能。野永もインタビューで、才能という言葉を使った。たしかに、野永の料理を見ると、芸術家にも似た才能を感じる。しかし、決して才能が独り歩きした結果でないことが、「菊乃井」時代の話を聞いて良くわかった。
休日になるとバイクで畑に向かい、畑を耕す。店主の言葉を聞き漏らさずメモに取る。「絵コンテ」を描いて、レシピを再現できるようにもした。その一つひとつが、才能という二文字を開花させることになったことは間違いないだろう。・・・・続き
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