2014年3月11日火曜日

株式会社綱八 代表取締役社長 志村久弥氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社綱八 代表取締役社長 志村久弥氏登場。
本文より~

天ぷらの名店「綱八」の話。

さくっとここちよい音がする。
衣に包まれた、新鮮なネタの旨みがとたんにつたわってくる。天つゆでいただくのもいいが、塩もおつだ。
ホームページのクレドのなかに次の一文が載っていたので、引用する。
<我々にとって食材は『食財』です。旨いの源です。食財を大切に常に最高の状態でお客様にご提供します>。
食材を食財という。この思いがいい。食材が改めて、注目されるなかで貴い考えであるとも思う。
天ぷらといえば、アッパーなイメージが先行しがちだが、ランチだと昼膳が1260円で食せるそうだ。コストパフォーマンスもいい。
創業は、大正13年。創業者は、志村久蔵氏。
今回ご登場いただく、現、代表取締役社長、志村 久弥は、久蔵氏の孫にあたる。
店名について、おもしろい話も伺ったので掲載する。
「もともとは、網八(あみはち)だったんです。だけども、祖父が達筆すぎたんでしょうね。お客様が『網』じゃなく、『綱』と思って、綱八(つなはち)というんです。良く考えると響きも良く、『結ぶもの』として『綱(つな)』という字が、魅力的だと考えて、いまの『綱八(つなはち)』に変えたそうなんです」。
結ぶもの。なるほど「綱」は、つよく結われ、多くのものを結ぶ。創業以来、「綱八」が結んできたものも含めて、話を伺った。

「綱八」、高度経済成長期の波に乗る。

「祖父は、職人気質だった」と志村は語る。20歳まで祖父は存命だったので、志村も祖父のことは鮮明に記憶している。
「みなさんが職人と聞いて想像する通りの人です(笑)。店も、いわゆる『天ぷら屋』。基本的に無口で威厳のある人でした」。
「もともと曾祖父の代までは魚屋だったそうです。当時、新宿周辺には、天ぷら屋が多くあったそうです」。
創業当時は、「綱八」もよくある街の「天ぷら屋」だった。
もっとも職人気質の久蔵氏が揚げる天ぷらは、このうえなく旨かったに違いない。いまも受け継がれている、当時の「心」と「技」からも想像できることだ。
元来、町の天ぷら屋だった「綱八」が、世間一般に知られるようになったのは、父、圭輔氏によるところが大きい。
若い頃は、「東大」をめざしたというから、博学の人だったのだろう。大学卒業後、迷わず「綱八」に入社し、従業員として、寮で寝起きし、イチからすべてを学ばれたそうだ。
その父と祖父が一度、口論することがあった。
「マイシティ店を出店する時です。祖父は職人気質なんで、手を広げることに反対だったんです。逆に父は、チャンスだと思い、譲らなかった。それで口論になったんですが、結局、祖父が折れ、出店が決定。父は、時代を感じ取っていたんでしょうね。当時は、高度経済成長期です。マイシティ店を皮切りに、小田急店など次々と新店を出店し、成功を収めました」。
創業者から、2代目、経営者へ。個人商店から企業経営に大きく舵が切られたのは、この時である。・・・・
続き
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