2014年3月4日火曜日

広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏(マーシュ株式会社 代表取締役)登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”広尾「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏(マーシュ株式会社 代表取締役)登場。


本文より~

めざせ、パイロット!

「中学2年の時、トムクルーズ主演の『トップガン』という映画を観て、パイロットになろうと思った。」と桝谷は切り出した。
「中学を卒業するなり、パイロットなどを育成する学校に進学しました。これで、パイロットになれると思っていたのですが、現実はそう甘くなかったです。結局入学した8割が自衛隊に入隊するというから、そりゃ、違うだろうって思って。わずか3ヵ月で中退しました。」
「パイロット」という目標もなくなり、心にぽっかり穴があいた。

往復ビンタの日々。

小学校の時から問題児だった。「親が学校に呼び出られることも日常茶飯事だった」と桝谷は笑う。中学になってバレーボールを始めたが、生活態度は褒められたものではなかったようだ。
中学2年時には、学校をさぼって、春スキーへ行ったこともある。
スキー焼けした顔で登校すると、「どこへ行っていた!」と担任に詰め寄られた。「とっさに、『屋上です』といったのですが、ジョークが通じる相手じゃなかった。問答無用、廊下に出され、往復ビンタです(笑)」。
担任は、3年間、桝谷の担当を務めてくれた。互いに気心は知れている。直裁に、諭された。「おまえは勉強ができないから、技術を磨け」が担任の口癖となる。
今でもイカツイ風貌を覚えている。
「柔道をしているから、耳が腫れているんですよ。そのうえ顔に傷がある。はむかっても敵いそうにない。手も早く、何度もビンタを喰わされた。それでも愛情を感じていたのは事実です」と桝谷は目を細める。
担任に、坊主にされたこともある。素行をみかねてのことだろう。担任以外は、怖いものもなく、学校でも、学校以外でも、いきがっていた。
夜の歌舞伎町や大久保も、桝谷のホームグラウンドだった。「パイロットになる」という目標だけが、まっとうなことだったが、その目標も進学後3ヵ月で霧散した。
担任の往復ビンタより、痛かった。

救いの神は、唐揚げ。


中学時代の担任が太鼓判を押したように、勉強はできなかったし、好きではなかった。いまさらしようという気にもならない。スポーツにも熱中できなかった。堪え性がなかった、といえばそれまで。「何者か」になりたかったが、起動スイッチが入らない。そういう時代であった。
親父が「こいつは東京にいたらおかしくなる」と言ったことがある。「私は、だったらアメリカに行きたいと言ったのですが、『アメリカに行ったらシャブ中になって帰ってくる』と取り合ってはくれませんでした(笑)」。
姉からは、「あんたこのままいったらチンピラだよ。更生もできないよ」と諭された。忙しい両親に代わって育ててくれた姉の言葉は重かった。
「そんな時ですよね。なぜか、小学4年生の時のことを思い出したんです。」何を思い出したかといえば、「唐揚げ」だった。この1枚の記憶が、桝谷を人生の混迷から救い出すことになる。
「小学校4年生の時に、NHKの料理番組を観ながら唐揚げを作ったんです。私が初めて作った料理です。そして、みんなから初めて褒められて…」。
そういうことを思い出したという。それからも何度か料理をした。その度に、巧くいった。「料理」という文字が、「未来」という文字に重なる。
「当時はもう大卒が当たり前で、悪くても高卒でした。さすがに中卒はいない。」「中卒」というレッテルが付き纏うことはわかっていた。
桝谷は2つのことを決意した。
一つは料理の世界に進むこと。もう一つは、自分を叩き直そうということ。
その2つを叶えるために、「日本青年館」へ進むことを決意する。
ちなみに「日本青年館」は、東京・神宮外苑地区にあるホテルやホールなどを備えた複合施設で、財団法人日本青年館が運営している。1925年に青年団のための施設として開館したそうだ。
青年団という響きが、強くなろうと思う桝谷の胸を打ったのだろうか。ともかく、桝谷は料理の道に進むことを決意した。これが16歳の時である。
・・・・
続き

「オステリア・ルッカ」オーナーシェフ 桝谷周一郎氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿