2022年9月13日火曜日

株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏登場。 

本文より~

社長失格からリターンマッチで返り咲いた男。

東京都杉並区阿佐ヶ谷を舞台とする漫画『若者たち』(2007年映画上映)。この物語で主人公たちのたまり場として、たびたび登場するのが『ぽえむ』という名の喫茶店。
この喫茶店を開業したのは、現代表取締役社長・山内豊也氏(以下、豊也氏)の父、山内豊之氏(以下、豊之氏)。豊也氏は、二代目社長として父亡き後、27歳で社長に就任したが「ダメ出し」をくらい、一旦は身を引き、6年後、リターンマッチで返り咲いた。
ここにいたるまでの豊也氏の51年にわたる人生と顛末は、おいおい語るとして、まずは、『ぽえむ』を運営するにいたった父・豊之氏の足跡から始めることにする。

武家の末裔、父・豊之氏。喫茶店経営に乗り出す。

日本珈琲販売共同機構の母体は、1966年に豊也氏の父・豊之氏が東京都杉並区にコーヒー専門店『ぽえむ阿佐ヶ谷店』を開業したことがスタートだ。
「父は高知県の出身で、土佐藩十五代藩主・山内容堂の分家にあたります。いわば“武家”の出ですね。代々、理系の学者や教員など教育関係に携わった家柄ですが、父だけが“突然変異”とでもいうのか、独自の道を歩んだ人でした。シナリオライターになりたかったそうですよ」。
父・豊之氏は、大阪と高知両県の大学で学び放送研究会に所属したこともあり卒業後、シナリオライターを目指し上京。とは言え、即、シナリオライターとしての仕事があったようではなかったようだ。
「収入を得るためもあったのか、下高井戸の喫茶店にマネージャーとして勤めていました。それが上手くいったみたいで、“自分で喫茶店をやってみよう”と思ったのが発端のようです。父が30歳くらいのときだったと思います。父には父なりに東京で一旗揚げる、という意気込みがあったのかもしれませんね」と豊也氏。
ちなみに、この下高井戸の店時代に見初め結婚したのが、10歳年下の母・本子さんだ。

フランチャイズ黎明期。次の時代を見据えた父の決断。

「先ほども言いましたが、1966年、東京都杉並区に父が母と『ぽえむ阿佐ヶ谷店』を開業したのは父が30歳のときでした。7坪ほどの小さなお店でした。経営が軌道に乗ったこともあり4年後の1970年『ぽえむ下高井戸店』を出店しました」。
「創業当時、フランチャイズ黎明期とでもいうのでしょうか、現在のような明確なフランチャイズ展開というのは形作られていなかった時代でした。ただ父は、“アメリカで拡大しているフランチャイズ・ビジネスが早晩、日本に上陸するだろう”という自分なりの考えというか確信があったようです」。
「創業は1966年ですが、1971年に日本珈琲販売共同機構を設立しましたが、これは“フランチャイズ”展開を睨んだものでした」。
ただ設立には、単に“フランチャイズ”の店舗数を“量的”に拡大させるのではなく、“質”も備えた“フランチャイズ”という明確な理念と思想があった。
「父には『日本に本物のレギュラーコーヒーを広めよう』という意気込み、思想が底流にありましたので、当時の業界の常識を覆すような事ばかりを進めていました。ですから“フランチャイズ”展開を進めるにあたって誰でもいいのではなく、こうした思想を共有できる方がいいと考えていました」。
つまり思想を結実させるには、“志”を同じくする、言い換えるなら“同志”たちと意識を共有することが成功に繋がるという確信があったからだと豊也氏は、父・豊之氏の決断を語る。
こうして始まった『ぽえむ』は、豊之氏の考えに共感したオーナーによるフランチャイズ店が拡大、1975年頃には50店舗、豊也氏が小学生の頃には、最大で80店舗ほどにまで広がった。
『日本に本物のレギュラーコーヒーを広めよう』という“思想と志”を貫いてきた父・豊之氏が52歳のとき他界した。豊也氏が中学3年生、15歳のときだった。その当時、FC店が70店舗ほどあったという。
人それぞれ、各人各様に人生の“転機”がある。豊也氏にとって父の死は最初に訪れた最初の“転機”になった。

“頭でっかち”だった少年が会社を継ごうと決心した日。

さて、現在、父・豊之氏の意思を継ぎ社長を務める豊也氏は、豊也氏は、1971年、東京都世田谷区で父・豊之氏と母・本子さんの長男として生まれた。3歳下に弟が一人、4人家族で育つ。
「振り返ってみれば、“内向的で頭でっかち”の子どもでしたね」と豊也氏は振り返る。
“頭でっかち”という言葉は二通りの意味がある。一つは文字通り“頭のサイズ”が大きいこと。もう一つは、知識が豊富で賢いけれど行動が伴わなかったりする人を指し、ネガティブなニュアンスで使われることが多い言葉だ。そんな“頭でっかち”少年だったが、進学塾に通い始め、そこで知り合い、仲良くなった友人もでき、勉強が好きになったと語る。
小学校を卒業して、いわゆる世間では進学校と称される中高一貫の麻布中学へ進学した。
「カルチャーショックとでもいうのでしょうか、学力レベルの高さに驚かされましたね。次元が違う子たちがイッパイいました」。
中高一貫の有名進学校に進んだものの、将来展望を持ち具体的な目標を設定したわけでもなく、卒業時には明確な志望はなかったと言う。
15歳の時、父・豊之氏が亡くなったのだが、“父の仕事を継ごう!”ということまでは考えていなかった節が伺える。
進路の決まらない(決められない?)、何を目指せば、どこを目指せばいいのか分からなくなっていた豊也氏だが、「国際基督教大学の国際関係学科に行こうと思っていましたが、最終的には2年浪人の末、早稲田大学第一文学部へ進みました」。
どんな学生時代を送ったのか。
「学業の思い出は大学の図書館でお経を読んだこと(笑)。あとはイベントスタッフのバイトは結構楽しかったのですが、現実の社会や自分の環境が正視できなかったんです。3年まで進んだんですが、会社の経営も悪くなっているのも知っていたので22歳のとき中退し、会社に入りました。父が亡くなる直前、高知で初めてのFC出店を認めた松下さんという方、この方、現在、弊社の会長を務めているのですが、このころ食事をする機会があり、そのとき『もう親を泣かせていい歳じゃないよね』と諭されました。この言葉に『やらなきゃ』と思うようになり、きっかけにもなりました」。
大きな決断だった。

“社長失格!”「ダメ出し」を突き付けられる。

入社後、二度目の転機が訪れる。社長就任である。27歳だった。
「父が亡くなったときまだ15歳でしたが、子ども心に自分が父の想いを継がなくちゃとは思っていました。弟も同じ思いだったと思います」。
一時は母が社長を務めていました。ただ、母は家庭からいきなり経営者になったので、周囲に頼りながらどうにか会社を守っていたのが実情でした。
「わたしより先に弟が大学には行かず18歳で会社に入っていましたが、わたしはいきなり役員として入りました。当然軋轢も生まれ、思いを同じくしていた弟も3年で退職してしまいます」。
27歳で社長に就任した豊也氏。残念なことに経験不足はどうしても否めない。二代目社長(厳密には三代目)にとって見本、手本となる初代の仕事ぶりを見たこともなければ、学んだこともなく、いわば“暗中模索”で取り組むしかなかった。
「自分ならできるという思いばかりが強くなって、家族のみならず、社員やスタッフとの関わりも一方通行になりがち、一人空回りする事が多い10年だったと思います」。
自分の未熟さや会社運営など山積する諸問題の解決に向けて、なかなか全てを相談出来る人もなく追い込まれていく日々を送る中、創業当時の社員の方に意見やアドバイスを求めて、会社の中に入ってもらう事になったが、結局その方に社長失格の烙印を押され、生え抜きの別の役員に社長の座を明け渡し会社を出る事になった。

人事の刷新、自身は修業へ。

『社長失格』ということで解任された豊也氏。社長就任にいたるまでいささかの経験を積んだといっても社長業は“重き荷物を背負う”ようなもの。荷物の重さに耐えながら歩むことは、足腰の強さと相当の体力が必要だ。当時の豊也氏には、過酷だったのかも知れないし、一方で同情も禁じ得ない。
社長就任から実質解任されたこの時期は、同社にとって大きな変革を迎えるきっかけになったのかもしれない。
「悪化した状況を改善すべく挑んだ、いわば人事の刷新でしたが、それでも経営は改善どころかひどくなり、当時大阪での私の指南役で支えになって頂いた松下さん(現会長)が会社の陣頭指揮をとることになりました。会社は最大の危機でしたが、私は大阪で一心不乱に働くしかありませんでした。むしろ、そう後押しして頂きました」。
新しい陣容で経営改善をはかると同時に豊也氏は、西へ、大阪へ向かった。修業のために。

“捲土重来”を期して、修業のために大阪へ。

“着の身着のまま”というか、“転勤”ではなく“修業”なので、身の回りの必需品を詰めたバック一つで、土地勘もなく、知人とて多くない大阪へ向かった豊也氏。
「豊中にある『ぽえむ』のFC店のそばにアパートを借りて、なかば居候でお世話になることになりました。仕事内容は、大阪市内、阪神地区への営業活動でした。まったく知らない土地でしたが、ひと握りの知人や周囲の方々のご厚意で、少しずつ営業先をご紹介いただき、ひたすら歩いて回りましたね。“どぶ板営業”というのでしょうか、人のご縁にも救われましたが、自分の直観を信じ、飛び込み営業に再三挑んだり、異業種交流会や地域の会合などにも積極的に参加し自分の顔を知ってもらうなど、“日々是精進”でした」。
当然ながら厳しい方もいたようだが、豊也氏の切実、真摯な姿、営業に門戸を開いてくれた方があちこちにおり、今でもお世話になっている方も多いようだ。
こうした活動を積む重ねた3年度、“居候”していたFC店のオーナーが引退することになり、豊也氏から願い出て同店を引き継いだ(現在は、後任の店主に譲り盛業中)。

“やったつもり”の姿勢が根底から覆された。

FC店を引き継いだ豊也氏。
「“ワンオペ”からスタートしました。毎朝お店の前にたって地域の方に朝のご挨拶をすることからはじめました。こうして、少し少し、一歩一歩ではありましたが、お客さまを増やしました」。
“毎朝のご挨拶”いうが、雨の日もあっただろう。強い風、冷たい風が吹き抜けた日もあっただろう。台風のときもあっただろう。言葉で言い表せない辛い日だってあった筈だ。そんな簡単なことではなかった筈だ。これを豊也氏は3年間、継続した。
「振り返ってみれば、会社には“仕事未経験”でありながらいきなり取締役で入社し、現場に立ったり、新規営業にも行きましたが、結局は誰かの信用や業務の積み重ねのお陰だったんだと気づきました。こうした事実への配慮も感謝もなく、『やったつもり』だったんだと思い知りました」と含蓄のある言葉を口にした。

・・・続き

株式会社日本珈琲販売共同機構 代表取締役社長 山内豊也氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿