2020年3月4日水曜日

IFC株式会社 代表取締役 谷舗治也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”IFC株式会社 代表取締役 谷舗治也氏登場
本文より~

昭和に生まれた、日本人と食パンのいい関係。

食パンの時代と書くと、日本人のアイデンティティである米食は、どうなったんだと言われそうだ。しかし、ある調査によると、パンの消費が、米の消費を超えているという。
炊かないといけない米と比べ、パンは、手軽である。トースターがあれば、あとはバターかジャムで。ハムエッグとスープをつくれば、立派な朝食になる。レストランでも、ライスではなくパンをチョイスする人が、少なくないそうだ。
パン食は、いうまでもなく戦後に広がる。学校給食にパンが登場したのは、いつ頃からだろう。昭和の真ん中あたりだろうか。街にも、ベーカリーショップが登場する。あんぱん、カレーパン、焼きそばロール…。むろん、食事となれば、やはり食パンだろう。 今回、ご登場いただいた谷舗氏が経営するIFC株式会社のホームページには、そんな時代の名残の一文がある。<一本堂は、焼きたて食パン専門店として、大阪の住宅街で創業致しました。昭和の時代、町中にお米屋さんがあったように、焼き立ての美味しい食パンを提供する店がもっと身近にあってもいい>。
そう、昭和の時代には、街中に米屋があり、街で暮す人々に寄り添っていた。しかし、いつしかスーパーマーケットに買い物に行くようになり、多くの米屋は姿を消す。代わりに、ベーカリーショップが、その役割を果たしているように思う。フランスなどは、たぶん、そうなのだろう。
米は、自宅で炊くものだが、パンは焼き立てを購入するのが、いちばん旨いからだ。我々はそのことにもう気づいている。
さて、そのIFC株式会社の経営者である、谷舗氏もまた昭和ど真ん中の人である。生まれは、1959年。大阪市出身だ。では、ここから先は、いつも通り谷舗氏の足跡を追いかけていこう。

大手予備校のFC校の拡大に貢献

「私の父も、母も学校の先生でした。ただ、母の兄、つまり私の叔父はパン屋を営んでいます。中学生の頃は、陸上部で、これといった成績は残していません。大学を卒業して、3年間、製薬会社で勤務しました。こちらを退職し、5年間、公務員として勤務しました」。
転機という意味では、30歳で教育関係の会社に転職したことだろうか。「こちらでは、約8年間勤務します。30代で部門責任者になりました」。
当時の話が、面白い。「その会社で、FC事業部に配属されるんですね。最初は、1校です。それを700校までに拡大しました。スタート時の社員は3人だけ。FCシステムの素晴らしや恐ろしさを学びました/笑」。
コンサルタントにも習い、本もむさぼるように読んだそう。「すべて、手探りだった」と谷舗氏。ともかく、1校から700校へ。その教育機関は、いまや日本を代表する予備校の一つだ。
将来性も、安定性もある会社に在籍していたにもかかわらず、どうして次の道に進むことを決意されたんだろう?
「一口にいえば、やりきった感ですね。日本中に広がりましたからね。もう一方で、飲食に興味があったんです。だから、予備校で学んだFCのノウハウを活かして、飲食店のFC化のコンサルを始めるんです。だから最初はパン屋になるとは思ってもいなかったんです/笑」。
50代になっていたから、コンサルタントの期間は長い。
「京都にベーカリーレストランがありまして、私は社外の役員をさせていただいていたんです。この時、ですね。パンに興味をもったのは。パンの製造などと出会ったのもこの時です」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

0 件のコメント:

コメントを投稿