2017年7月4日火曜日

株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏登場。
本文より~

22歳、鎌倉にて創業。

「小町通の入り口の地下だね」と、荒井氏は語りだす。「22歳の時だから、もう47年前になる。あの頃はananって雑誌がブームでね。鎌倉もすごいことになっていた。えぇ、賑わってました。でも、そのおかげでお金の重さを忘れかけた時もあったほどです」。
JR鎌倉駅を降りれば、鶴岡八幡宮につづく道がある。その道に平行して走る細い道が小町通である。「当時は、景気も良かったし、だいたい今みたいに店がいっぱいあったわけじゃなかったからね」。
鎌倉に行って、江ノ電に乗って。
たしかに、当時、鎌倉は憧れですらあった。

ヨットハーバー、別荘と違う、もう一つの葉山。

「もともと私は葉山の生まれなんです。9人兄弟の末っ子です。葉山といっても、うちは海ではなく、山のほうで農家をしていました。米に野菜。私はいちばん下でしょ。兄たちは何だかんだと理由をつけて遊びに行ってしまうもんだから、いつも私が畑仕事をしていました」。
「葉山からは、遠くは富士山まで望むことができるんです。山と言いましたが、海まで2キロ程度。そういう意味では自然に恵まれた、風光明媚なところです。今じゃ田んぼもぜんぜんないし、農家をしている人も少なくなってしまいましたが、当時は田んぼと畑ばかりで。ガスも水道もなかった。ガスは炭でしょ。水道は井戸ですよ。うちは牛も、ヤギも飼っていました」。
しかし、田舎という、今のイメージでひとくくりにはできないようだ。「私らの代はベビーブームです。小学校は53人のクラスが13組まであった。生徒が多いもんだから、それなりに広い運動場なのに、狭くて、狭くて(笑)」。
「勉強はできなかったが、スポーツはできました。とくに野球はうまかった。遠投もいちばんだったからね。学校のいちばんです」。
荒井氏が、中学に上がる頃にはいちばん上の姉はすでに30代の半ばを超えている。「姉の息子と私は2歳半しか離れていないんです(笑)」。日本中に子どもたちが溢れていた。
荒井家も親戚を含め、とにかく大家族だった。

勉強をしたくても、できない大学?

「今の人にはぴんとこないだろうけど、私らの頃には学生運動っていうのがあってね。大学も閉鎖。やりたくても勉強一つできやしなかったんです」。
学生運動というのは、学生たちが行う社会運動のことである。代表的なものは、1960年の安保闘争、1968年~1970年に亘る全共闘運動・大学紛争を挙げられる。荒井氏がいうように、打ち手のない大学は、大学そのものを閉鎖した。
荒井氏が進んだのは、明治大学だったが、紛争の波は、そちらにも押し寄せたのだろう。「このままでは、まっとうな勉強もできない」と3年生の時に中退する。「私は英語が好きでね。でも、それも勉強できないでしょ。意味ないなぁって」。

「政治に関心がなかったわけじゃない。でも、学生たちが行う運動にはまったく興味がわきませんでした」。しかし、そのあおりで、一浪までして入学した大学を辞めることになる。
「うん、あれはまさに私のターニングポイントですね。あのまま大学にいたら、また違った人生になっていたかもしれないからね」。
「ともかく、当時の私は、英語に興味があったから最初は貿易の会社を興そうと思っていたんです。だいたい28歳くらいかな。それくらいで、できればいいかな、と。ただ、貿易なんてやるには、かなりのお金がいるでしょ。それで、あんまりしたくなかったんだけど、姉や兄が飲食店をやっていたのをみていたからね。飲食やって、お金を貯めようって思ったんです。いったん、入ると抜けられない世界なんて知らなかったから(笑)」。
・・・続き
株式会社ビィバリュー 代表取締役 荒井國明氏

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