2016年9月20日火曜日

有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社誠屋 代表取締役 宮田朋幸氏登場。
本文より~

バンド時代の始まり。

宮田氏は、1970年10月6日。茨城県で生まれる。2人兄弟の次男。
「両親はともに銀行員で、職場結婚だそうです。父は勤勉なタイプで、夜が遅いもんですから、土日しか家にいない人だと思っていました(笑)。母の躾が厳しく、その反動ではねっ返りになったことも…。小さな頃は、母の実家である和菓子屋に行って、家族で手伝ったりもしていました」。
父の転勤で、東京や栃木で暮らしたこともあるそうだ。
「小学校に入学する前に東京に行き、3年まで東京にいて、そのあと、6年の夏休みまで茨城の古河で暮らしていました。夏休みが明けると、今度は真壁町。中・高になってようやく、勝田で落ち着きます(笑)」。
結構な転校歴だ。
「転校するのはイヤでしたね。それなりに知恵もつくんですが、最初の転校ではいじめられたりもしましたから」。
小学校からサッカー選手だった。古河時代には7つの小学校の選抜メンバーに選出されている。
「読売のサッカークラブと試合をしたんですが、惨敗です(笑)」と宮田氏。試合が始まる前から飲み込まれていたそうだ。「サッカーが盛んな町の、いわばエリートばかりなんですが、相手を観て、すぐさま観念しました」。
さすがに小学校の選抜メンバーといっても、クラブチームにはかなわなかったようだ。中学校でも、宮田氏はサッカーをつづけている。だが、少しずつ関心の天秤が「遊び」に傾いた。
「練習に出ない日がだんだん多くなって、遊びが生活の中心になっていきました。中学3年生の時には、ドラムを叩いて遊ぶようになりました」。ただし、こちらは、のちに「遊び」の域を超える。
「小学校6年生の時に、ブラスバンドを観てドラムに憧れていたんです。友人宅の、納屋にあった機材を引っ張り出してきて、ドラムの練習を開始したんです」。
これが、バンド時代の始まり。

ブレイク。その時をめざし、上京。

高校は、工業高校に進んだ。なんでも、当時流行っていた次原隆二氏作の「よろしくメカドック」に触発され、「自動車整備士になろうと思っていた」からだそうだ。
「初めは工業高校の独特の雰囲気に圧倒され、『失敗した!』と思いました。でも、慣れは怖いもんで、どんどん楽しくなっていくんです。この頃から、バンドに打ち込むようになりました」。
他校までアンテナを広げ、楽器がうまい奴をスカウトし、4人でパンクバンドを結成した。その一方で、バイクにもハマり、暴走族にも入りかけた。「大晦日に走ることになっていたんですが、たまたまバイクが故障して走れず、運よく暴走族入りを免れました(笑)」。
当時の宮田氏は、ライブともなれば、ストレートパーマをかけ、髪を立てていた。美容室には、月に2回。常連だった。
ただし、遊びじゃない。ファンもいた。評価もされた。
「当時は、イベントホールのようなところで、オーディションを勝ち抜いた高校生がプロと一緒にライブができるイベントがあり、それによく出ていました。ちょっと人気者になって、今思えば、結構、個性的なファンが集まってくれていたと思います」。
学校では、はっちゃけていたが、バンドは真剣である。高校を卒業して1年後、4人で上京。「イエローモンキーのようなバンドに憧れていた」という。バンドのメッカだと高円寺に住み、おなじメンバー4人で、5年間活動した。
「ベースが抜け、ギターが抜け、メンバーを入れ替えながらやっていたんですが、うまくいかず解散しました」。宮田氏は、別のバンドに参加し、活動をつづけた。
とはいえ、プロでないぶん、バンドとバイトは、おなじ意味だった。バンドをつづけるには、バイトを辞めるわけにはいかなかったからだ。

・・・続き

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