2016年9月13日火曜日

9月29日東証一部の株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”9月29日東証一部の株式会社ヨシックス 代表取締役 吉岡昌成氏登場。
本文より~

「何しろ、暇がない。高校2年からずっとそうやった」。

吉岡氏の父は、メーカーの下請け工場を営み輸出用カバンを作っていた。小さい頃から何かにつけて手伝わされていた吉岡氏にとって、それがイヤだった記憶がある。高校は工業高校の機械科に進んだ。当時は生徒会長をやったり、学生運動にも参加したりしていたそうだ。
「私が生まれ育った大阪市の生野いうたらね、おなじ大阪の平野や八尾もいっしょやけど、町工場が立ち並ぶ町ですわ。うちも、その内の一つで、典型的な家内工業やった。ところが、高校2年の時に親父が亡くなってしもうて、それで工場はたたみました。それからは、バイトに明け暮れ、大学には進学したんですが、受験当日しか学校に行った記憶がないねんな、これが(笑)」。
高校では機械科だったが、進んだのは建築科。
「最初は、うちの家も工場やったし、漠然と機械科かなと思うてた。でもそれやったら、うちの親父といっしょで家内工業どまりちゃうかなぁ思うところもあって、今にして思えばちょっと生意気な考えやけどね。そんな時、あるTV番組で女性建築士を観たんやね。当時は、列島改造論とかで建築にスポットがあたっとってね、その女性がえらい格好よう見えて。それで、『建築や』と、建築科に進んだ。単純なもんや(笑)」。
『建築や』と思って入学はしたが、出席した記憶はないという。前述のとおり、時間の許す限りバイトに明け暮れていた。バイト歴を列挙すると、鉄筋工、工場、屋根瓦葺、レストランのボーイ・・・と、割のいいバイトには片っ端から申し込んだ。大卒の初任給が約12万円の時代に、月のバイト料が20万円にもなったというから、その働きぶりが窺い知れる。もっとも無駄使いは一切していない。10万円を家に渡し、残りで学費を払っていたそうだ。
「お金はあっても、友達と遊ぶなんて考えられへんかった。何しろ、暇がない。これは、高校2年からずうっとそうやった」。

「その弁当屋さんに、飛び込んだんです」。

通った記憶がないという大学を無事卒業するのが1977年のことである。
「就職したのは姫路のガス屋さんです。入社してすぐに、新規事業の建築関係部署に先輩と配属されて、2人で営業しました。工事が絡むから、契約が取れると、受注額は結構大きな金額になった。しばらくしたら、既存の事業より売上率が高なった。そりゃ忙しかったけど、ハナ高々で、給料もほかの部署の同期より良かったんちゃうかな。けど、そのうちにどんどんノルマが凄うなって、先輩がノイローゼみたいになってもうた。会社出てけえへんようになってしもたから、部署はもうワシ一人や。それでも、情状酌量なんてあらへん、『一人でなんとかせえ』ですよ。なんや、いっぺんにアホらしなって、それで辞めました」。
3年8か月勤続した会社だった。
「会社辞めて、いっとき、毛皮の卸なんかもやりました。スナックで知り合った、その店の常連さんに紹介されて始めたんやけど、400万円くらい売り上げた月もあったわな。原価がだいたい3割やったから、少々値引きしても100万円くらい利益はあった。でも、毛皮が売れるのは冬だけやった。2月になったら、全然売れへんなって、これも辞めました。けど、1回でも100万円も儲けたらアカンな。サラリーマンは、もう無理やった。ほんで、なんかええ仕事ないかなぁと、昔のお得意さん回っとったら、ある会社の人が、『あの弁当屋さんが、建築関係の人探しとったで』いうて教えてくれはったんです。『よっしゃ。それや』思うて、その弁当屋さんに飛び込んだんです」。
神戸に本社を置く、のちに大手となる弁当チェーン店だった。それが、飲食との出会い、と言えば出会い。
「建築の仕事をもらう代わりに、フランチャイズ契約を結んで、私も弁当屋を始めました。ちょうど名古屋に進出する時やったんで、私も一緒になって出てきて、うちが名古屋1号店を出店しました。そやから、元々飲食は、建築の仕事をもらうために、ある意味しゃぁなしに始めた事業やったんです。でも、無理しても、やって正解やった。弁当屋さんの仕事が実績になって、居酒屋やファミリーレストランからも、内装・外装の仕事をもらうようになります。名古屋で有名な店も、何店舗も手掛けました」。
その一方で、フランチャイズで始めた弁当屋も拡大する。
「せやね、20店舗くらいまでになったんちゃうかな」。
ただし、この時はまだ、副業という感覚でしかなかった。これが、1985年の話である。

・・・続き

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