2010年4月29日木曜日

今週も10社の社長取材。感謝・感謝!!

今週は、鳥一フーズの山崎社長、喜代村の木村社長、


カゲンの中村社長、秀穂の草野社長、山路フードの松井社長、


マークフィールドの市原社長、シークレットテーブルの薬師寺社長からいろいろとお聴きでき、


それに三光マーケティングの平林社長、PrunZの深見社長、絶好調の吉田社長に30日お聴きする。


誰でも一度や二度は倒産の危機や不眠不休は経験されている。


そんな飲食の社長の生きざまを今の新卒やフリーターに知ってもらいたい。


当事者にならないと本当の意味はわからないかもしれないが、きっと何か気付きが生まれるはず。


おかげさまでキイストンの営業マンは無料で直接聴かせてもらっている。


財産である、ありがたい話である。



2010年4月28日水曜日

株式会社ゲッツ・インターナショナル 代表取締役社長 宮上元伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゲッツ・インターナショナル 代表取締役社長 宮上元伸氏登場。


ゲッツ 


本文より~


高校を中退。ビジネスのおもしろさに惹かれる。経営者、宮上の基礎が築かれる。


自ら厳しい道を選択し、進学した高校だったが、宮上は2年生で高校を退学している。多感な年頃だ。野球漬けの日々に多少の疑問を感じていたこともたしか。友人との遊びを覚えると、さらに野球が遠のいていく。今だからいえるが、この頃から酒も好きで、二日酔いで学校に通ったこともあったそうだ。高校をリタイヤした宮上は、兄の紹介で不動産の仲介やファイナンスを行っている会社に就職。一つ目の転機を迎えた。年齢は関係がない。そう思ったのは、この時だったのではないか。若くても誠実に仕事をすれば結果はついてくる、と。当初は、賃貸業務を任された。まっすぐな青年の姿に客が惹かれ、宮上の成績はグングン上がっていく。すると仕事がさらにおもしろくなる。給料も四ケタを超えた。21歳の時には成績で、会社のトップに立った。15人ほどいた先輩たちを軽々超えてしまったのである。23歳になった時には、子会社設立と共に宮上も資本をだし、社長として手腕をふるう。銀行からの借り入れも自分で行った。わずか20歳そこそこの青年が、である。1年で休んだのは10日と、宮上は当時を振り返る。それから2年、25歳の時には完全な独立を果たす。事業は不動産の売買がメイン。自信があった。23歳の時からやらざるを得なかったさまざまな経験が宮上を支えていたに違いない。バブルの後遺症がまだ残る頃だったが、逆にそれが良かったのかも知れない。大手不動産会社が負債を抱え汲々とするなか、新規に立ち上げた宮上の会社は順調に売り上げを拡大させていく。 ・・・。


株式会社ゲッツ・インターナショナル 代表取締役社長 宮上元伸氏


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株式会社玉海力 代表取締役 河邉幸夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社玉海力 代表取締役 河邉幸夫氏登場。


玉海力
本文より~


親方の死で心を入れ替え再起を図る。最高位は幕内前頭八枚目。そして引退の決意


17歳で幕下昇進を果たすも、取り組み中の怪我で首の骨の剥離骨折をしてしまった玉桜は、勝敗・番付共に一進一退を繰り返し相撲への情熱が薄れていく。転機が訪れたのは20歳の時だった。「糖尿病の検査入院をしていた親方が、退院するその日に急死したのです」。3日前まで「稽古せぇ」と気にかけてくれていた親方の信じられない突然の死。深い悲しみの中で決意したのは一心不乱に稽古に励み再起を図ることをだった。「玉海力」へと四股名を変えての新しい土俵人生がはじまった。
明確な目標があると人は変われるものだ。まるで10代に戻ったように稽古に励んだ玉海力は、24歳で念願の幕内昇進を果たし幕内前頭八枚目となる(関取となれば大銀杏を結い化粧廻しを締め土俵入りできる)。親方の死がきっかけとなって幕内力士になれたのは皮肉な結果だが、この数年間で味わった挫折と成功は何物にも変え難い貴重な経験となる。「人は"頑張れば報われる"ことを知れば歯を食いしばれるようになります。私はこの私自身の経験を、経営者となった今実感し、社員教育にも活かしています」。・・・。 


株式会社玉海力 代表取締役 河邉幸夫氏


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2010年4月24日土曜日

4月の社長取材アポイント50社突破!!

やればできるものである。今月過去最高の社長取材数更新中だ。


イートアンドの文野社長、amkワイマールの和泉社長、東急グルメフロントの木村社長、カトープレジャーグループの加藤社長、ベビーピュアの渡邉社長、ライブフードプロデュースの小林社長、MEDダイニングの掛本社長、駒八の八百坂社長からいろいろとお聴きできた。


これだけ飲食企業の社長の生きざまを聴かせてもらうことができるたけでも、営業マンは大変勉強になる。


また、キイストンにとって大きな財産にもなっている。


この新卒氷河期の今こそ、飲食全体に若くて夢のある新卒者の採用を促進させたい。


新卒を積極採用される会社は、きっと勝ち組になるはず。



2010年4月20日火曜日

アジアンディレクトリー株式会社 代表取締役社長 湯山ともを氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にアジアンディレクトリー株式会社 代表取締役社長 湯山ともを氏登場。


湯山
本文より~


東京で一人暮らしを開始する。


人はいずれ故郷を離れる。大学進学であったり、就職のためであったり。湯山の場合は、やはり音楽が理由だった。バンド活動に熱を入れ、アルバイトで生計を立てる日々が始まる。コンサートやライブではもちろん食べていけない。でも、アルバイトばかりでは、練習にも支障がでる。どう上手に続けていくか。悶々と悩む日もあったに違いない。バンドの仲間連中ともいつまでも一緒にやっていくことはできない。それぞれ生活があるからだ。26歳の時、湯山は一つの決断をした。バンドの解散である。「そうしないともうみんなが食べていけなかった」という。だが、その解散コンサートで冒頭に書いたように映画デビューの話が持ちかけられるのだ。競演した役者のなかには、有名な名前もでてきた。そのうちの一人から演技も教わったそうだ。だが、役者デビューを果たし、順風満帆なスタートを切ったように見えたが、当時は映画にかける費用も安く、湯山たちのギャラは、「サラリーマンとかわらない」ほどだったらしい。おまけにある居酒屋で、著名な映画監督と湯山は、バトルを演じている。「周りはピリピリしていて結局、後で事務所から大目玉を食らうのですが、ぼくはその監督のことを知らなかったし、挨拶をしないぐらいで『生意気だ』なんていわれる筋合いもなかったですから、なんだこのやろうってことになりましてね」と湯山は、その時を振り返る。相手が誰であれ、かまうことなく正しいと思ったことを貫く、湯山の精神がこの話からも伺える。 ・・・・。



株式会社シャンティーカレー 代表取締役社長 大竹幸義氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社シャンティーカレー 代表取締役社長 大竹幸義氏登場。


シャンティーカレー
本文より~


ゼロからの出発。移動式カレーショップが走り出す。


起業を決意したことで大竹の目には、以前の輝きが戻ったのではないだろうか。大竹がまず考えたのは移動式のカレーショップだ。「同様のお店があって、これはいけるなと」、ただ真似をするだけではない、カレーの味も磨き上げた。「素材にも、ハーブとココナツの使い方にもこだわりました」。実際、この味ができるまで1年間、365日をカレーの味づくりに費やした。ようやく納得の味ができ、好天に恵まれたある日、はじめて移動式カレーショップが走り出した。向かったのは青山。よし行くぞぅ、大竹の気持ちは高ぶっていたに違いない。用意したカレーは100食分、前日にチラシも配布済みだった。「100食では足りないかも」という不安も頭を掠めた。
しかし、その日、売れたのは7食。うち2食は友人が買ってくれたものなので、実質5食である。あまりの計算の違いに、言葉もみつからなかった。子どもの頃からスポーツ万能、好きになれば何でもでき、実際、好きなように生きてきた大竹にとって「初めて味わった苦い挫折の味だった」。・・・・。 



仙台味噌“川熊”の専務のブログ。

ここにきて、仙台味噌の川熊の川村専務のブログが良くなった。


http://blog.kawakuma.shop-pro.jp/


仙台味噌
※川熊様のPRすると皆さんも美味しい仙台味噌が抽選でもらえるかも・・(笑)



ツイッターはじめました。

あまりわからないまま、ツイッターを始めました。


http://twitter.com/inshokuhyper


私のケータイはソフトバンクなんで、どうもうまく見れません。


よってなかなかコメント書けませんが頑張ります。


フォローよろしく。



2010年4月16日金曜日

魅力的な社長続々登場!!

今週もアジアンディレクトリー株式会社 湯山社長、株式会社ゲッツ・インターナショナル 宮上社長、株式会社プライムリンク 大槻社長、株式会社春夏秋冬 鈴木社長、株式会社シャンティーカレー 大竹社長を取材。


4月もすでに30社近い社長様との取材が進行・決定している。


この調子でいくと6月には200社超える。


これだけの社長ネットワークができたので、次は業界全体に役立つことをやっていきたい。



2010年4月14日水曜日

株式会社アドリブ 代表取締役 山岸大氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アドリブ 代表取締役 山岸大氏登場。


アドリブ
本文より~


昔のバイト仲間がくれたきっかけ。1年越しのオープン。


「昔、飲食店でバイト仲間と『店をつくりたいな』みたいな話をしていたことがあるんです。そのうちの一人が、そのまま飲食店に就職して料理人になったんです。で、湘南のお店を任されていたんですが、会社が潰れそうになって、その友人に、店を買わないかと声をかけたらしいんです。友人もぼくも32歳ぐらいの頃です。その友人が昔の話を覚えていて、一緒にやらないか、と今度は彼がぼくに声をかけてくれたんです」。山岸が、飲食店経営に乗り出す直接のきっかけは、「一緒にやらないか」、この友人の一言だった。
けれど、結局、その店は山岸たちが資金ぐりをしている間に、他に流れてしまった。だが、いったん走り出したことで山岸の心から「起業」という言葉が離れなくなってしまった。だが、十分な資金があるわけではない。これならという物件に出会うまで1年かかった。その間、友人にはいつでも起業できるようにアルバイトをしてもらい、妻子のある彼のために前職の給与との差額を、山岸が自らのサラリーから捻出するという生活が続いた。持っていたクレジットカード10枚から、残らずキャッシングをしていたそうだ。・・・。 


株式会社アドリブ 代表取締役 山岸大氏


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株式会社玉寿司 代表取締役社長 中野里陽平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社玉寿司 代表取締役社長 中野里陽平氏登場。


玉寿司
本文より~


映画「少林寺」に衝撃を受けた少年は、やがて武道館で戦う青年になった。


中野里は4人兄弟の末っ子として誕生する。一番上の姉とは7つ違い。4人の兄弟が、にぎやかな家のなかでスクスクと育っていった。家業は「築地玉寿司」。老舗の寿司店である。中野里が生まれた頃には、3代目である父が斬新なアイデアを取り入れ、人気を博し、次々と出店を重ねていった頃である。中野里自身は5つ年の離れた兄の影響もあり、ブルースリーや少林寺にはまっていく。10歳の時には、映画「少林寺」に衝撃を受け、その頃から本格的に武道の道を歩み始める。高校時代には、沖縄空手を習い、大学に進学後は、少林寺憲法部で主将まで務めている。トーナメント戦では2度優勝。個人戦では武道館で開かれた関東選手権で2位になり優秀賞を獲得している。格闘技にのめり込む一方で中野里は、少年時代から家業を引き継ぐことを当然のように受け入れてきた。高校生になると将来のために、現場も進んで経験した。他店でも経験を積んだ。だが、他店に出ると現場は想像以上に歪んでいた。子どもの頃から憧れていた飲食業に疑問を持ち始める。「飲食業は誇りが持てる仕事だと、父から教わって育ちました。父は、たいへんな時でも、愚痴一つこぼしたことがありません。そういう姿をみて飲食に憧れを感じていたのです。しかし、現実は、違った。飲食の負の部分が明らかになっていくのです。・・・。 


株式会社玉寿司 代表取締役社長 中野里陽平氏


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2010年4月10日土曜日

「ヤマハ大人の音楽レッスン」に武田登場!!

「ヤマハ大人の音楽レッスン」のPR用のポスターに武田が出ていま~す。


ぜひ、音楽にチャレンジしたい方は一度「ヤマハ大人の音楽レッスン」会場に顔出してみてください。


あっ、そうそう今日10日(土)の読売新聞にも大きく広告出てるので見てください。


ヤマハ



2010年4月8日木曜日

株式会社エイジアキッチン 代表取締役 吉﨑英司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エイジアキッチン 代表取締役 吉﨑英司氏登場。


エイジアン 
本文より~


自立した青年が選んだのは、海外への進出だった。


普通、オーナーの子息であれば初めから、跡継ぎとして迎えられる場合が多い。しかも、まだ小さな会社である。家族経営があたりまえだ。しかし、吉﨑家では、母も、息子らも一線を設けていた。「自分の力で」という教育が行き届いていた結果ではないか。ともかく吉﨑も、兄も、葛藤しながら、店の運営、会社の運営に関与するポストを手に入れていく。
さて、先を急げば、吉﨑は、この数年後、この母の会社を退職する。親が経営する順調な会社を退職するという決断は、なかなかできることではない。「アメリカなど海外に憧れていて、そこで勝負したかったから」と吉﨑は振り返る。
しかし、この吉﨑の決断がちょっとした波乱を引き起こす。大ボスと呼んでいた責任者が、吉﨑が店を去ることをきっかけに、社員を引き連れ、店を離れてしまったのだ。当然、店の運営は成り立たなくなった。「それで1年間、海外に行くのを先に延ばし、兄といっしょに立て直しに邁進した」と吉﨑。信頼していた人間に裏切られたという気持ちも少なからずあっただろう。
吉﨑は人間を大事にする。なぜか。こんな逸話がある。吉﨑が3号店の店長になった時、他の店の業績が落ち込んだ。「どうして、他の店は業績が落ちたのでしょう?」というインタビュアーの質問に答え、「やはり人間だと思いますね。たとえば、店が終わってから飲みに行く。翌日は二日酔いの赤い目でやってくる。そういう人間が包丁をふるう。それを見ている周りの人間がよしがんばろうなんて気持ちにはなりませんよね」と。たしかに飲食業は、人がすべてである。・・・。 


株式会社エイジアキッチン 代表取締役 吉﨑英司氏



株式会社麻布スタイル 代表取締役 猪野悦史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社麻布スタイル 代表取締役 猪野悦史氏登場。


麻布スタイル 本文より~


ヒーローになりたかった少年は、バスケットボールで実業団まで昇り詰める。


子どもの頃から勉強も、スポーツもできる少年だった。そんな少年猪野が憧れていたのは、ウルトラマンや仮面ライダーといったヒーローたち。悪を退治する正義の味方に、多くの少年同様、猪野もまた惹かれていったに違いない。一方、好奇心も旺盛で、エレクトーン、水泳、野球、塾、書道と、習い事にも進んで通い始めたそうだ。その後も、さまざまなスポーツにチャレンジするが、猪野を一番虜にしたのは、バスケットボールだった。当時バスケットボールにプロリーグはなく、実業団が日本最高峰のリーグだったが、猪野はその実業団に入ることができるほどの腕前だった。だが、入団後、1年で「通用しない」と見切りをつけなければならなかった。どのようなスポーツも抜群の運動能力で軽々とこなしてきた猪野だったが、日本最高峰のリーグの壁は厚かったとしかいいようがない。「バスケットで飯を食っていく」道は断念した猪野だったが、「するからには楽しい、おもしろいと思えるような仕事でなければ」と大好きなスポーツからは離れようとしなかった。・・・・。 



2010年4月2日金曜日

実家からお米と味噌が・・・。

ちょうど無くなるあたりに実家の父親からお米と地元で作った味噌が送られてきた。


うれしい。


なかなか帰れないし、墓参りもできていない。







2010年4月1日木曜日

株式会社由ら 代表取締役 吉崎俊朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社由ら 代表取締役 吉崎俊朗氏登場。


8o 
本文より~


高校卒業後、「株式会社楽コーポレーション」に入社。入社2~3日で手がグローブに。


高校は私立に進む。「バイクが好きになり、高校生で750ccの大型バイクを乗り回していた」という。当時、大好きだった漫画の影響をモロに受けた。大学への進学は考えていなかった。高校卒業と同時に、18歳ぐらいからアルバイトで働いてた、宇野隆史氏が経営する「楽コーポレーション」に入社する。宇野氏は、現在の居酒屋文化に大きな影響を与えたコンセプト「くいものや楽」の創業経営者であり、300名近い人材を輩出したことでも知られるカリスマ経営者だ。この宇野氏の店で吉崎はゼロから教育されていくことになるのだが、最初の一歩が特に鮮烈だった。「いきなり、六本木『楽』の立ち上げに参加したんです。5時20分に、まず1回目の満席があって、そこから4回転するんです。20坪強の店で日商50~60万はいってたんじゃないでしょうか」。そのとき、洗い場を任されていた吉崎の手は、「2~3日でグローブのように膨れ上がった」そうである。 ・・・。 


株式会社由ら 代表取締役 吉崎俊朗氏


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有限会社YDR 代表取締役 大村孝雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社YDR 代表取締役 大村孝雄氏登場。


よだれ屋
本文より~


楽コーポレーションとの出会いで独立を志す。


「偶然だった」と大村。「たまたま下北沢で友だちと飲もうということになって、はじめて『楽』に行ったんです。衝撃を受けました。へぇ、凄いな、こういう居酒屋もあるんだ、と」。友人がたまたま店長を知っていたこともあって、すぐに面接を受け、働き始める。これが大村にとっては、大きな転機となる。いまでも「おやじさん」と呼ぶ、社長の宇野氏と出合ったからだ。すでに述べたように、忙しさには苦痛を感じなかった大村だが、「学食の時は客である生徒たちと話すことはなかった。それに比べて『楽』は、当然、接客業ですから、最初はそこに戸惑いました」と、入社当時を振り返る。「料理を作りながらも、お客様と話したり、料理を運んだり。そういうさまざまなことが勉強になった」そうだ。独立という二文字も、この頃から、はっきりと意識するようになった。 ・・・。