2021年11月2日火曜日

株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏登場。


本文より~

「日本橋せいとう」の歴史。

1947年創業、70年以上の長きにわたりその洋食が愛され続ける「日本橋せいとう」。その始まりは、第二次世界大戦終戦時までさかのぼる。
創業者は、現代表城麻里奈氏の祖父にあたる城慶次氏。慶次氏は終戦の混乱の中、満州より引き揚げる際に「生きて日本に帰ったら日本橋のたもとで会おう」と部下や家族と固く約束した。機銃掃射の中逃げ帰る者たちが、日本に帰ることを決してあきらめることがないように慶次氏が課したミッションでもあった。しかし当の本人は、満州中央銀行の支店長を務め、満州国の功労者だったため、戦犯扱いをされ米軍により拘束されてしまう。
命からがら帰還できた家族が、満州・青島からの帰還者がすぐにわかるよう、約束通り日本橋に「青島帰還者救護所」を開設した。3坪ほどの掘立小屋が、「青島」を日本語読みにした「せいとう」の始まりである。
慶次氏が一年遅れて奇跡的に帰還を果たすと、帰還者救護所から雑貨を扱う「青島商店」となり、当時貴重品だった珈琲の取り扱いを開始した。焼け野原の東京で「珈琲の優しい香りで人々を笑顔にしたい」と喫茶店を始め、その後、高級フレンチ「双葉亭」のシェフとの縁があり、シチューやハンバーグが人気の洋食店へと変遷していく。現在は熟成肉とシチリアワインにこだわる店として営業している。

物心がついたときには「お運び」をしていた。

創業者の祖父は帰国後間もなく亡くなり、コーヒー店「青島」は祖母とその娘たちが切り盛りしていた。その頃の様子は、サラリーマン視点から社会を描く小説家・中村武志の著書『サラリーマン 目白三平』の中でも、気配りのきく三人の看板娘と「朝のうまいコーヒー」のことが、サラリーマンの幸せな朝の1コマとして描写されている。
1972年、「日本橋せいとう」は二代目、麻里奈氏の父である和裕氏の時代へとなる。二代目は、創業者夫婦の6人の子供の一番下の息子だった。勉強肌の長男・次男と比べて末っ子は愛想もよく、時間があれば店の裏で包丁を持って野菜の切れ端をみじん切りにして遊んでいたというので、自然な流れだったのだろう。
父が社長となってすぐに結婚し、麻里奈氏が生まれた。母がランチタイムの手伝いに行く時はついて行き、物心ついた時には「お運び」の手伝いをしていた。さぞや可愛らしいお運びさんだっただろう…。しかし、サラリーマン相手のランチタイムは戦場でもある。最も忙しい時間帯は、小さな子どもがいては危ないということで、ストックルームで大人しくさせられていた。
退屈だし、お腹が空く。目の前に積まれた商品の黒パンを、こっそり食べていた思い出。その思い出の黒パンは、今も「日本橋せいとう」のメニューとして愛され続け、トリュフ卵やプリンをサンドして新たな名物にもなっている。

修行させてください!

大学時代にはコーネル大学で、多くのホスピタリティー業界で働く志の高い人の憧れであるPDP(プロフェッショナル・ディベロップメント・プログラム)を修了。卒業後、「日本橋せいとう」に入社した。
「一人娘だから継ぐ」という義務感ではなく、「自分がやる」という意思は、自然に湧いたものだ。両親が忙しく、小さい頃から祖母と長い時間を過ごす中で、「気配り」を学び、他人の気持ちを察知する能力に長けていたことは、父も見抜いていた。
入社してすぐは、日本橋のビルの地下にある惣菜部門に見習いとして入り、2~3年後には店長となった。そこはとても居心地がよく、社長の娘として何不自由ない環境だったが、心の中で、「本当にこのままでいいのかな?」という気持ちも芽生え始めていた。
そんな折、参加した外食セミナーで石川県の高級旅館「和倉温泉加賀屋」の会長の話を聞く機会に恵まれた。
「究極のサービスとはなにか?」…それは「お客様の心の温度をはかること。お客様のご要望に究極に正確に応えること」。加賀屋会長のこの言葉に感銘を受けた城氏は、質疑応答時に手を挙げこう言った。
「そちらで修行させていただきたい場合、どうしたらいいですか?」
この行動力のある若者に機会を与えることを加賀屋側はその場で決定。一ヶ月後には城氏は加賀屋の仲居として立っていた。
配属されたのは、雪月花。その18階~20階は加賀屋の中でも最高級の貴賓室、皇族方や政治家のトップクラスも利用する「浜離宮」だ。
社長の一人娘でマネージャーという立場から、先輩のお姉さん達から「おもてなし」を1から教わる立場へ。
つらかったことはなかったのだろうか?
「着崩れないようにきっちり帯を締めた着物で、長時間勤務。当時はお休みも少なかったですね。寝る時間を作るために、着物は最初1時間かかっていたものが、5分で着付けできるようになりました(笑)」
肉体的な辛さより、学んだことの方がずっと大きい。中でも特に糧になった経験を尋ねてみた。
「お客様の心のニーズを読んで、一つ先のサービスをする“笑顔で気働き”を教わりました。たとえば水をひとつお持ちするにも、常温なのか、白湯なのか、氷をいれるのか…?お客様の心の温度をはかり、わからない時やお尋ねするタイミングがないには3種類お持ちしました」
また、一流の皿や備品を通して作法を学んだ。
「特別階の担当は、お迎えするための食器や小道具を自分で選べるんです。一級品の塗物や焼物、1つ何十万もするグラス…宝物庫のようなところから、季節や迎える人物に合わせて選び、花もすべて自分で活けるのですが……お姉さん方のセンスが素晴らしく、楽しくも勉強になりましたね」
「部屋だしの料理の際、料理皿が重く私は座敷に上がるのが精一杯だったのですが、大女将さんはお客様へのご挨拶のあと、必ず仲居の私の草履の向きをなおしてくれたことも忘れられない」と振り返る。
加賀屋の一流のおもてなしとセンスを学び、麻里奈氏は「せいとう」に帰って来た。

次代の若き女社長への風当たり。

せいとうに戻ってからの居場所は、現場ではなく管理部門だった。総務、経理、人事、労務を任されたが、古いやり方を守って来た長年の社員とはぶつかることも多かった。良かれと思ったことを進言しても番頭たちは「若ぞうが…」と、とりあってもくれない。父に至っては、「まだ子どもだから」と、部下の肩を持つこともしばしば…。
人事・労務関連の整備、会社としての規律や秩序遵守、社員教育マニュアル作成…に加え、不採算店舗をどうするかなど、問題は山積みだった。しかし、これまでサービスやおもてなしは学んできたものの、管理部門の実務と法律については素人である。会社内では四面楚歌の中、JSK(人事総合情報研究会)とのご縁があった。JSKは、外食の情報交流及び学びの場で、大庄グループや吉野家など大手の人事担当者が参加する人事や経営の交流、情報交換、勉強会を開催していた。そこの代表である本間至氏を師とあおぎ「人事とは、経営とは」を学んだ。
その甲斐あって、1年半で黒字化、無借金経営へと転換を果たした。
「どんどん返済が進んで、銀行が悲しんでましたね」と笑う。
大手外食チェーンの会社更生を経験した後、せいとうの役員となっていた夫の支えも心強いものだった。

三代目の挑戦。

2017年、父が癌で他界。当時、妊娠していたこともあり、一旦夫に代表になってもらうものの、2019年、正式に麻里奈氏が三代目を継ぐこととなった。日本橋という場所での古くからのご縁があり、各種加盟団体との大切なお付き合いを続けていくのに、幼い頃から存在が知られている麻里奈氏に代表に就いてもらおうという、全社一致の判断だった。
三代目を継いだ翌年、コロナ禍が訪れ、残っている2店舗も直撃を受ける。せいとうを守るため、三代目の新たな挑戦が始まった。
営業できない店舗に代わってキッチンカーを考案。ランチ時はビジネス街へ、ディナータイムはタワーマンションエリアへと、ほぼ毎日稼働させた。
催事への参加も開始。2021年に初めて出展した「日本橋高島屋味百選」では自慢のハンバーグ弁当を売ったが、これがなぜか売れない…。期待していたビギナーズラックさえない。
「大きすぎて他のお買物が出来ないのよ」と、お客様の言葉でやっと気付かされた。商品の大きさが「売れる売れない」を左右するなどとは考えてもいなかったのだ。その失敗を糧に、百貨店によっての客層の違いや売れ筋の品ぞろえなど、試作品を持って事前にバイヤーと念入りに打合せを重ねることにした。これから、有名百貨店のおせちや食に関する催事で「日本橋せいとう」の名前を見ることも多くなりそうだ。
また、通販にも力を入れていきたいと言い、テレビ通販での取り扱いに向けて準備中だ。
商売とは少し離れるが、「満州からの想い」と題した講演会をスタート。創業時の祖父母が経験した満州からの引き揚げなど、戦争の悲劇を誇張するのではなく、後世の子供たちの笑顔のために、当時の経験談や事実を語り継いでゆく活動だ。
2021年初夏、第1回を開催。満州経験者で自民党東京都連最高顧問、元郵政大臣の深谷隆司氏が講師として登壇、講演した。
この活動は、第2回、第3回…と後世に継続して引き継いで行けたらと思っている。

・・・続き

株式会社せいとう 代表取締役社長 城 麻里奈氏

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