2018年10月2日火曜日

株式会社古久家 代表取締役社長 小林剛輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”  株式会社古久家 代表取締役社長 小林剛輔氏登場
本文より~

創業昭和22年。藤沢市民のソウルフード、その始まり。

「古久家」の歴史は古く、開業は1947年とある。一般的に言われる終戦の直後だ。酒問屋を営んでいた初代社長の小林三郎氏は「これから庶民は、甘いものを欲しがる」と、祖母の実家が穀物の集荷場をやっていたつながりで、新たに和菓子店を開業。これが「古久家」のルーツとなっている。
和菓子から「中華」に舵を切るのは、1971年のこと。和菓子の製造を中止し、店舗を中華料理・ラーメンに絞り「古久家」を展開する。
二代目の小林春代氏も、庶民目線を忘れず、1999年、ラーメンブームが到来し、ラーメンの価格が高騰するなかでも、低価格での提供にこだわり、一杯350円で提供する「中華そば寅」を開業する。振りかえれば「古久家」は、創業からずっと庶民の味方でありつづけたことがわかる。
さて、この「古久家」の三代目社長が今回、ご登場いただいた小林剛輔氏である。小林氏は、1971年10月18日、藤沢市に生まれている。ちょうど祖父が中華料理・ラーメンに舵を切る時だ。
「和菓子店を畳んだのは、私が生まれる直前だったそうです」と小林氏も語っている。
小さい頃の小林氏は、比較的大人しい性格で、料理が好きな少年だった。祖母とともに、「お手伝いさんにも育てられた」と言っているから、裕福だったのだろう。
実際、3歳時にグアムに行ったと言っているから、相当、経済的に恵まれていたはずだ(当時は、今のように海外旅行は一般的ではなかった。それだけ庶民にとっては高根の花だった)。

旅行好きは、母親譲り。

「私が小さい頃に両親は離婚します。母は当時から店にもでていましたので、私は祖母やお手伝いさんに育てられた感じですね。もっとも、母との思い出も多く、母が旅行好きだったもんですから、2人でよく旅行にでかけました」。
北海道や信州、グアムもそうだし、ニューヨークやパリにも足を伸ばしている。
小学校は、湘南学園。中学は、東海大学の付属中学に進学。エスカレーターで大学まで進学できるのが、決め手だった。中学からブラスバンドを開始。チューバを担当していたそう。高校では、生徒会長に就任。のちに制服が替わるのだが、そのきっかけをつくったという。
ところで、母がそうだったように、小林氏も旅行好きだった。小学4年から一人旅をしている。「ええ、ホテルを予約して、列車に乗って。そうですね。母に、『家出ではありません』と一筆書いてもらって」。思い立ったら旅に出る。それは今もかわらないらしいが、このエピソードからも、早くから自立していたことが伺える。
「料理も好きでした。誕生日にちっこい目玉焼き用のフライパンを買ってもらって、得体の知れないものをつくっていたそうです/笑」。

東海大学中退。

実は、小林氏には5つ離れた兄がいる。しかし、小さな頃から家業を継ぐのは、弟の小林氏という流れだったそう。「兄は自由人で、縛られるのが何よりイヤな人で、早くから継ぐ意思がないと言っていました。反面、私は料理も好きだったからでしょうか、いずれ会社を継ぐのはオレだと。18歳の時に、2代目の社長である母から問われ、意思を固めました」。
大学進学と将来の道を二つ同時に決定した。もっとも大学のほうは、中学生時代からの既定路線。ちかくにあった「すかいらーくグループ」の「藍屋」でアルバイト三昧。結局、3年間で取得したのは2単位で、自主退学している。
「大学には行っていたんですが、キャンパスの芝生のうえでゴロと寝そべって空をみているばかりで、授業には出ていなかったんです。どうしてでしょうね。やる気がぜんぜんでなくて/笑」。
反面、藍屋では3年間まじめに(本人談)勤務し、大手企業のノウハウを取得した。いずれそのノウハウを移植する予定だったに違いない。「21歳で大学を中退し、うちの会社に入ります。当時5店舗目を出店する時で、その店の店長としてのスタートです。最初はバイト時代につかんだノウハウを活かそうとして、いろいろ問題を起こしました/笑」。
三代目となるべく、入社したのが21歳の時。社長を引き継いだのが36歳の時である。
・・・続き
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