2017年3月8日水曜日

株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社INGS 代表取締役 青柳誠希氏登場。
本文より~

父のホームグラウンドは、ゴールデン街。

新宿ゴールデン街の夜は、昼より明るい。闇にいくつものネオンが浮かび上がるからだ。文壇バーなど、個性豊かな店も多い。作家、編集者、映画監督、俳優といった文化人が通う街としても知られている。今回ご登場いただいた青柳誠希氏の父は、このゴールデン街でカウンターバーを20店舗ほど経営されてきた凄腕経営者である。
「父が初めて店を開業した時には、もう姉がいたといいますから、1970年代です。全店、直営というわけではなく、のれん分けのような店もあったと思います。ゴールデン街のほかにも、新宿3丁目にも店を持っていました。私が生まれた時には、すでに多店舗あったはずです」。
青柳氏が生まれたのは、1984年。バブルにより東京が世界でもっとも光る頃である。繁華街の代表である新宿もまた、バブルの坂を駆け上がる。
「小・中は、大久保小学校、大久保中学校です」。ネットで調べてみると、都心だが、案外、周辺には学校も多い。すっかり繁華街だと思い込んでいたが、少し高度を上げ、俯瞰すれば早稲田大学もあるし、有名な高校も数多くあった。青柳氏が、卒業した大久保小学校もまだ健在だ。
「昔から運動はできたほうです。中学ではサッカー部でした。高校は、拓殖大学の付属高校に進学し、ラグビーを始めました」。「足が速いんです」と青柳氏。頼めば、すぐにも走り出しそうだった。ただし、いまではすっかり治ったが、大学に進学して2年、怪我がもとで、ラグビーを断念している。「拓殖大学は、いうまでもなくラグビーの強豪校です。からだのバカでかい外国人の選手もたくさんいた。そんななかでラグビーができたのは、ラグビー好きの私にとって最高の経験でした」。
ラグビーを辞めた息子に父が声をかける。「どうせ、アルバイトするなら、うちの店でどうだ?」

父が託した、ラーメン店。


青柳氏には、9つ離れた姉と6つ離れた兄がいる。青柳氏が大学2年だから、兄はもう就職している。6つ離れているが、飲食に就いたのは、弟の青柳氏のほうが早い。父から声をかけられた、この時のアルバイトが、きっかけだ。
「すっかり飲食に興味を持ちました。父親のバーはどれも、小さなバーですが、そのぶん、お客様とも濃厚なお付き合いができた気がしますね。就職は飲食1本です(笑)」。
むろん、この時は、「父といっしょに」とは、考えてもいなかった。
「いろんな飲食の会社を受けて、内定もいただきました。しかし、タイミングですね。うちの店の近くにあったラーメン屋がたまたまクローズすることになって、その場所を昔から欲しかった父はすぐさま『貸してくれ』とオーナーに頼むんです。すると『OKだが、ラーメン屋じゃないとだめだ』と。ラーメン店なんて、父も経験がありません。クローズするラーメン店と交渉し、味も、そのまま、数ヵ月、研修もしてもらうことになったんです。で、誰がするか。白羽の矢が、私に刺さりました」。
「だから、うちの会社はここからスタートしています。最初は友人と2人です。もちろん、2人とも素人。前の店のスタッフが頼りですが、それでも、そう長くいてもらえるわけはありません」。
正確に言えば、研修してもらったのはたった2ヵ月だった。2人にとっては、あっという間だったろうし、途方もなく長く感じた2ヵ月だったに違いない。
13坪、20席。「もともと、運営がうまくいってなかったんですが、けっして人気がなかったわけじゃない。むしろ、人気はあったほうだと思います。ただ、ちゃんとやっておられなかった(笑)」。営業時間は、きっちり営業するなど基本をまっとうするだけで、すぐに売上は回復。月商は550万円にもなった。
「これもまた飲食のパワーですね。旨いラーメンとちゃんとしたサービス。それだけで、人が来る。これは、逆に怖いことでもありますが、お客様は、しっかりみておられるんですね。私たちが何もいわなくっても」。
これが、青柳氏22歳の時の体験である。見事なV字回復に、経営者の大先輩でもあるお父様も、舌を巻かれたそうだ。

・・・続き
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