2017年2月17日金曜日

株式会社富士達 代表取締役社長 川上富達氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社富士達 代表取締役社長 川上富達氏登場。
本文より~

鹿児島県最南端の島。

与論島は、沖縄にもっとも近い鹿児島県最南端の島である。地図で確認いただければ、日本の領土の広さを再確認できる。南の海のはてに、鹿児島県の小さな島があることがわかるからだ。
さて、今回ご登場いただいた川上氏が、この与論島に生まれたのは1956年で沖縄返還以前。だから与論島は異国と接していたと言える。
0歳から5歳までは、与論島で暮らし、教師だった父の赴任にともなって、いったん与論島より2,3倍大きさのある島に渡り、小学5年生の2学期になって与論島にふたたび戻りました。沖縄が返還されたのは、私が中学2年生の時です」。
腕っぷしが強かったのだろう。中学生時代、柔道の団体戦で群の大会で準優勝し、個人でも3位に入っている。ところで今では観光スポットの一つだが、当時の様子はどうだったんだろう?
「いまは飛行機がありますが、当時は、島を出るには船しかありません。だから、私も高校までは家族旅行など以外では島をでたことがなかった。もっぱら海が遊び相手でした」。
いまでも美しい島だが、当時は、いまよりも尚、美しかったに違いない。その美しさに憧れ、やがて多くの人たちがやってくるようになり、観光名所の一つとなる。しかし、島に憧れるのは都会の人間で、島で暮らす住民にとっては、便利で、近代的な都会に憧れていたはずだ。川上家の兄弟も、みんな島を出た。

千数百キロ離れた街へ。

「高校生の時に、東京の立川で電気店を経営していた兄を頼って初めて上京します。東京は、それこそ憧れなんですが、一方では怖い街だっていう刷り込みがあって。笑い話ですが、お金を取られないように靴下にしのばせておいたほどです」。
島の高校生が初めて都会にでる。立川といえば23区外だが、それでも少年には目がくらむような街だったに違いない。
「あの頃から、漠然と起業を意識していたと思います。兄の影響もあったんだと思いますが。むろん、私だけではなく、みんなそういう風に何かを求めて島を出ます。島を出る最大のチャンスはいうまでもなく大学進学です」。
川上氏は、校長の推薦で法政大学の短期学部に進んだ。無事、島、脱出。千数百キロ以上離れた都会へと旅立った。観るものすべてが新鮮だった。
東京での暮らしは、少年を青年にする。大学を出ても島に帰るという選択肢はない。「大学を卒業して、求人誌をみて『吉野家』に就職します。『海外へ』と書かれていた求人誌の広告のキャッチフレーズが、心に響きました。もちろん、吉野家がダメだった時のために、他社も検討していたんですが、無事、合格。面接で人事の方にかなり褒めていただいて、『よっしゃ!』って感じです」。
「よっしゃ!」のはずだったが、入社してみると、全員、いたく褒められていた。川上氏だけが、特別だったわけではなかったようだ。
「ちょっとがっかりだった」と川上氏は、笑う。ともかく、社会人生活がスタートする。

吉野家、倒産。

余談ではあるが、「吉野家」についてである。
「吉野家」の創業は明治32年まで遡る。チェーン展開を開始するのは、1968年。「新橋駅前店」が2号店目である。7年後の1975年には、米国デンバーにも進出。積極出店をつづけた。
ところが、海外進出から5年後の1980年には会社更生法の申請を行い、事実上、倒産する。無理な拡大路線と、輸入牛肉の制限などが引き金となったようだ。
1980年と言えば…。
「そうなんです。私が入社して2年目です。2年目に倒産してしまうんです。もっとも倒産の理由は、客離れもというより、負債が最大の原因で、店自体は、それなりに繁盛していました。そういうこともあって、私は『吉野家』のフランチャイズをされていた会社に仲間8人で転職。ただ、色々あって、2年後の1982年の6月に退職し、『どん亭』大井町店をオープンします。こちらが創業店です」
・・・続き
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