2022年4月8日金曜日

株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏登場。


本文より~

歴史的に由緒ある地に生を受ける。

山口県山口市大内(おおうち)御堀(みほり)出身。代々続く、生粋の「長州人」である。
江戸時代に山口県全域が「長州」と称されたことから、当地出身者は「山口県人」と呼ぶより「長州人」と呼ぶが「ピン」とくるようだ。
生地の「大内」という地名は、室町時代に山口に本拠を置いた西国一の守護大名、戦国大名の「大内氏」という豪族の名に由来しているという。さらに近郊には5世紀頃の古墳も点在しているようで、こうした「歴史的価値の高い地」でもある。
こうした由緒ある、歴史ある町に藤井氏は、3人兄弟の末っ子として生まれた。1947年のことだ。
よく「土地が人を作る」というか、県民性ということが言われる。山口県人(=長州人)の性格は「頭脳明晰で弁が立つ、無類の負けず嫌い」と言われているが、本人は「好きなことに熱中するタイプですね」と自己分析をする。
また過去8人の総理大臣を輩出するなど幕末から明治維新にかけて政治分野などで歴史に名を刻んだ人物も数多く、なかでも「高杉晋作」への思いは強いようで「彼の提案で創設された奇兵隊で世の中が変わったと思っています」と藤井氏は語る。
こうした歴史ある地に生を受けた藤井氏が、どのような経緯を辿って現在にいたったのか、75年の人生に分け入ってみる。

目立った存在ではなかったけれど、リーダー志向は身体の奥深くに芽生えていた。

「先ほども言いましたが、生まれたのは1947(昭和)22年、7月27日です」。いわゆる戦後の「第一次ベビーブーム」の申し子だ。
同年生まれは約270万人、この年から3年、1949(昭和24)年までの約800万人を「団塊の世代」という。2021年の新生児は過去最少の84万人。現在叫ばれている少子化とは、まったく違った「子だくさん」の時代だった。
筆者も1948(昭和23)年生れであり、この時代の世相はほぼ想像ができる。ひと言で言うなら、高度経済成長前、戦後の貧しさが残るさほど豊かな時代ではなかった。
「大内小学校、大内中学校に通いました。同級生には農家の子が多かったですし、1クラスは50人ほどでした。小学校は4クラス、中学校はちょっと多くて10クラス以上だったと記憶しています」。
「同級生のなかでは目立たない存在だったと思いますが、小さい頃からリーダー的志向だったかもしれません。遊びといえばチャンバラごっこでしたし、どちらかといえば田舎の大将でした。あぁ、勉強は嫌いでしたね」。

「商い」のスタートは小学3年時。「面白いから手伝った」という単純な理由。

実家は農家でしたが、次兄が八百屋を営んでいたこともあり、「小学校3年のときから、中学校時代は休みの日や手伝いました。理由は手伝うこと、働くことが面白かったからですね」と自らの原点になった「商いとの接点」を振り返る。
「3人兄弟の末っ子なんですが、長男、次男と年の差があり、兄弟という感覚は薄かったですね。長兄はすでに他界しましたが、当時は国鉄(現在のJR)に勤めていました。店は現現在91歳になる17歳年上の次兄が経営していました」。
小学校3年といえばまだ9歳。幼いながらも次兄が経営する八百屋を手伝ったことが「商売初体験」である。「モノを売ってお金をいただく」という極めて単純にして分かりやすい構造を体験したことが、後の飲食店経営に繋がるとは、この時点では思っていなかった、実感していなかったようだ。
義務教育卒業後は、山口県立防府商業高等学校(現在は山口県立防府商工高等学校)へ進学。通学は電車。住まいのある山口市と学び舎のある防府市はバスで40分ほどの時間を要した。1966(昭和41)年3月、3年間通った山口県立防府商業高等学校を卒業。就職し商業高校で学んだ簿記などの知識がやがて役に立つ日が訪れることになる。

大手都市銀行へ就職するも。

「勉強が嫌いだった」とは言うものの学んだことを活かすべく就職、社会人の道へ踏み出すことになったのが18歳のとき。就職にあたり考えたこと、重要視したことは、「自分のこと、自分の過去を知っている人が誰一人としていない地で働くこと」だった。こうした考えの結果、就職したのは大手都市銀行の富士銀行(現みずほ銀行)。
「大卒・高卒合わせての新規採用数は判りませんが、東京の世田谷支店に配属されました」。顧客には20年前に亡くなった有名な女性漫画家や著名な女優が利用していた支店だとのことだ。
“自分のこと、過去を知る人がいない土地”とはいえ、当時、東京の人口は約1100万人、翻って山口市は20万人弱。人口だけではなく消費や文化、政治や経済など社会全体の規模の「差」は歴然で、「やはりカルチャーショックはありましたね」と50年以上前に味わった、ある意味での「新鮮さ」や「刺激」「戸惑い」を振り返る。

人の「話」は耳を傾け丁寧に聴くことの重さを知る。

銀行では「主に公金を扱う部門に配属されました。仕事自体は大した苦労もなく覚え取り組むことができましたが、電話だけは苦手というか辛かったですね」。
一般的に“仕事は創意工夫”といわれるが、 “創意工夫による仕事の改善と実現”は、さほど簡単なことではない。“創意と工夫”自体に整合性や合理性、あるいは効率性や説得力のあることが重要なのだが、実現するためには、その考えや提案を理解、後押ししてくれる先輩、同僚、そして上司の存在が不可欠だし、大きな要素でもある。
「仕事で経験したことを踏まえ、無駄なく効率的に進めることができる部分があるのではないかと考え、その具体的な方法論について上司に提案しました。世の中には部下からの意見具申を無視したり適当に扱ったりする上司が多いと耳にしますが、わたしの場合は恵まれていたんでしょうね。まだ経験の浅いわたしの話を上司はじっくりと聴いてくれました。種々、検討を加え結果的に提案した方法論が採用されたんです。嬉しかったですね」。藤井氏はこの経験を通して将来に繋がる重要なことを学んだ。
「たとえ経験の乏しい若手からだったとしても、“提案やアイディア”には、耳を傾けることが大切だと教えてくれたような気がしています。この姿勢は、いまでも大事にしています」。

「頭取になれないから辞める」と決断(英断!)。

東京で3年、大阪で2年、合計5年の銀行勤務経験を経て、25歳のときに退社した。職場ではある程度の評価を得ていたが、退社理由は「頭取になれないから」とのことだ。
いわゆる出世欲とは違うのだろうが、こうした決断にも「思い切りの良さ」とでも言うのか、「長州人」ならではの性格、気概が影を落としている。何かを起業するとか、何かに挑むという点では明確ではなかったと思いますね。ただ、何をするにも銀行体験は役に立つだろうとは思っていました」。
事業や生活をバックアップするために資金を提供する側である銀行とバックアップを必要とする側の関係は、謂わば“表裏一致”でもある。
「銀行勤務の経験を通して、銀行との付き合い方を覚えた、ということですね。結果的にこの経験は事業を展開する上で役に立ちました」。父や兄に相談し退社を決断、そして帰郷。

家業の手伝いを経て2年後、未経験ながら「うどん店」経営へ。

「帰郷したとき、特に具体的な目標や計画は明確ではありませんでした。当座は次兄が経営する八百屋を手伝ったのですが、元々、商売人の子どもでしたから、幼い頃から“いつかは商売をするんだ”という意識があり、次兄が経営する八百屋を手伝いながら、その一部門として飲食店、「ニューフジイ」というレストランを開業したのがスタートです」。
開業当初は料理人を雇っていたが、“自分が好きなものを提供できる店を作りたい”と考え、“うどん”と“丼物”を提供する「みほり峠本町店」をオープンしたのが、帰郷2年後の27歳のときだった。ただ、ここで問題、壁にぶち当たる。それは“料理は素人”だったことだ。
「商業高校から銀行員ななったために料理人としての修行をしたこともなく、まったくのド素人でした。現在はレシピ本やインターネットなど有り余るほどの情報がありますが、当時は雑誌もほとんどなく困ったのですが、唯一、参考にしたのが『主婦の友』という主婦向け、家庭向けの雑誌でした」。
「最終的には調理師免許を取得したのですが、考えてみれば無謀ですよね」と往時を振り返る。ただ、こうした「素人発想」が業績拡大の背景、底流にあることは見逃せない、極めて重要な要素になっている。
“好きこそものの上手あれ”という言葉がある。しかし藤井氏は言う。「“うどん”は好きではなかったし、逆に嫌いだったから考えついたんでしょうね」。
その一方で、1号店開業時点で「将来的にチェーン店を作ろう」とも考えていたと語る。

画期的なアイディア、『セット商品』が大ウケ。

1号店開業から3年後、2号店開業に漕ぎつけるのだが、ここで、現在でこそ目新しくなく、ごく当たり前と思っているメニューを思いつく。
「うどんと丼物を一緒にしたセット商品を思いついたんです。つまり、それまでは“うどん”は“うどん”、“丼物”は“丼物”とそれぞれ単品で販売(提供)していたのですが、“うどん+寿司やてんぷら、刺身などのセット”というセット商品を思いついたんです。これがウケましたね」
飲食業に限らずどんな世界にも斬新な考え、アイディアを持っている人は存在する。既成概念に凝り固まった、いわばベテランもいれば、柔軟な発想をする素人もいる。藤井氏は、柔軟な発想をいとわない“偉大なるド素人”だったから、こうした商品を生み出したのかもしれない。
「その頃、車社会の浸透で街の中心部を離れ郊外への出店が目立つようになっていました。そこで“宮野”に、このセット商品を引っ提げて2号店を出店しました。驚くほどの売上でした」。“驚くほどの売上”とは、どの程度なのか。 「予定というか希望としては、1日15万円くらいであればと思っていましたが、忙しい日でなんと約3倍強の50万円に達したんです」。
大ヒットしたセット商品は、単なる思いつきでもなければ、「イチかバチか」の当てずっぽうで生まれるものではないように思う。そこには鋭敏な“観察力”と確かな“判断力”“決断力”がなくてはならない。そして、この“力”を生み出すのは“常にお客目線でモノを見る姿勢”に他ならないのだろう。
しかし“セット商品”成功の影で、次への模索の必要性や課題に向き合うことになる。力になったのは、“情報”と“人脈=師”だった。

教科書は飲食業界御用達雑誌『近代食堂』。師は、『OGM』で学んだ同業者、仲間たち。

繰り返しになるが、藤井氏は料理“ド素人”。事業を拡大、継続するには強力な助けが必要だ。
「外食業界に携わる人の総合雑誌として知られている“近代食堂”という雑誌を購読しました。この雑誌には、メニュー開発から接客サービスまで飲食店経営に関する情報を幅広く紹介している雑誌で、参考になりました」。“近代食堂”は1969(昭和44)年に創刊し老舗で、飲食店にとっては“教科書”的存在でもある。
一方で雑誌だけの情報には限界がある。“いま現在、どんな課題があるのか、どんな方法で課題を乗り切るのか”“他社(他店)はどんなことをしているのか”など“ナマの情報”“リアルな情報”という点では雑誌は遅れをとっている。
「OGMで学びました」“OGM”とは1980年代から90年代にかけてそれぞれの企業、店舗運営を軌道に乗せ成功に導いてきた飲食コンサルティング会社である。ここで会員として学んだ。
OGMで学び事業を拡大、運営している企業は多く、たとえば坂東太郎、物語コーポレーション、甲羅、とんきゅう、ペッパーフードなど名の知れた錚々たる企業経営者が会員として学び成功を収めている。
「OGMでの出会いは大きいですね。現在でも付き合いはありますし、いい意味でライバルです。情報交換を通じて参考にも刺激にもなりますし励みにもなります」。
飲食業として成功への道、意識を共有する経営者同士の繋がりは雑誌などからの情報では得られない。人こそが財産でもある。
「唯我独尊」ほど危険なものはない。「人」の大事さを藤井氏は十分に知り尽くしている。

・・・続き

株式会社フジコーホールディングス 代表取締役社長 兼 株式会社MIHORI 代表取締役会長 藤井 公(あきら)氏

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