2026年6月9日火曜日

昨日Amazonに発注したクリーンライフの創業者大野宗社長の物語、本日手元に届きました。

 『時速200kmの世界から、ゴキブリ駆除の日本一へ。 「3K仕事を誇り高い仕事に変える」 元レーサー社長の挑戦! 』クリーンライフの創業者大野宗社長の物語、Amazonに昨日発注し本日手元に届きました。


私出てます(汗)


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)  


BONDZ株式会社 代表取締役社長 関川光之祐氏登場。

“飲食の戦士たち”BONDZ株式会社 代表取締役社長 関川光之祐氏登場を取り上げました。

本文より~

自己紹介の鉄板ネタ。

お父様は、秋篠宮家の専属料理人だった。お父様は、息子の関川さんをしばしば職場に連れて行った。
「母も宮内庁に勤めていた縁で、二人は結婚。2人の間に生まれたのが私で、じつは眞子さんや佳子さんといっしょに宮内庁のなかを走り回ったりしました」。
今回のインタビューはそんな話からスタートした。
改めて、今回、ご登場いただいた関川さんを紹介すると、現在、BONDZ株式会社の代表を務めておられる。1987年8月31日生まれ。
「祖父は染め物職人。神楽坂でお店を経営していました。父は料亭で修行したあと、調理師会の推薦で宮内庁に勤めます」。
園遊会のお料理も担当されたそう。
祖父も、父も、プロフェッショナル。プロの職人の背中をみて関川さんは育った。
「もう入れませんが、小学校のときには宿題の『お父さんの仕事のレポート』を書くために、宮内庁にも、赤坂御所にも行って。今思うとむちゃくちゃ貴重な経験だったな、と父に感謝しています。自己紹介では外せない鉄板ネタです」。
そういって、関川さんは笑う。
皇室ほどの英才教育ではないが、関川さんも、ピアノやバイオリンを習う。
「色々、習った気がします。ただ、ぼくは芸術系じゃなくって、スポーツ。ハンドボールなんですが、そちらに熱中します」。
小・中・高とチームのキャプテン。今のキャプテンシーの源流である。
ちなみに、東京都の小学校でハンドボールのチームが結成されたのは、関川さんらのチームが初だったそう。
「だから、試合も関東大会からスタートみたいな(笑)」。
大学は、スポーツ推薦で進む予定だったが、怪我がもとで推薦が受けられなくなり、指定校推薦で都内の大学に進んだ。

ネズミ講と訪問販売と。

大学生活の話を聞くと、「ネズミ講」という。「先輩に『儲かるで』って言われて」と笑う。
「初期投資は10万円。高田馬場の学生ローンに行って、キャッシングして。儲かるはずが、初月も、その翌月も空振り」。
<10万円の投資を回収しないと>
「そう。だから、凹む暇もない。心を入れ替えて真剣にやります。すると、面白いもので、結果が表れ始めて。調子に乗って、スーツを着て、公民館に人を集めて、ホワイトボードを使って偉そうにプレゼンしたりして。1年弱で辞めちゃいましたが、3ヵ月目からは月に40~50万円は入ってきました」。
<それは、すごい!>
「それ以外にも、飲食や配達のバイトをしました。どこもかしこも、楽しかったですね」。
「仕事より、人間関係が面白かった」というところが関川さんらしい。
就職も、ネズミ講同様、ハイリスクで、ハイリターンな道を進む。
「オール電化や太陽光発電のセールスマンです」。
<インターホンをピンポンってするあの仕事?>
「ハッハ、そうです。車で決められたエリアまで連れていかれて、そこで、リリースされて。契約をいただくまで帰れません。営業の世界ってたいへんでしょ。そのなかでも、紛れもなくいちばん過酷な世界。新卒は200人。みんなであっちこっちをピンポンするんです」。
「ネズミ講で鍛えていただいたからでしょうか。新卒のなかでは群を抜く結果を残していました。秘訣ですか?秘訣は数。数はすべてを凌駕します」と関川さん。
渡された地図をみて、グルグルグルグル、もう一度、グルグルグルグル。ひたすら回る。
「ふつうの人は1ヵ月で3本、ぼくのマックスは12本です」。
商材はオール電化やエコキュート、IH、太陽光。
ちなみに配属されたのは、池袋。
「ネズミ講のときと同様に、そこも1年くらいで退職します。じつは、スカウトされたんです」。

スカウト先は、同業者。

「私の仕事を聞いて、じゃぁ、うちにおいでよみたいな(笑)。仕事はかわらなかったんです。ただ、アポインターもいたし、何より社用車もあって。特別待遇だったんです。ハイ。ラッキーと思ってすぐ転職しました」。
「商材はおなじ。結果も当然でます。だから、給料は悪くない。ただ、最初の会社とちがって、若い奴が多かったからか、いい時計買って、高級車乗って、キャバクラでパッと使って」。
「派手っていうか、見栄っ張りっていうか。車は、高級車なのにボロボロのアパートに住んでいる奴もいました。私は、ちょっと好きじゃなかった。そういうのは」と関川さん。たまに、つるむと「ノリが悪い」と笑われることも少なくなかった。
「けっきょく、1年くらいで、この会社も退職します」。
少しだけ、営業の様子もうかがったので、記載する。
「朝9時から1台の車に4人が放り込まれて、インターホンを押せる、ギリギリの、夜の9時くらいまでですね。グルグル、回るんです。9時、ギリギリにお客さんとつながったら、そこから契約をいただくまで2~3時間はかかります」。
「落とす」というらしい。
「車は1台。だから、1人がギリギリの時間にお客様をキャッチしたら、ほかの3人はやることがありません。そりゃ、苦痛ですよね」。
仕事が終わるのは、夜の12時。ときには深夜1時。
「ぼく自身は数字をあげていました。2社目では、アポインターさんもいたし、社用車もあったし。でも、支店長に手を抜いているのを見抜かれていたんでしょうね。直行直帰もできなくなって。だんだん、無駄にしんどいなと思うようになって」。
そのとき、関川さんは誘いに乗って、飲食の道に迷い込む。

心を折る一言で、火がついた。

「大学の最後のアルバイトが、神楽坂にオープンした焼肉店のオープニングスタッフだったんです。じつは、その時のスーパーバイザーが、のちの『株式会社ふたご』の李 純哲さんだったんです」。
<李さんとは、その時からのご縁だったんですね?>
「そうです。ただ、社員として働いたのは別の飲食店で、いうなら、これが私の飲食人生のスタートです」。
メニューづくりも、仕入れも初体験。しかし、業者との交渉や折衝はお手のもの。値決めのセンスもあった。
「むちゃくちゃ面白かったです。利益もでていましたから。で、本格的に飲食をやろうって決めたときでした」。
そのタイミングを計ったように1本の電話が入る。
「ふたごの李さんからでした。『今何しとんねん?』って」。

ふたごの李さんと。

社員番号は「9番」。 これが、「ふたご」での関川さんの番号。
「正確にいうと、私は2店舗目からで。それ以降はほぼ全店でオープンから入り、最後はブランドマネージャーで70店舗を管理していました」。
<ブランドマネージャーってすごいですね>
「私だけではなく、今、社長をされている森川さんもいましたし、もちろん、創業者の李兄弟もいて。え? 李さんから教わったことですか?」。
「サボることと、遊ぶこと」と言って笑う。ただ、スケールはでかい。「ニューヨークのお客様と意気投合して、『じゃぁ、ニューヨークにだすわ!』って。あの2人ならほんとにやりそうなんです」。
じつは李純哲さんには2012年6月に、今、話にでた森川さんには2025年9月にインタビューさせていただいている。
森川さんに聞いたところ、ふたごの兄弟は今ドバイ在住とのこと。「日本には年の半分しかいない」という。たしかに、2人のスケールはちがう。
そのふたごの兄弟の下で、水を得た魚のように関川さんははたらく。「大阪焼肉・ホルモン ふたご」をはじめ、多くのブランドの責任者となり、事業をコントロールする。
森川さん同様。ふたごの兄弟の懐刀。切れ者の森川さんと、人望の関川さん。2人が事業の両輪となっていた。
「評価いただいていたこともあったし、『ふたご』のオープンな社風も気に入っていましたので、独立はもちろん、辞める選択肢はなくって、森川さんじゃないですが、『ふたご』で役員になろうと思っていたんです」。
「ところが」。
<ところが?>

言い出しペの責任。

「『私が役員といっしょに設計してスタートした『買取モデル』があって。ロールモデルをつくろうとしていたんですが、話を進めていく中で、新規で独立したほうがまわりに刺激を与えれるんじゃないかって」。
「言い出しっぺだし、『じゃ、オレが』と宣言するんです。李さんからは、『なんで関川が』って言われるんですが」。
言い出したはいいが、詳細が決まっていなかった。
「『ふたご』の看板を汚すわけにもいかないので、退職後、自力で、ゼロイチで、店をオープンします」。
<それが、ボンズですか?>
「そう。1号店はコロナのど真ん中の2021年8月。赤坂に『焼肉ホルモン ボンズ』をオープンしました。12坪で28席。家賃は48万円。助成金などは一切でません」。
ローリスク、ハイリターンのつもりが、けっきょくいつも通りハイリスク、ハイリターン。
コロナ禍の下、赤坂の夜は、ひっそりとしていた。

・・・続き

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株式会社トンボカンパニー 代表取締役 向井正史氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社トンボカンパニー 代表取締役 向井正史氏登場を取り上げました。

本文より~

トンボに出会うまで。

幼少期、短距離走は無敵だった。野球は5番を打ち、ショートかセンター。生まれは1975年だから、生徒数が多い。「中学は10クラスありました。」と向井さん。
「野球は小学3年生からはじめました。記憶に残っているのは、中学の監督やコーチがとにかく厳しくて、むちゃくちゃ尻を叩かれてました。おかげで『やり抜く力』というか、後に役立つ気力体力が身についた気がします(笑)」。
野球は中学まで。高校に進むと「甲子園に行けないのが分かったので、それならばもっと社会に触れたい」とアルバイトを開始する。
「大学進学は指定校推薦で、と思い勉強も頑張っていましたが、うちは貧乏だったので、大学進学は経済的に無理だったんです」。
最初のバイトは西友のお菓子の品出し。
「アルバイトを始めるときに振込用の通帳をつくるでしょ。じつは、通帳をつくって以来、お金に困ったことがないんです。いつも通帳には20~30万円が入っていました」。
<高校生の時も?>と聞くと「そうなんですよね。たぶん、母親の言うことを無意識に守っていたんですよね」との回答。
お母様は常々「欲しいものがあれば、必ず貯めてから買いなさい」とおっしゃっていたそうだ。
<安易なお金の使い方を注意されたんですね?>
「おかげで自動車免許のお金も自分で貯めました。当時から洋服もぜんぶ自分で買っていました。それでも通帳の残高はそんなに減らなかったです」。
バイトは週に4~5日。「勉強はそっちのけ?」と思いながら聞いていたが、「成績は悪くなかったですよ。3年間ずっとクラスで2位でした(笑)」と意外な答え。
「大学は、さっき言ったように経済的に無理だとわかってましたから、高校2年くらいには『進路を決めなきゃな』って。成績がよくても、大学には行けませんから。その頃、友達が数枚のCDを貸してくれたんです」。 長渕剛のCDだった。

トンボが舌をだして笑った日まで。

「ハマった」と向井さん。借りたCDを聴きまくった。とくに「とんぼ」に酔いしれた。
「かっこいいでしょ。『コツコツと』で始まる。あの音を聴くと、いろんな思いが頭を駆け回ります」。
頭を駆け回る思いを、「反逆性」と、向井さんは表現する。
実は同じ頃、相田みつをさんにもハマっていたそう。
仏教の世界観を知ったとも言っている。
相田みつをさんといえば、「にんげんだもの」である。
改めて調べてみると、長渕さんと相田さんのメッセージには共通項が少なくなかった。「人間臭さ」や「生きる厳しさや切なさ」である。
「長渕さんや、相田さんの詩が頭のなかでこだますると、小学校の頃の、損得無しなあの無邪気さが無性に欲しくなってくるんです。そして、1人じゃなく、太い人間関係を取り戻したいって」。
その思いの先にあったのが、飲食店だった。
「小さな店でいいから、人の息遣いが聞こえるような店をつくりたいって思うようになったんです。煩わしさばかりを感じていた人間関係をもう一度あの頃のように取り戻したいと思うようになったんです」。
<それも、高校2年の頃の話?>
「そうです。それでですね、」と向井さん。
「高校2年の夏休み。コンビニでラーメン雑誌を買って、読み漁りました」。
<小さい店って、ラーメン店ですか?>
「そう、高校生じゃそれくらいしか思いつかなかったんです(笑)。それで、行ったこともない駅で降りて、旨そうなラーメン店を探す旅が始まります。ようやく1軒いいなって店があって。思い切って、暖簾をくぐるんです」。
向井さんは自身を「内気な少年」という。
「内気な少年がありったけの勇気を振り絞って、店主さんに『ここで働かせてください』って頭を下げたんです。そしたら店主さんに、怒られちゃったんですよ」。
<なんて、ですか?>
「『若いアンタにはまだまだ無限の可能性があるんだから、うちみたいな小さい店で働いちゃだめだ』って。思いやりのある一言なんですが、当時は、悔しくて。帰りの電車のなかで、泣きました」。
とんぼが舌を出して笑ったようだった。

料理人への、はじめの一歩。

「ラーメン屋のおじさんに怒られたからじゃないんですが、飲食店と言ったらラーメン店や定食屋くらいしか思いつかない。『これじゃいけない』『もっと広い世界をみないといけない』と、調理師の専門学校に進みます」。
「その専門学校は首席で卒業しちゃいました」と向井さん。
「調理が巧いっていうより、7割は学科ですし、だいたいみんな真剣じゃないんです(笑)。学費は、100万円以上かかりましたが自分で払いました。講師で来た先生(シェフ)をみて、かっこいいなって、むちゃくちゃ憧れたし、何よりはっきりとした夢があったんで誰よりも真剣だったんですよね」。
校長推薦で、赤坂にあった高級海鮮料理店に就職する。
「中華料理の奥深さにも驚きましたが、何と言ってもあの量です。たとえば、『ネギを切って』って指示されるでしょ。『何本ですか?』って聞くと、『2ケース』って(笑)」。
<2ケース?>
「そう。100本前後です(笑)。これが、専門料理店の世界だったんです。おかげで包丁スキルはめちゃくちゃ付きました」。
年上の料理人が多かったから可愛がられた。労働環境にも恵まれていた。料理は「石鯛や毛ガニ、伊勢海老、鮑など全て国産天然の活けでした。今考えると貴重な経験ですね」。
「ただ、9割がコース料理。創作的な料理はない。決められたメニューばかりをつくるより、料理をクリエイトしてみたかったんです。それで、希望していた世界とはちがうかな、と2年ほどで転職を決意します」。
そのあと、表参道や、阿佐ヶ谷のレストランを転々とした。
「キッチン内の先輩・後輩の関係ですか? 最初のお店は校長推薦でしたから、とくに理不尽なことはなかったんですが、つぎの店ではちゃんと、理不尽な拳骨を食らいました(笑)」。
当時のキッチンは、罵声も、拳骨も飛んだ。今とは大違い。
<楽コーポレーションは、このあと?>
向井さんは、頷く。

宇野社長との出会いと、氷の音と。

<楽コーポレーションで戸惑ったことはありましたか?>
レストランと楽コーポレーションとは、落差があると思ったから聞いてみた。
「楽しかったですね」。
意外な答えだった。
<楽しい?>
「ええ」と、向井さんはきっぱりという。
「楽コーポレーションでは、カウンターのすぐ向こうに、お客さんがいらっしゃるんです。いままではキッチンのなかでしょ。世界がぜんぜんちがいます。料理人にとって、これほど楽しいことはないです」。
「一方で、接客は難しかった」と正直に打ち明けてくれる。
「おやじ、創業者の宇野隆史さんのことですが、おやじがいうんです。料理をつくりながら、氷の音を聞けって」。
<氷の音?>
「グラスのお酒がなくなると、氷が音を立てるでしょ。それがおかわりの合図だって。料理をしながら、氷の音までも気にかける。スーパーマンでしょ。ほかにも、トマトってあるでしょ。冷やして、カットして、お出しすれば、一つ100円のトマトが、300円になる。好きなように味付けできる調味料をいくつかお出しすれば、お客様も喜ぶ。それもまた、料理なんだって」。
たしかに、そうだった。カウンターの向こうと、こちらで、言葉と心のキャッチボールをする。それが、接客の正体だった。
「だから、最初は苦労して、そして、最終的には、それがいちばんの楽しさであり武器になります」。
「楽コーポレーションには合計9年いました」と、向井さん。
「『30歳になったら独立する』って言ってたんです。でもね」といたずらっ子のように笑う。
「30歳のバースデーは、なんとカナダのバンクーバーにいたんです」。

・・・続き

株式会社トンボカンパニー 代表取締役 向井正史氏登場


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2026年6月4日木曜日

クリーンライフ大野宗社長の漫画動画、その1です!

完全ゴキブリ駆除率99.5%のクリーンライフ大野宗社長の漫画動画、その1です!

何故大野社長が害虫駆除業界に足を突っ込まれ高橋、その原点がわかります。

その2、その3、その4も発信していきます。

2026年6月2日火曜日

再生数1位は嬉しいね。

うちの江川が取り上げてもらったYouTube【独占対談 |  STANDS JOURNAL】再生数1位はめちゃくちゃ嬉しい。
しかも「いいね!」の数も断トツ
内容もしっかり伝えてるし、自分を内観してのコメントは成長感じます。
私とはタイプが違いますが、こうやって応援してもらえる人たちがいるので頼もしいです。


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2026年5月29日金曜日

キイストン取締役でミストラル社長の江川広太、YouTubeに出演させて頂きました。

キイストン取締役でミストラル社長の江川広太が、元物語コーポレーションの北村さん運営のSTANDS JOURNALというYouTubeに出演させて頂きました。 

深刻化する飲食店の人材不足・採用課題に立ち向かい、各求人メディアや『飲食の戦士たち』を活用した独自の採用コンサルティングで業界を牽引する両社。今回はその最前線で活躍されるリーダー江川さんに、これまでの歩みや、結果を出し続けるための熱い「仕事の流儀」「信念」「美学」について語っていただきました。

【独占対談 | STANDS JOURNAL】

リーダーたちの「決断」と「人生の分岐点」にフォーカスし、 対談形式でお届けします。組織づくり、カルチャーづくりのヒントを探ります。 聞き手:株式会社STANDS 代表 北村 聡

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2026年5月20日水曜日

株式会社double 代表取締役 松井勝也氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社double 代表取締役 松井勝也氏登場を取り上げました。

本文より~

飲食か、現場か、中央市場か。

「学歴がないんで、選択肢が『飲食』か『現場』か『中央市場』の3択やったんですよ」と言って、株式会社doubleの代表取締役 松井さんが笑う。
3つの選択肢のなかで、選んだのが飲食。その理由をうかがうと「朝が苦手で、人と話すのが性格的に向いていると思って」との回答。
中央市場はちかくにあったから候補に入れたが、朝が早すぎた。
「勉強ができる人は色々と選択肢があるんでしょうが、ぼくの場合は少ないから、迷いもなかった」。
恩田陸という小説家が、『球形の季節』のなかで「何かを決められる人というのは、よほど恵まれているか、よほど選択肢がないかのどちらかだ」と書いているが、分類すれば松井さんは「よほど選択肢がない」人になる。
ただ、それが悪いわけではない。松井さんの場合、ラッキーなことに選択はまちがっていなかった。
「飲食なら学歴に左右されないでしょ。親がいうから高校には進みましたが、高校2年のときに1つ目を退学。べつの高校に移って3年から始め、だぶって4年目の真ん中くらいまでいて、そっちも退学します。学校のレベルですか、偏差値でいうたら、37と36ぐらいの戦いやったと思います(笑)」。
「それでも学校は好きで、結構行ってましたよ」と松井さん。
「結構」という表現が面白い。

パチンコ店が、潰れる。松井家の一大事。

「人とおるんが好きなんで。夜中、ツルんでボウリング行ったり、バイク乗ったり、グレてる少年たちが送る、ありきたりの生活をしていました」。
<高校は卒業されたんですか?>
「いや、さっきも言いましたが、途中で。でもね。高校1年から始めたアルバイトは3年つづけました。好きなことはちゃんとする、そんな性格だったんですね。いま思うと(笑)」。
松井さんは1994年、大阪の福島に生まれている。兄弟は、男3人。松井さんは長男で、今、次男の利也さんと一緒に事業をしている。
<小学生時代を教えてください>
「勉強はぜんぜんできへんかったね。だから、野球かな、楽しかったのは。勉強はでけへんかったんですが、公文はしてました。中の下くらいやったかな。記憶力がないから、漢字が大の苦手で、今も克服していません(笑)。野球はシニアリーグでやっていました。兄弟3人。全員、野球をやっています」。
<先日、弟の利也さんをインタビューさせていただきました。お父さんが事業を失敗されたと聞いています>
「父は、もともとホテルの料理人やったんです。独立してパチンコ店をオープンしたんですが、私が小学校低学年のときに失敗して。生活のレベルがいっぺんしました」。
ちなみに、お祖父様は、豪邸を3つ、軽井沢に別荘もお持ちだったそうだ。
「祖父は、お金持ちでしたね。遺産とか色々あったかもしれません」。
「とにかく、お金は怖い」と松井さんはいう。父親を慕っていた人が、破産すると、とたんに距離を置く様子をみていたからだ。
両親の喧嘩も、殺伐として、色がなくなった。
<それでも、今、事業を起こされています。そこは怖くなかったんですか?>
「それは、まったくない。ほかに道がなかったからかもしれませんが」。
そう言って、冒頭の話になった。
高校1年から3年間、アルバイトしたのは、関西らしくお好み焼きのお店。「学生やフリーターから可愛がってもらった」と可愛らしいことをいう。

梅田の夜と、キャッチという仕事と、オレってできる奴やったんや。

高校生を4年ちかくやり、中退。学歴は中卒。「学歴もないから」と、選択通り、飲食に進む。
「梅田で焼鳥の店があって、私が働き始めたときで30~40店舗あったんちゃうかな」。
<ホールとか、キッチンですか?>
「いや、キャッチってわかります?キャッチで店の売上をつくっていました。全部で8店舗。キャッチにもノルマがあって、売上目標達成が至上命題です。私が18か19のときです」。
<しゃべりは得意だから、キャッチは向いていますね>
「そりゃ、水を得た魚です。19歳でチームリーダーになって、大学生やフリーターを20人くらいまとめていました。人の上に立つという経験をしたのは、あれが初めて。月収ですか、悪くなかったです」。
「40万円~50万円」と聞いて驚いた。もっとも、東京の新宿でキャッチをしていた人に聞くと、新宿なら、70万も割と簡単にいくそうだ。キャッチ出身の経営者は少なくない。
「これが一つの転機言うたら、転機です。なにが転機やいうても、『オレってできる奴やったんや』って(笑)。調子にのって、なんだかんだ4年つづけました」。

doubleの始まり。

<大学生と接していて、学歴のコンプレックスはなかったですか?>
「ぜんぜんないです。学歴がないのは、そうなんですが、コンプレックスは、うん、ないですね。『できるはずやのに、できへん』っていうのは、コンプレックスになると思うんです。でも、私の場合は『できへんから、できへん』なんで」。
「できへんから、できへん」。哲学的な一言だ。
<弟の利也さんは、大学に進まれています>
「立命館ですね」
<利也さんから、大学入学時にお金を貸してもらったと聞きました。たいへん喜んで、兄貴をリスペクトするようになった、とおっしゃっていました>
「そんなこと言ってましたか?」と松井さんが笑う。
懐が広い。
<ところで、のちに利也さんとおなじ会社でお勤めになったんですよね?>
「そう、私が先に入って。社員というか、副社長のような立場で入って。そのあと、弟も入ってきて。私が大阪で、弟は福岡で」。
そこで何年やられましたか?
「4年です。今あるのは、そこがめちゃめちゃポイントになっています。オーナーは私とかわらない、4つちがいか、まだ、20代やのに、お金の切り方がぜんぜんちがいました」。
<切り方?>
「お金の使い方とお金の考え方みたいな。それをめちゃくちゃ勉強させられた気がしています」。
4年間で、松井さんは、利也さんとともに9店舗をオープンした。

かき集めたメンバーと、三方よしと。

「キャッチのときとはぜんぜんちがって。給与の振り込みから、出店資金、あ、出店資金はオーナーが出してくれるんですが、何年で回収せなあかんとか、そういう回収フロー系や、お金系は全部、計算するようになりました」。
<教えていただいたんですね?>
「いや、そんなん教えてくれません。でも『言え』って言われるから、独学で勉強して(笑)」。
苦手な勉強も、いざとなったらちがうらしい。
「とにかく、むちゃくちゃ勉強させられました。ない頭を使うもんやから、めちゃめちゃしんどかったです。数字やからまだ助かりました。漢字やったら爆発しています(笑)」。
勉強もしたが、めちゃくちゃはたらきもした。
従業員をかき集める。全員、知人。「キャッチの会社もつくった」という。「毎年、正月に倒れた」と笑う。
「そりゃ、全部、ぼくの知り合い。なんかあったらあかん。全員の人生を預かってますから」。
<そのプレッシャーにも育てられた?>
「そこは、結構背負いましたね。給料をやっぱり払ってあげなあかんとか、給料を上げてやるのも自分の選択やったんで。でも、副社長やから、上に社長がいるんです。だから、私が給料上げたくても、社長を通さないとダメでしょ」。
「そこでも、数字が大事だった」と松井さん。
「それに、交渉やないけど、喋りも上手くなかったらあかんでしょ。もちろん、口先だけやったらすぐにバレます。給料をあげることが、どれだけこちらにもいいことなのか。今の会社で『三方よし』を定義にしてるんですが、これなんかは、そこで学んだ大事なことです」。
投資と回収。三方よし。この2つをどれだけ深いレベルで学んだかは、今のdoubleをみれば一目瞭然だ。

背中合わせの「double」。

話を少し先に進めよう。
<設立は、コロナ禍ですね?>
「そうです。2人で会社を辞めて、独立させてもらいます。分割で9店舗のうち7店舗を買取ました。従業員を守りたくても、さっきいったみたいに副社長やから、好き勝手はできません。でも、守りたい。だったら、選択肢は一つしかなかったんです」。
お店をほぼ全部、買い取った。
<恐怖はなかった?>
「そりゃ、父親をみてますからね。コロナもいつ終わるかわからへんかったし。でも、ある程度、リスクヘッジをしながらですが、『オレたちがあかんかったら、みんなあかんやろ』くらいに思ってもいたんで、ぎゃくにアクセルを踏んだんです。そうしないとみんなを守りきれませんでしたから」。
それから、5年。松井さんがみる風景は、まるでちがっている。兄弟で立ち上げたdoubleは、驚異的なスピードで拡大をつづけ、今や年商は90億円だ。
「弟に聞かれたかもしれませんが、弟は『桐麺JAPAN』という別会社で『桐麺』という有名なラーメン店を経営しています。私も『food culture』という別会社をつくって、そのラーメン店のFCをしています。一緒に始めて、今も一緒にやっているdoubleがあって、互いに別々の会社を経営している、そんなイメージです。その相乗効果で、もっと広がっていくかもしれません」。
2人で経営する会社は、「double」。
「弟と一緒だからdoubleなんですが、もう少しいうと、色違いの2人が背中をあわせて、ちがう方向をみている。そういうのもひっくるめてdoubleと名付けています」。
背中でお互いの体温を感じながら、ちがう方向をみている。一体だが、溶け合わない。そこが、つよみ。
これからもエンジン全開ですか?
「そうですね。弟も全開です」。
ちなみに、設立からわずか5年。doubleの売上は今期、100億円に届きそうだ。
「今、弟と話をしています。6年以内に300億円はいきたいなって」。
海外進出も狙っている。
とんでもない兄弟だ。だが、色違いの2人に、そして、松井さんにやってできないことはない。選択肢は「やる」それだけだから。
背中合わせの「double」の今からに、いつか今よりも大きな喝采を送ることになるだろう。

・・・続き

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2026年5月14日木曜日

株式会社桐麺JAPAN 代表取締役社長 松井利也氏登場。

“飲食の戦士たち”株式会社桐麺JAPAN 代表取締役社長 松井利也氏を取り上げました。

本文より~

桐谷さんと、松井さん。

2023年の1月、大阪トップクラスの人気ラーメン店「桐麺」の経営者、桐谷尚幸さんが「桐麺本店」はじめ、「中華そば桐麺」「桐ちゃん製麺」の桐麺全店を同年7月末に閉店するとアナウンスした。
「桐麺」は2014年12月のオープン以来行列が絶えず、「食べログ百名店」にも毎年選出された名店だったから、その発表を聞いて「桐麺ファン」が騒ぎ出したのも頷ける。
今回、ご登場いただいたのは、現在、桐谷さんに代わり、この「桐麺」を運営している「桐麺JAPAN」の代表、松井利也さんである。
一体全体、どういう経緯なんだろう。今回も興味深いお話をうかがうことができた。
松井さんと桐谷さんが知り合ったのは、松井さんが16歳の時。
「そのとき、桐谷さんは『ラーメン人生JET』という大阪の名店で店長をされていました。私は常連客の1人。毎週ラーメン人生JETに通っていただけのその客に、ある日、桐谷さんが『お前、おもろいやっちゃな、うちで働けや』っていうんです(笑)」。
<そこからの縁ですか?>
「そうです(笑)。『ラーメン人生JET』が好きだし、桐谷さんもいい人でしたから、二つ返事で『ラーメン人生JET』でアルバイトを始めます」。
<ラーメン人生JETっていうのは?>
「大阪を代表するラーメン店で、店主は山本さんです。スープは鶏白湯で、数々の賞を取った名店です。桐谷さんはその店主の方に惚れ込んで店長として修行をされてました」。
とにもかくにも、これが、松井さんと桐谷さんの出会い。その後、松井さんは、大学を卒業し、飲食ベンチャー企業に入社する。
そして、2020年、兄の松井勝也さんとともに株式会社doubleを設立。同社は、このインタビュー時の2026年現在で、売上100億円に迫っている。
コロナ禍での奇跡。サントリーの年間新規出店数ランキングでは、2024年、2025年と2年連続で1位を獲得している。
さて、その松井さん。「桐麺」継承以前にも支援するかたちでラーメン店を経営している。これもまた2020年のこと。
その頃、桐谷さんのほうはというと。
「桐谷さんは、『ラーメン人生JET』を卒業し、2014年に『桐麺』をオープン。オープン後間もなく人気店に駆け上がり、2019年頃には『桐玉』という、自家製麺を冷水で〆て、生卵と特製塩ダレをからめて食べるシンプルなメニューが大ヒットして」。
「私がラーメン店を経営することになった2020年頃には、桐谷さんは、超人気ラーメン店の店主でした。桐谷さんにラーメン店を開業することを報告すると、その後もなにかと気にかけてくださって」。
<縁はとぎれない?>
「そうですね」といって松井さんは話をつづける。
「ある日、桐谷さんからLINEをいただきました。その内容というと、『相談があるんや』って。なんやろって、首をひねりながら待ち合わせの十三の喫茶店に行ったら、『加西に家、買ったで。俺はラーメンに100%向き合って生きたい』って言われてました(笑)」。

兄の勝也さんと、松井さん。

松井さんは1996年、今でいう飲食激戦区の大阪市福島区に生まれた。
「父は元料理人。祖父が残したお金でパチンコ店を開業するんですが、失敗してしまいます。倒産するまでは幼いころは裕福だったんですが」と苦笑する。
兄弟は、男3人。
「兄の勝也は中卒でしたが、私は特待生で私立高校に入ります。特待生は入学金、授業料、修学旅行代もいらなかったから、公立に行くより賢い選択かなと」。
その後、松井さんは立命館大学に入学。
高校は学費がかからなかったが、大学はそうはいかなかった。
「高校も、大学も両親には一切迷惑をかけたくありませんでした。ただ、私立大学ですから入学金などのまとまった費用がどうしても工面できなかった。それで、兄に電話を入れました」。
<電話でなんといったんですか?>
「『大学に行きたいねんけど、100万円貸してくれへんか』って(笑)」。
<どうなりました?>
「『ええよ』って。細かいことは一切聞かないでね」。
兄弟愛といえば、それまでだが、たぶん、これが、兄、勝也さんの生き様。
「今、『株式会社double』を、兄といっしょにやっているんで、仲がいい兄弟に思われがちなんですが、じつはあの時まで、ぜんぜん仲もよくなかった(笑)」。
「それどころか、私は高校も卒業していない兄を正直見下してました」と松井さんはいう。「それが、あの『ええよ』の一言で、すべて反転したんです」。
あの日を境に、松井さんは兄、勝也さんをリスペクトの目で見始めた。

最強の2人。

大学を卒業した松井さんは、勝也さんが役員をしている会社に入社。勝也さん同様、役員的な立ち位置で九州エリアを担当する。
松井さんは福岡をホームにして、つぎつぎと新店をオープンしていく。
「兄は大阪で、私は福岡です。2人で9店舗まで店舗数を拡大します」。
<破竹の勢いですね?>
「実際に、破竹の勢いとなるのは、その後、なんですが、とにかく、兄と私で9店舗まで拡大していきます。しかし、その後、コロナが始まってしまうんです」。
<それが一つの起点になった?>
「そうなんです。コロナで、どこもかしこも大変だったじゃないですか。コロナの正体がだんだんわかってきて。それで、余計に何が何かわからなくなって。私たちの店だって、だんだんお客様がいなくなって。でも、お客様はいなくなっても、私と兄を信じて入社してくれた仲間がいる」。
<でも、どうしようもない>
「そう、オーナー経営者じゃなかった。勝算のない中真っ暗闇に突っ込み、不安と戦っている自分達がいたんです。だから、全責任を背負って決断できるオーナー経営者になりたいと思い独立を決意しました。管轄店舗を9舗のうち7店舗を分割ですが買い取らせて頂いて、仲間といっしょに、コロナ禍で再スタートというか、改めてスタートを切ったんです」。
<それが2020年のことですね?>
「そうです。『株式会社double』を立ち上げて、私と兄の、互いの強みを活かして。暗闇のなかでアクセルを踏んで爆走していきます」。
「コロナ×地方」と、松井さんは勝利の方程式をそう表現する。
「都会といったら、大阪でいうとミナミとか梅田。そういう繁華街じゃなく、地方に戦略的に投資しました。都会じゃ『リモートだ、在宅だ』で、昼間の人口が減っていくわけですが、地方はそうじゃありません」。
地方でも、都会同様、抜群のロケーションで、かつ格安な物件が現れた。松井さんはつぎつぎと、それらの店舗の権利を獲得してオープンを重ねる。
財務は松井さんの担当。「いける!」と思えば、迷わずアクセルを踏んだ。
「おれらは背中を預けあった時は最強だと思っていたんです。もし、おれらがだめだったら、どこもだめだろうって」。
<ちなみに、2020年にはさきほどのラーメン店もオープンされていますね?>
「そうなんです、ええ男がパートナーでいたんで。独立支援という形でグループ会社化しました。コロナ禍でしたが、このラーメン店が大バズりするんです。コロナ禍にもかかわらず、連日、お客様が列をつくってくださったんです。もちろん、みなさん、マスクをして」。
「インスタが功を奏した」と松井さん。
「インスタが黎明期の、むちゃくちゃいいタイミングでした」。
片や最強のコンビが経営する「double」が驚異的なスピードで拡大をつづける。その一方で、小さく生まれたラーメン店が、コツコツと人気店舗への道を歩みだす。
ちなみに、最強のコンビといったが、スタンスは異なる。松井さんいわく「独立採算制」とのこと。「いざってときは兄弟ですからね。合体して、2人のパワーで切り開いていきますが、今は、それぞれが担当エリアと業態が独立していて、ライバルでもあります。その集合体が『double』という感じでやっています」。
今回、インタビューさせていただいた「桐麺JAPAN」は、松井さんが率いる独自の法人。創業者の桐谷さんは、取締役最高顧問でアドバイザー的な立ち位置で参画されている。
そして、兄の勝也さんは「株式会社food culture」を立ち上げ、東海エリアでマスターフランチャイジーとして「桐麺」の2店舗をオープン。弟の松井さんのフランチャイジー応援している。

・・・続き

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2026年5月11日月曜日

2026年5月11日は父親が亡くなりちょうど10年。

2026年は、母が旅立って20年、父が旅立って10年という大きな節目になります。
本当に月日が経つのはあっという間ですね。
地元の高校を出て名古屋の大学へ行ってからは、年に一週間も帰らないような勝手な息子でした。
仕事で独立したあと、「少しでも顔を出して親孝行を」と思って京都に拠点を置きましたが、結局は思うように何もしてあげられなかった気がします。
そんな私にできた唯一のことが、葬儀の際の花でした。
母のときも驚くほど多くの供花をいただきましたが、父のときはそれをさらに上回る、溢れるほどの花に囲まれて送り出すことができました。
父もきっと、照れくさそうに笑って見てくれていたんじゃないかな、と思っています。
5月11日は、父親の命日でもあり、また10日は母の日でもあるので仏壇にお供えの花に合わせてカーネーションも挿しました。



2026年5月4日月曜日

4月28日(火)、産経デジタルzakⅡにて、SNS全盛時代に超アナログ手法で大成功!「ジョウネツ」のNEVOK・瀧上晋之介社長を取り上げました。

産経デジタルzakⅡ「ここだけの外食産業ニュース」にて、飲食店オーナーに代わり店のセールスポイントをアピールし、集客につなげるプロ集団「ジョウネツ」(株式会社NEVOK・東京都品川区 瀧上晋之介社長)を取り上げました。

SNS全盛時代に超アナログ手法で大成功! ジョウネツ流リアル感動集客術の秘密

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2026年4月30日木曜日

【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏登場。

“飲食の戦士たち”【特別企画(過去掲載からの再取材)】株式会社トライ・インターナショナル 代表取締役社長 田所史之氏を取り上げました。

本文より~

味噌らーめん専門店「麺場 田所商店」。

ブラジルのサンパウロ、アメリカのニューヨーク。今年(2026年)には、トライ・インターナショナル単独で味噌の展示会を開催するそうだ。
2013年、1回目のインタビュー時、国内は5店舗(FC45店舗)だったが、当時から海外へ目をむけ、海外でも味噌らーめん専門店を複数店舗オープンされていた。ブランドは「麺場 田所商店」。看板代わりにそびえる大きな味噌樽が味噌専門店であることを誇っている。
2026年現在の店舗数はFC合わせ国内外で200店舗以上ある。田所さんは店舗を“出口”と表現する。対になる入口は、約70社ある取引先。味噌蔵である。なかにはグループ化した味噌蔵もある。
「宮崎にある1社が顆粒の味噌を製造しているんです。面白いでしょ。この会社もグループ化しています。味噌を顆粒化し、世界中で手軽に使える調味料として広げていく取り組みも進めています」。すでに60歳を超えた田所さんだが、前回同様、ハリのある声でユーモアを交えながら淡々とお話をしてくださった。
では、今回のお話を始める前に、13年前にうかがった少年期からの話をはじめよう。

野球よりバイク。大学よりバイト。

田所さんが生まれたのは、福島県白河市近郊だった。実家は明治から続く味噌蔵。
子どもの頃の話を聞くと、「テストは30点とればいいほう」とこちらを笑わせてくれた。
勉強は苦手だったが、スポーツは得意。得意な野球では高校で県ベスト4。社会人野球からも誘いがあったそう。ただ、本人は、野球よりバイク。学校にいかなかったから、卒業に赤信号が灯った。
真冬の2月のプール。「25メートルを泳ぐことができたら卒業させてやる」。「先生のむちゃくちゃな課題をなんとかクリアして卒業できた」とおっしゃっていた。
その時の話をすると、「そんな話をしていましたよね。昭和だからある話で。」と笑う。
大学に進学したが、3年生に進級できず除籍。2年間の在学中、田所さんがキャンパスに現れたのは通算で5日。
「バイトに明け暮れていました。当時のマルイシティ新宿でウエイターをしていたんです」。
<大学どころじゃなかったんでしたよね?>というと、田所さんは力強く頷く。
「親も商売をしていたからでしょうね。商売がしたくなって、大学を辞めてとあるラーメン店に就職しました」。

自己破産という選択と、再起と。

「そのラーメン店で修業させていただいて、21歳のときに独立します」。
フランチャイズ店として、居酒屋。商才があったんだろう。バブルの波にも乗り事業は快調に滑り出す。
「ところが、29歳でバブルが弾けて、ラーメンの2号店で躓きました。その一方で、父親が経営していた会社も厳しくなって」。
バブルが弾けると、だれもがとたんに財布の紐をしめた。
「私が経営していた飲食店もそうですし、父親の会社もますます厳しくなって。35歳になるまで厳しい状況が続き、ついに、にっちもさっちもいかなくなり、自己破産を選択するしかなくなりました」。
田所さんは、以前同様、苦しげな表情をする。
「なんとか、FC本部で仕事をさせていただけたおかげで生活はできましたが、制約があって事業は起こせませんでした」。
日々の仕事に地道に向き合った。
「はずかしくて。周囲の目を気にしてしまうほど精神的に追い込まれた時期もありました。あれだけやりたかった商売もやりたくなくなった。でも、事業をする、それ以外の選択肢がなかったのも事実なんです」。
田所さんは自己破産から5年後の話をする。
<再度、ラーメン店でしたよね?>
「いえ、復活の1号店は味噌をメインとした味噌居酒屋だったんです。ところが」。
そういって、もう一度、昔を振り返る。
「ちょうど、うちがオープンしたタイミングで、道路交通法が改正されたんです。簡単にいうと、飲酒運転の取り締まりがむちゃくちゃ厳しくなったんです」。
「しかもね」と田所さん。「うちの店の前で検問が始まったんですよ」と笑う。

盛和塾と再スタートと。

再起をかけてスタートしたが、タイミングが悪く出鼻をくじかれる。
「見事に水をさされました。でも、今思えばそれが幸いして。味噌らーめん店をスタートすることができたんです」。
田所さんは淡々と、話をつづける。
「私の一大転機は、盛和塾に参加させていただいて、あの稲盛さんから指導をいただいたこと。そして、おなじ塾生の人たちに刺激を受けたことだと今でも感謝しています」。
<13年前のインタビューでは、すでに直営5店舗とおっしゃっていました>
「稲盛さんの経営哲学をもとに、今度こそ本当の再スタートです。おかげ様で事業は軌道に乗り、インタビューしてもらったときには直営5店舗、FC45店舗。それ以降も順調に拡大し、今は直営が60店舗、FCが130店舗。当時から海外進出もしていましたが、今はカナダ、アメリカ、ブラジルに店舗をオープンしていて、ベトナムでは製麺所を運営しています」。
「もともとはお店もオープンしていたんですが、コロナ禍にクローズさせていただいて製麺事業だけ残したんです」。
ベトナムでは製麺事業も手がけており、現地のラーメン市場の中で着実に存在感を高めている。「現地でも多くの店舗で当社の麺を使っていただいています」と田所さんは語る。
しかも、ベトナムだけの話ではないようだ。「カナダの大手小売業向けの冷凍麺もつくっているんです」。
話は世界へと広がっていく。卒業と引き換えに25メートルプールを泳いだ、少年の姿はどこにもなかった。


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