2025年7月17日木曜日

7月14日、フードスタジアムに掲載頂きました。

 フードスタジアムに掲載頂きました。

【内側の人たち】連載1,100回を達成した「飲食の戦士たち」を運営する株式会社キイストン 細見 昇市社長スペシャルインタビュー!

ありがとうございます。
キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン



2025年7月15日火曜日

株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

本文より~

曽祖父、祖父、父、そして。

日本の敗戦で、日本と中国は戦勝国と敗戦国の関係になった。今回、ご登場いただいたホイッスル三好の2代目社長、三好さんの曽祖父様が事業を起こしたのは、そういう頃だった。
「初代の曽祖父が来日したのは日中戦争の頃です。床屋からスタートして、日本人女性と結婚します」。
曽祖父、祖父、父。初代の曽祖父から数えると、三好さんで4代目となる。だから三好さんは、「ワンエイス(1/8)」だそう。
「曾祖父が日本に来て年月が流れ、生まれたハーフの祖父は、戦後、千住大橋でラーメン『正華』をオープンします。これは太平洋戦争のあとで、中国は戦勝国でしたから、その特権で、小麦がいくらでも手に入ったそうです」。
-------かなり繁盛したそうですね?----
「ええ。のちに浅草の雷門の近くに5階建のビルをつくり、新たに店をオープンします。祖父は事業家で14軒くらいの飲食店をつくったそうです。日本ではじめて会員制のバーをオープンしたとも聞いています」。
飲食だけではなかった。パチンコ店もオープンし、利益は相当、膨らんだ。「鬼怒川にロイヤルホテルがあったんですが、それも祖父の事業の一つでした」。
少し気になって「鬼怒川ロイヤルホテル」を調べてみると、創業は1962年。創業時の名称は「ホテル正華」だった。ラーメン店とおなじ「正華」。ちなみに、「鬼怒川ロイヤルホテル」となったのは1972年のこと。
祖父は、日本に帰化し、松田と名乗った。
「三好というのは、祖母の姓です。私の父は4人兄弟の3男で、大学を卒業して、祖父が経営する中華料理店に就職します」。
ウエイターからスタートしたお父様だったが、半年で専務に昇格。前回、お父様である三好比呂己氏にインタビューさせていただいたときに、お父様は当時のことを次のように振り返られている。
「父(三好比呂己氏にすれば祖父)が事業家で、私といったらお金持ちのボンボンの典型です。父の中華料理店に就職したときも、次期社長くらいに思っていてね。ところが、入社すると『ウエイターからはじめろ』と言われるんです」。
「ウェイター?」、様子がちかうぞ。

父、三好比呂己の話。

「突き放すようなトーンだったもんですから、あのときは、いくらチャランポランな私でもさすがにまずい、と。だから、心を入れ替えて、がむしゃらにはたらきました。そうこうしているうちに、半年が経ち、父に認められたのか、専務に昇格します」。
「しかし、半年、がむしゃらにはたらいてきたでしょ。そう長くつづきません。当時、鬼怒川のホテル(「ホテル正華」のこと)がオープンして、父はそちらにいたもんですから、私を監視する人がいない。そうこうしているうちに、またいい加減な性格が顔を出して。今度は、ぐうたら専務の出来上がり。専務という立場ですから、そりゃ、まずいですね」。
お父様である三好比呂己氏が25歳の頃の話。
「それから3年経った頃に、祖父がからだを悪くして、専務の父が会社を継承するという話になったそうです」。これは、三好さんの言葉。
「で、社長業なんてできないと悩んでいたときに、あの自己啓発プログラムに出会ったそうです」。
三好さんが「あの」というのはアメリカの教育家ポール・J・マイヤーの提唱した教育プログラム「サクセス・モチベーション・インスティチュート」(SMI)のこと。
のちに、お父様の三好比呂己氏は、SMIの代理店をつくり、7年連続、セールス世界1位を獲得されている。こちらについては、お父様にインタビューさせていただいた前回の記事に詳しく描かれている。2億円の遺産をけり、裸一貫で飛び出されたときの様子も含めて。

167人中、165番目。

「ここまでは、私が生まれる前のお話です」と三好さん。
ちなみに、裸一貫でスタートしたお父様は、SMIプログラムの代理店の権利を獲得し、セールスを開始。のちに「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」を設立。
設立2年目から7年間、世界一を獲得。なんでも世界に3000社の代理店があり、1万人のセールスマンがいるなかでの世界一。快挙である。
「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」の設立は1985年とあった。三好さんが生まれる2年前のこと。
それはともかく、ここからは改めて三好さんの話を始める。
「運動できないし、勉強はもっとできない少年だった」と三好さんは笑う。
「中学2年生の頃ですが、この成績ではどの高校にも進学できないと太鼓判を押されたくらいです(笑)」。
-------社長にもそんなときがあったんですね?-----
「長男がボンクラのままじゃいけないってことで、とにかく、次々と習い事をさせられ、塾にも通います。でも、いっこうに成績は上がりません(笑)」。
------なにか別なことに興味があったとか?-----
「ズバリ、そうなんです。うちの父もそうなんですが、とくに叔父がモーター雑誌で有名な『三栄書房』の創業者で、自身もレーサーで大会で優勝もしたこともあって、何よりあのカーオブザイヤーの審査員長でした」。
ポルシェ911にも、BMWにもよく乗せてもらったという。
「そういう叔父の影響をもろに受けて、車に興味をもち、スポーツができないのに、将来、レーサーになると誓っていたんです」。
レースのテレビゲームに熱中。スポーツはかろうじてサッカーはしたが、勉強はまったくしない。
------レーサーとはかっこいいですね?------
「目標はかっこいいんですが、さっきの中学の話でいうと、生徒数が167人で、私はちゃんと学校にも通っていたんですが、165番目でした。中2になった頃、あまりの成績の悪さに、父が激怒して3人の家庭教師をつけられてしまいます」。

猛特訓の結果は?

1日10時間の猛勉強。「猛特訓」といったほうがいいかもしれない。
「父の昔を知ると、チャランポランな性格をちゃんと受け継いだんだなと笑いたくもなりますが、当時も、今もですが、父は私にとっても偉大な存在です」。
------お父様とお祖父様のような関係ですね?------
「かもしれません、私の人生は、すべて父がレールをひき、その上をトロッコ電車のように走るノロマな存在が、私だったんです」。
サーキットをかけるレーサーとは、だいぶ、異なる生き様だった。
もっとも、10時間の猛特訓は伊達ではない。最終的には英語ではトップ校に合格するレベルだったそうだ。
ただし、高校進学は、三好さんが思い描くようなバラ色ではなかった。

高校1年生。親子の盃?

高校に進学したものの、たのしい高校生活とは無縁だった、と三好さん。
------玉川学園高等部に進学されています------
「ボンボン高校です(笑)。合格が決まり、これで父の呪縛からも解放されたと思ったその日のことです。父が、初めて『オレの事業を、継ぐか、継がないか、どっちだ?』っていうんです。そりゃ、少しは、父の事業にも興味があったのは事実です。しかし、レーサーにチャレンジしてもいない。だって、高校1年生ですよ」。
ちなみに、お父様が「継ぐか」といったのは、世界トップを獲得したダイナミックスパースンズ東京ではなく、のちにオープンした「中国ラーメン揚州商人」を経営するホイッスル三好のこと。
------高校1年生、それはまだ決められないですね------
「でしょ。でも父は迫るわけですよ。最初はレーサーが、ぐるぐる頭のなかをかけまわっていたんですが、だんだんと、そうはいえないような気になって。4代目という響きも悪くない」。
「それで、『継ぐ』といったら、父は『そうか』といって、語り始めるんです。なにか特別な、秘伝みたいなもんだろうかと思っていたら、先代、つまり父が『オレも言われて、その通りにしてきた。先代のいうことは絶対、逆らうな』って。先代が、白といえば、カラスも白だって」。
まるで、親分、子分。
最初の指令が親分のお父様から下りる。
------アルバイトの話ですね?-----
「そうです。『継ぐんだったら、じゃあ、アルバイトだ』と。父の相手、つまり私ですが、まだ、高校生ですよ。父親が高校1年の息子に言いますか? でも、もう、父の命令は絶対です」。
マクドナルド下北沢店9ヵ月、サイゼリヤ浜田山店半年、お父様のお店でもある揚州商人9ヵ月、ポポラマーマは4ヵ月、どうとんぼり神座4ヵ月。合計32ヵ月。単純計算でいうと、高校生活36ヵ月のうち、32ヵ月、バイトしたことになる。
「部活もできないし、勉強もできない。高校から、跡継ぎ修行です」。僧侶の修行のような厳格な、精神修行のようなイメージがある。
------印象に残っているバイトはあるか?------と聞くと、マクドナルドと三好さん。なんでも鉄拳がとんできたという。
「ミスを連発していた私も悪かった。でも、胸ぐらをつかまれてね。その日は、泣きながらバイトです。父に恐る恐る辞めてもいいかと聞くと、『いいよ』って軽く言うんです。いいんだって胸をなで下ろすんですが、そのあと、『だがな、いま逃げ出すか、皆から惜しまれて辞めるか、そのちがいは大きいぞ』っていうんです。ピュアな高校生には、その一言が刺さります。『だよな』って」。
改心して高校生は目覚めたようにシフトを入れまくって、ときには学校まで休んだ。ボンクラが、貴重なプレイヤーになるまで、9ヵ月。
「9ヵ月経った頃、数ヵ月前、私を殴った先輩が猫なで声で『これからも頼むわ!』って言うんです。その一言をきいて、『じゃぁ、辞めさせてもらいます』と(笑)」。
恨みがあったわけではなく、目標を駆け抜けたから。
「もともと父から5ヵ所って数字も指定されていたんです。だから、マクドナルドだけにいるわけにはいかない(笑)」。

高校時代の修行が終了。大学に進学すると、深夜のシフトに入れと、指令が下りる。

「2件目は、サイゼリヤと決めていました、マクドナルドともちがって、こちらも衝撃的でした。すべてが、合理的。歩幅から、からだの向きまですべて理論立て、計算し尽くされています」。
感動した、と三好さん。あまりに感動して、毎日、マニュアルを読んだ。
「そういう一つひとつが、頭に残るんです、学校では、教えられない貴重な体験でした。もちろん、まだ2件目、3件目は、父が経営する揚州商人のオープニングに入れと、初めて父から指定されます。経営者の息子っていうのは、シークレットにして、オープンに参加します。店長だけには、父が言っていたようで、だからでしょうね。周りが驚くほどこっぴどく叱りながら育ててくださいました」。
「効率や、合理性でいうと、マクドナルドやサイゼリヤと比較するまでもありません。ただ、父はSMIプログラムの世界一の経営者です。気合と根性と言えばそれまでですが、店全体がモチベーションにあふれて、お客様へのハートは、マニュアルやシステムとはちがう、強烈なパワーをもっていたように思いますね」。
------そのあとも、ポポラマーマと、どうとんぼり神座、こちらもお父様の指示?------
「いえ、揚州商人以外は、すべて私が決めてはたらきました。神座で修行終了かというと、そうではありませんでした。大学に進んでからは、深夜の仕事ができるようになるでしょ。だから、1年間、揚州商人の深夜の現場ではたらきます」。
------勉強きらいで、チャランポランな三好さんはいったい、どこにいったんでしょうね------
「そうですね。なんだかんだと言って、父親が絶対だったからでしょうね。今思うと、きょうだいは私の下に妹と弟がいるんですが、長男の私に、父も母も何かを掛けていた気がします(笑)。大学2年生になると、『もう現場はいい』といって、ちがった宿題がでてきました」。
------どんなふうな?------
『今度は、これはと思うショップに行き、レポートしろ』って」。
レポートは200店を超えたそう。なかでも印象に残っているのは? と聞くと「モンスーン・カフェ」との回答。グローバルダイニングの名店だ。
「記憶に残っているのは、サービスもそうですが、やはり料理ですね」。
息子がマーケットリサーチに精をだす頃、父親が経営する「揚州商人」は、初めて赤字を計上していた。「私が大学3年の夏かな。父がはじめて弱音を吐くんです。『赤字の原因は、オレの経営ミスだ』って。父は『出店を急ぎすぎた』というのです」。
-----初めてのお父様の弱音、どう受け取られましたか?------

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2025年7月14日月曜日

そういえば「新人類世代」って言われてた気がします。気がする。

 

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2025年7月9日水曜日

株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏登場。

本文より~

スポーツならなんでもできた。中学まではね、と森川さん。

「もともとは三重県津市で生まれて、すぐに父親の転勤があって名古屋に移ります。だから、出身は名古屋って言っているんです」。
今回、ご登場いただいたのは、あの焼肉の名店「大阪焼肉・ホルモン ふたご」の創業者、李 純哲さんと李 純峯さんから社長に抜擢された森川さん。
李さんにもじつは、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。李さんとの出会いは後にして、森川さんの話をつづけよう。
「3歳ちがいの兄が1人。兄は私とちがって堅実な人で、父は逆に仕事を転々とするようなタイプの人で、私は父似というか(笑)」。
小・中学校の頃はスポーツならなんでもできた。野球では花形ポジション。「でも、中学まで」と森川さん。高校の野球部には、野球とただしく向き合ってきた選手たちがいた。
「私はっていうと、練習しなくってもできたもんだから、ちゃんと野球に向き合ってこなかった。だから、ぜんぜん敵わなくて。1年の秋に辞めてしまいます」。
進学したのは、地元の公立高校。
愚問と思いつつ<勉強のほうはどうでした?>と聞くと、予想通り、「ぜんぜん」と笑う。そもそも、なにかに縛られるような人ではない。
「野球部を離れたことで、時間もできて、勉強もしないでしょ。だんだんグレていった」と森川さん。
ボクシングが流行っていた時で、少しだけジムにも通った。16歳から飲食店でアルバイトを開始。こちらは大学までつづけている。
進学したのは、愛知県で偏差値最下位クラスの某大学。「教師になりたかった」ということだった。

リベンジ。

教師になりたいと思ったが、品行方正とはいかない。先輩に誘われ、夜のバイトもした。その店で知り合ったとある社長夫人といっしょに飲食店をオープンした。
「じつは、教師になりたいと、直談判までして入学させてもらった大学だったんですが、2年くらいからはもうぜんぜん行ってなかったですね(笑)」。
----仕事がいそがしかった?----
「そうなんですよね。いっしょに始めた社長夫人がオープンしてすぐいなくなって。私は、保証人にもなっていましたから。とはいっても、1年くらいで3店舗をオープンしたくらいですから、けっこういい感じで。ま、そういう感じにみせていたんですが。だんだんとボロがでて、支払いのサイクルが崩れちゃって」。
「結果、1000万円の借金ができてしまった」と笑う。<たいへんでしたね>というと、「そう、だからまた夜の世界にもどってね」と森川さんは苦笑する。
----借金はどうされたんですか?----
「それが、1年で、返済できて」。
----そいつは、すごいですね? たしかに大学どころじゃないですね----
「でしょ。もう、むちゃくちゃな大学生です。でも、いい経験にはなったし、飲食は楽しくて、あの時、もう一度、チャレンジしてやろうと誓ったんです」。
当時、森川さんは、プライドが高くナルシストだったという。だから、リベンジ。それ以外は頭になかった。

そして、李兄弟の名前が、挙がった。

インターンの最中に、大学を辞め、ある会社に入社する。
「東京にでてきたのも、その時です。とにかく、飲食店をやろうと頭は、ぐるぐると、そればかりです。でも、一回、失敗しているでしょ。だから、お手本さがしのために開業支援の会社に就職するんです」。
森川さんは、開業支援のなかで不動産を専門に手がけることになる。営業成績は、創業のメンバー以外ではつねにトップだった。
その仕事を通じて、出会ったお手本の方々の話も聞いた。つぎつぎと有名店の社長の名が挙がる。そして、最後に李さんの名が挙がった。
「関西弁でね。とにかくパワーがあってね。ご存知のように李は、ふたごでしょ。でも、私は知らなかった。最初にお兄さんと名刺を交換して、しばらくして、また、名刺をだしてくるから、ちょっといかれてるんじゃないかって思うんですが、名刺をだしてくる李の向こうに、もう1人の李がいて。えーーーーって」。
ニコニコと名刺をだす李さんの向こうで、もう1人の李さんがおなじようにニコニコしていた。のちに最強のコンビとなる、李兄弟。
だがこのときはまだ、ただの関西弁のにいちゃん2人だった。

フランチャイズでいい。俺にも「ふたご」をさせてくれ。

李さん兄弟は、兄が先に炭火焼肉トラジに就職する。23歳で入社。すぐに頭角を現し、店長、スーパーバイザーと駆け上がり、27歳でトラジの子会社代表に就任している。
その1年前に弟の李さんも入社。飲食の世界で、コンビ、結成となる。余談だが、李さん兄弟の実家には、トロフィーが山のように飾られている。
すべて、小学生時代のもの。兄弟はサッカーがうまく、大阪では、最強コンビとうたわれていた。兄の李さんの右足は、「1億円の右足」と言われたそう。「中学からブラジルへ」という育成計画も立てられていたそうだ。詳細は、やはり前回の飲食の戦士たちをご覧いただくことにしよう。
ともかく、話のつづき。
「私が李兄弟と出会ったのは、彼らが30歳で、私が27歳のときです。私は開業支援の一つとして、彼らに物件を紹介します。ただ、今だからいうんですが、もう少し安くしてあげればよかった。当時は彼らのことも知らず、やたらしゃべるのがうまい関西人くらいに思っていましたから」。
-----面白いだけじゃないですよね?-----
「ええ、もうはじめから彼らには度肝を抜かれます(笑)」。
「大阪焼肉・ホルモン ふたご」オープンの秘話。はじめて聞く話だ。
「とにかく、契約も済み、オープンもちかづいてきます。さて、どうなるかくらいにみていたんですが、オープンの前日だったかな、行ってみたらテーブルもなにもないんです。なんで?こっちの頭が真っ白です。李にどうしたんだ?っていうと、笑いながら、『お金がなくなってしもてん』っていうんです」。
お金がない。でも、テーブルがないと、オープンもできない。でも、お金がない。そうこうしていると、「李さんのお兄さんが茨城から冷蔵庫もってきて、どこからかベニヤを運んできて」と森川さん。
突貫工事で、その日のうちにテーブルと椅子ができた。「テーブルはもうぐらぐらです。これじゃ、あかんわ、と、オープン日にも顔をだすんですが。想像とは異なる別世界。喧騒と、雑然とした、それでいて、お客様すべてが笑っている、そんな世界が広がっていたんです」。
たまげた森川さんは、李兄弟に頭を下げる。「フランチャイズでいい。俺にもふたごをさせてくれ」と。

アクセルとブレーキと、ハンドルと。

はみ出るカルビ、李兄弟の強烈なキャラ、鶴橋仕込みの焼肉。TVも放っておかなかった。森川さんは、すでに述べた通り、フランチャイズをさせてくれと入社している。だが、李兄弟のキャラが森川さんを魅了する。
「2010年5月、五反田にオープンします。これが創業店。翌年7月に中目黒。私はその年の11月にアルバイト入社して、3ヵ月後、新たにオープンした中目黒別館で店長を務めます。その頃ですね。TVでオンエアされて、それから年間10店舗のペースでオープンしていきます」。
-----まじかでみていて李兄弟はどんな存在ですか?-----
「そりゃ、あのキャラですからね。ケンカもします。昔から私もまじって口喧嘩なんてしょっちゅうです。でも、そういうのが、ふたりの、そして私のエネルギーになっていた気もします。彼らをみていると、天才とバカは紙一重って、ほんとそうだよなって思うんですよね(笑)。とにかく、まず行動ありきなんです。アメリカって口にしたなと思ったら、すぐにアメリカで店をオープンしますからね。どうでもいいことですが、今彼らは、年の半分はドバイで暮らしています(笑)」。
確かに行動力は、すごい。
「でも、それだけじゃないんです。テーブルの配置も数センチ単位で調整しますからね。とても繊細です。そのくせ経営には関心がないっていうか、兄は、いちおうブレーキももっていますが、弟はアクセルだけです」。
だからといって、身勝手な2人ではない。利他の精神もあるんだとか。想像しただけでユニークなタレント像が頭に浮かぶ。12年前に取材したときよりも、深く、李さんに接した気がした。彼らを友のように思う、森川さんから聞くからだろうか。

・・・続き

株式会社FTG Company 代表取締役社長 森川 誠氏

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2025年7月7日月曜日

「わが社の居酒屋は8坪、月商1200万円、その秘訣を教えます」、KIWAMIの阿波耕平氏の書籍が完成しました。

 キイストン出版、2025年第2弾の書籍「わが社の居酒屋は8坪、月商1200万円、その秘訣を教えます」/KIWAMIの阿波耕平社長(現在39歳)が完成しました。

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2025年7月1日火曜日

有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏登場。

本文より~

少年、西川洋右くん。

唐突だが、忍者の里は2つある。甲賀と伊賀だ。今回、ご登場いただいた野村興業3代目の西川洋右さんは、後者の伊賀。ただしくは三重県名張市に生まれている。
名張市は近鉄電車で大阪にも1時間。忍者の里は意外にアクセスが良好。西川さんによれば、奈良県までは歩いて行ける距離だそう。ウィキペディアで調べてみると「大阪のベッドタウン」とあった。
実際、西川さんも生まれは大阪。小さな頃に名張市に移った。お父様は大阪の八尾市にあるシャープに勤務されていたという。
電車で1本。1時間程度なら十分、通勤圏内。西川さんは3人きょうだいの末っ子。兄と姉がいる。
子どもたちにとって、自然豊かな忍者の里は楽しさに満ちていたに違いないと思っていたが、西川さんの話をきくと、イメージはだいぶ違った。
「とにかく引っ込み思案だった」と西川さん。
なんでも、やさしい兄に寝かしつけられ、姉のあとにくっついて歩く少年だったそう。
どんな少年だったのか、もう少し話をきいてみた。
「小学校では剣道を習っていました。母が坂本龍馬好きだったんです。特技はなく、これといったエピソードもありません。ただ、そうですね。掛け算をマスターするのがクラスでいちばん早かったくらいかな。あ、そう、それに演劇で、ウケた。これで、ちょっと自信がついたかな」。
<それも、小学生時代の話ですか?>
「そう。中学は卓球部。最初はまじめだったんですが、先輩とゴタゴタしているうちに、だんだん距離を置くようになりました(笑)」。
高校でも西川さんは、そのまま。兄姉とおなじ高校に進学し、おなじようにテニス部に入部している。
「高校まで、私自身の意思で何かをした記憶はありません。すべて流れに従って生きていたような」。
ただ一つ、小さなエピソードがあった。
「ある日、好きな子に告白したんです」と西川さん。
<どうなりました?>と聞くと、西川さんは、照れ笑いする。
初めての彼女。2人の初々しく、微笑ましい様子が頭に浮かんだ。

カナダへの留学と、西川青年と。

「天理教ではなかった」と断ったうえで、「天理大学に進学した」と西川さん。なんでも進学する頃、仏教に興味があったそうだ。天理大学は西川さんが歩いていけるくらいと言った奈良県にある。
「奈良はすぐですが、大学までは車で1時間くらい」と西川さん。
高校を卒業して、きょうだいは別々の道を進む。
「兄は福祉系の専門学校へ。姉は京都の芸大へ。そして私はちかくの、天理大学。やっぱり冒険心がないのかな(笑)」。
<でもこのあと、カナダへ。大胆な冒険のはじまりですね?>
「そうですね。2年の春に1ヵ月、短期留学します。高校からいっしょで、当時から憧れていた先輩がカナダに留学して、彼女から土産話を聞いているうちに行ってみたくなったんです」。
もちろん、簡単に行ける距離じゃない。世界地図でみると、かなり遠い。西川さんが留学したという「レジャイナ大学」は、中西部サスカチュワン州の州都レジャイナにあった。
西川さんによると、「ロッキー山脈から吹き下ろしがあり、マイナス40度になる」そうだ。
そのカナダでの話。
「カナダには1ヵ月、ホームステイをして。じつは、帰国して1年、バイトをしまくって、150万円ためて、1年休学して、今度は1年間、おなじレジャイナ大学に留学します」。
短期留学のときとは異なり、ともだちもできる。「韓国人の彼女もできた」と西川さん。その彼女とおなじシェアハウスに住んでいた青年が、つぎの運命をひらくことになる。
「彼がね、思いがけない話をもってくるんです」。
<どんな話ですか?>
「『ケニアに行かないか?』って(笑)」。

キリンとライオンと、ナイロビの4年間。

<ケニア?> 話をきいて、ふたたび世界地図を広げた。なんでも、内定を辞退し、大学卒業と同時にケニアに渡ったそうだ。
「彼の父親がケニアのナイロビを中心に活動するNPO法人の代表だったんです」。
法人の活動は、「微生物をつかって、スラム街を、」うんぬんというむずかしい話だった。
「日本での就職を辞め、ケニアに渡ったのは、私自身のアイデンティティが『海外』にあると思ったからなんです」。
しかし、今度も、遠い。
ナイロビは、アフリカ大陸の中央にある。赤道近くだが、「標高が高く、日本でいうと軽井沢のよう」と西川さん。クリスマスになると、欧米人が保養のためやってくるそうだ。
「もともとイギリス植民地でした。だから、ヨーロッパ建築の建物が少なくありません。市内には、有名なナイロビ国立公園があって、キリンやライオンが住んでいます」。
「飼われている」ではなく、「住んでいる」という言葉で、広くはてしないサファリと、そのなかで暮らす動物たちの様子が浮かんでくる。
ちなみに、ウィキペディアによると、ナイロビは、マサイ語で「冷たい水の場所」という意味らしい。むろん、ケニアの経済の中心地でもある。だが、中心部でも、治安はいいわけではない。むしろ、その逆。
「私も、何度か財布をすられて、そう、空き巣にも2回入られました。でもね。部屋に取るものなんてない。暮らしては行けましたが、給料だって5万円でしたからね」。
何もなかったからだろう。
「空き巣が取っていったのは、冷蔵庫にあるバナナだけだった」と、こちらを笑わせてくれる。
結局、西川さんは、このケニアには4年いることになる。その間、1人の日本人女性と知り合っている。その女性が今の奥様。奥様もおなじNPO法人で勤務されていたらしい。
ケニアで日本人の男女が出会う。奇跡的な出会いだが、ぎゃくにいうと、だから仲が急速に深まったのではないだろうか。
「彼女は私より1年早く帰国するんですが、最初は『ケニアでいっしょに暮らそう』と話していたんです。ただ、NPOの団体内部がゴタゴタして、彼女との間でも色々あって、私もケニアを離れて、帰国しました」。
帰国した西川さんは、日本の設計関連の会社に就職する。
<4年ぶりの日本はどうでしたか?>
「ぜんぜんちがいますよね。ケニアの道は、舗装もされていない赤土でしょ。治安もまったくちがう。向こうはさすがに怖かったです。ただ、周りには世界中の人がいて、私も世界のなかの1人でした」。
「自分の肌の色を忘れた」と西川さん。
「でも、日本にもどると、やはり、日本人ということを意識せざるをえなくなった気がします」。
貴重な経験は、カバンにしまい、就職したのは、海外とは縁のない会社だった。
「向こうで頑張ってきたと思っていたんですが、時間軸とか色々と違うところがあったからでしょうか」。
「なかなか思うように結果がでなかった」という。
「そういうときにお義父さんから、『一度、真剣に考えてくれないか』って、声をかけていただくんです」。
<跡取りの話ですね?>
「そうです。妻は5人姉妹の長女でしたから。つよく勧められたわけではいですが、お店をたたみたくないという義父の思いが伝わってきました」。

・・・続き

有限会社野村興業 代表取締役 西川洋右氏

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2025年6月24日火曜日

株式会社大地 代表取締役 松岡 純氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社大地 代表取締役 松岡 純氏登場。

本文より~

少年、松岡さんが、大人になるまでの話。

ホームページを開くとコハダだろうか、鮨をにぎるシーンが現れる。次に現れるのは、鶏を焼くシーンだ。この2枚の絵で心をつかまれた。
鮨と焼鳥、意外なコラボのようだが、案外相性はいいかもしれないなと思いつつ、その絵を思い浮かべながらお話をうかがった。
今回ご登場いただいたのは「寿司と焼き鳥 大地 」を運営する株式会社大地の代表、松岡さん。1984年生まれだから、インタビュー時の2025年で41歳になる。
経営する店舗は、国内では「寿司と焼き鳥 大地 」のほか、合計9店舗。海外ではベトナムのハノイに2025年3月、海外1号店をオープン。「客単価5,000円と日本国内より高めだが、好評だ」と、相好を崩す。
代表の松岡さんが生まれたのは、東京の荒川区。お父様は、お祖父様の代から続く内装業を営み、最盛期には従業員も15人を数えたそう。
「父と遊んだ記憶はほとんどないですね。連れて行ってもらった外食が数少ない思い出。母は、父の仕事をサポートしていました。母と一緒に料理をした記憶がありますね」。
スポーツに打ち込むわけではなく、なにかにハマることもなかったそう。
「小学生の高学年になった頃には、父の影響でしょうか。社長になりたいと漠然と思っていた気がします」。
大人しい少年像を想像していたが、そのイメージを覆すように「中学から高校までは、荒れていた」と松岡さんは笑う。
高校までといったが、高校には1回行っただけで、2ヵ月で中退。なにもすることなく、ブラブラしていた。お父様の会社に入り、サポートしたこともある。
「18歳のときです。2年近くブラブラしていたんで、さすがにまずいなと思って、父の会社の手伝いを始めます」。
ただ、1年しか続かなかった。「跡取り」という空気がイヤで、お父様の下を離れ、ふたたびフリーター生活を開始する。
5年間、アルバイトを転々とする生活だった。同年代は大学を卒業して、無事社会へ。「周りとのギャップに焦り始めるのがこの頃です(笑)」。

ほろ苦いデビュー戦。

「飲食世界に入ったのは、25歳です。父の仕事を見ていたでしょ。内装業はお客様が限られていて物足りないな、と。飲食はちがう。お客様が入れ替わり、つねに新鮮な気持ちで仕事に取り組めると思ったんです」。
バイクショップの社長に相談すると、メキシコ料理店を紹介してくれた。
「上野、神保町、新宿にメキシコ料理店を経営されている会社でした。短期間でマネージャーまで昇格させていただくんですが、28歳の時、独立の道を選択します」。
オープンしたのは、同店のフランチャイズ。のれん分けだったという。
「渋谷のセンター街の裏手です」。
<どうでしたか?>と質問すると、「苦戦の連続」と苦笑いする。
12坪、36席、家賃は40万円。「宣伝広告費が50万円くらいかかった」という。
「ロケーション的には問題はなかったんです。ただ、私がマネージャーとなって指揮していた新宿や神保町とは勝手がちがいました」。
違いは2つあった。
「一つは、新宿と比べてアルバイトが全然採用できなかったことと、宣伝コストがかさんだこと。もう一つは客層のちがいです。新宿や神保町とちがって、渋谷は学生の街だった」。
「ちゃんとリサーチしてなかった」と松岡さん。
客単価3,500円。サラリーマンをターゲットにした価格帯だった。「でも、そのサラリーマンがいない(笑)」。
「月商300万円。赤字とはなりませんでしたが、ギリギリでした。低空飛行が続き、つぶれると思ったとき、妹があるお店を紹介してくれたんです」。
どれくらい経ったときですか?
「8ヵ月、くらいでしょうか?」。
どんなお店でした?
「似たようなスタイルだったんですが、うちとはちがって、学生さんが多かったです。フランチャイズでしたが、そのままではつぶれるだけ。聖域だった料理まで見直します」。
食材から見直し、フードも、ドリンクも刷新した。何より、うるさいと注意していた学生たちを歓迎した。
「客単価が下がりますが、学生さんたちは、4人テーブル、2つに10人でも気にすることなく座り、わいわい騒ぎます。だから、単価が下がったぶんを数でカバーできます」。
大人のテイストを捨て去った。
「おかげで、業績は急上昇して、潰れないですみましたが、ブランド価値という意味ではどうだったんでしょうか?」。
ほろ苦いデビュー戦となった。

メキシカン→串カツ!

「渋谷をオープンして4年後の2016年。今度は、上野のFC店を買い取ります。業績は落ち込んでいましたが、上野店が直営だった頃に私もいたんで、だいたい経営手段もわかっていたんです。というか、そう思い込んでいたんです」。
「4年で変わっていた」と松岡さん。
「再開発で人流が変わってしまっていたんです。それ以外にも、グルメサイトの宣伝効果も薄れてしまっていました」。
4年前と比較し、家賃が20万円上がったことも響いた。「赤字と黒字のプラス・マイナスでいうと、ちょいマイナスでした」。
上野で苦戦するなかで、松岡さんは地元の荒川区に念願のオリジナルブランドをオープンする。
「当時、串カツが流行っていて、串カツだったら料理人じゃない私でもできるだろうという安易な発想でスタートします」。
YouTubeで串カツの作り方を観て勉強したそうだ。いかにも、今流。
「料理の問題以上にメキシコ料理店は基本アルバイトで運営するようなスタイルだったもんですから、社員をどう動かせばいいかわからなかったんです。だから…」と松岡さん。
だから、串カツ。アルバイトだけでもなんとかなる。
ただ、逆になんともならないことがあった。「渋谷、上野、荒川となると管理ができなくなっちゃったんです。あの時がある意味、いちばん大変だったかな」。
空中分解してしまうと思った松岡さんは、ちょいマイナスだった上野をクローズすることにする。
「管理をスリムにするのが至上命題だったんです。ただ、スリムにはなったんですが、オリジナルブランドの新店も赤字と黒字を行ったり来たりで。そうこうしているうちに、渋谷店の業績が下がり始めます」。
「こちらは構造的な問題」と松岡さん。なんでも本格的なメキシカンが流行りだしたそう。
「うちのはメキシカンといってもアルバイトでもできるような料理でしたから」。
おなじカテゴリーでは太刀打ちできないという意味。新店がふるわないなか、頼りの渋谷店も業績悪化。
「あのとき、和食職人と出会っていなかったらどうなっていたんでしょう」。
松岡さんは人生最大のターニングポイントを語りだす。

・・・続き

株式会社大地 代表取締役 松岡 純氏

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2025年6月18日水曜日

エレガントエース株式会社 代表取締役 張 瀟俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”エレガントエース株式会社 代表取締役 張 瀟俊氏登場。

本文より~

中学生、海を渡り、ゲームの国へ。

張さんは、1988年12月22日、上海に生まれる。39歳で単身来日した料理人の父は、新宿の中華料理店で仕事を始め、のちに共同経営を開始。来日して2年後に、妻と1人息子を招き、移住を決意する。息子である張さんが中学に上がるタイミングだった。
張さんは、クラスで唯一「ゲームボーイ」をもっていたが、日本に特別な印象はもっていなかった。
「中国でも、日本のアニメは放映されています。だからコナンとか、北斗の拳とか、ドラゴンボールとかは好きでした。当時、日本のことはアニメとゲームの国だって思っていた気がします(笑)」。
ゲームとアニメが、少年の中の日本だった。
ところで、張さんが生まれた1980年代の中国は、「一人っ子政策」が敷かれていた。正確には、1979年~2015年まで敷かれている。
「私も、当然ですが、一人息子です。だからと言って、甘やかされたわけじゃなく、忙しい父母にかわって、中国ではよくあることですが、祖父母に育てられました。父や母ですか? とりわけ、こわいとか、怒られたって記憶はない。ルールは大事にしないと怒られましたが、『勉強しろ』と言われたこともないんじゃないかな」。
張さんの祖父は、有名なホテルのシェフ。だから、親戚筋にも料理人が多い。父親もその1人。
「両親はいま、上海に戻って暮らしていますが、私は日本で結婚もしたし、友達も日本人ばかりだから、中国に戻る気はありません」。
来日して、24年。中国で暮らした時間の、およそ2倍にあたる長い時間を日本で過ごしている。
「来日したときにはもちろん、日本語はわからないし、喋れません」。共通語があるとすれば、アニメとゲーム。それでも、普通に通学を開始する。
「来日して通ったのは日本語を勉強する学校ではなく、普通の中学校です(笑)。乱暴な話ですが、じつは、そのおかげで、発音も、ほぼ日本人とかわらないんです」。
「中国人からヘンな日本語を聞かされなかったから、日本人とかわらない発音ができるのだ」と張さんはいう。ともかく、ゲームの国は、ゲーム以外にもなかなか刺激的だった。

「やべぇやつが来た」。中学校の話のつづき。

「同じクラスの生徒は、私が日本語を喋れないし、分からないのは知っていました。年齢も違って、私が一つ上。中国と日本では、卒業月が違うのでそうなってしまったんです」。
中国から来た少年は、奇異な目でみられたにちがいない。ただし、それで萎縮するような少年でもなかった。
「こっちをみてなにか言いながら笑ってる子がいたとするでしょ。何を言っているかわからないから、そのぶん、腹が立つ。そいつの胸ぐらをつかんで、中国語で『うるせぇ』って」。
「やべぇやつが来た」とうわさになる。
「やべぇやつ」の話を、もう一つ。
張さんは、中学で卓球部に入部した。
さすが卓球王国からの使者である。先輩を含め、だれも相手にならなかった。「ラリーがまったくつづかなかった」と張さんは笑う。
<それでどうしました?>と聞くと、「ラリーがつづかないとつまらないでしょ。だから、おなじラケット競技のテニスに転向しました」との回答。
初めてのテニスにウキウキしてコートに現れた張さんだったが、手に持っていたラケットの大きさがみんなとちがっていた。
「中国はみんな硬式なんです。だから、父に『ラケットが欲しい』というと、硬式用を買ってきてくれたんです。私も、硬式用でいいと思い込んでいたもんですから」。
先生がなんだかんだと言ってきた。張さんは、意味がわからないまま、それに答える。こちらも通じない。
「結局、一人、硬式用のでっかいラケットで練習をするようになるんですが、なんだかなって。それで、今度はバスケットボール部に転部します。中国でもバスケは人気のスポーツの一つなんです」。
バスケは、高校までつづけている。
<ところで>と、心配になったことを聞いてみた。
<勉強っていうか、テストは?>
すると意外な答えが返ってきた。
「私も、来日してはじめて知ったんですが、教育レベルでいうと中国のほうが進んでいるそうなんです。実際、私も数学と英語は満点でした。言葉も、歴史もわからないんで社会と国語は苦手でしたが(笑)」。
社会と国語は、今一つだったが、難しい数学と英語が、満点。
「あいつは、できる」。
「やばいやつ」から「できるやつ」に昇格する。2年生になった頃には、日本語も会話ができるレベルになっていた。
「父も母も、中国のネットワークのなかで生活していましたから家では、中国語です」。
<そして、学校では日本語>
「そうです。私のまわりには、ヘンな中国語をつかう人も、ヘンな日本語をつかう人もいなかった。そのおかげで、日本人とかわらない発音になったと、私はそう思っています」。

早稲田は、カベたかし。

テニスのラケットの話ではないが、きっと文化の違いもあったに違いない。
「そういう違いは、日本人が私に合わせてくれたんじゃないですか。なにしろ基本『やばいやつ』ですからね(笑)」。
張さんは都立高校に進み、バスケットボールをつづける。高校に進む頃になると、日本語もなんなく操れるようになっていた。
「アルバイトにも支障がなかったので、学業の傍らで色々、バイトもしました」と張さん。ただし、アルバイトに励みすぎたんだろうか。大学受験に1度、失敗する。
「浪人して、深夜のコンビニバイトを始めます。それまで社会経験といっても、だいたいは学校での経験です。ただ、このバイトで知り合った年上のフリーターに、渋谷のクラブに連れてってもらって。あれが私にとっては初の社会経験だった気がします」。
バイトだけじゃない。勉強もした。今度は、合格圏内。
「早稲田大学の理系をめざしていました。でも力及ばずか、運が悪かったのか、2年目もダメでした。3年目はなんとしても避けたい(笑)。だから、もう絶対、合格ができて、都内にキャンパスのあるという基準で、拓殖大学を受験しました」。
もちろん合格。ただし、一つ想定が外れた。
「都内のキャンパスで、キャンパスライフを楽しむ予定だったんですが、4年間、東京の端っこにある、高尾キャンパスから離れられなかったんです(笑)」。
東京の片隅といっても、すでに日本人とかわらない青年は、日本人の友と笑い、有意義なキャンパスライフを送った。
もちろん、キャンパス外でも、青春の時間が流れる。
「大学でももちろん、バイトは色々。キャバレーでボーイもしたし、バルや居酒屋でも、じつをいうと、そのうちの一つが起業につながります」。
どういうことだろう?

ススメ、独立へ。

就職活動は、大学3年生くらいからスタートする。解禁日は、当時、3年生の12月くらいだった記憶があるが、そのときになっても張さんは就活をすることなく、逆に時間があるからとバイトに精をだした。
「就職は、最初から頭になかったんです。私は、おべっかも使えないし、人に好かれたいとも思わない、たしかにやべぇやつなんです。軋轢だって平気だから、言いたいことはズバリいう。そういう性格ですから、昔からサラリーマンとは縁がないと、自分で決めつけていたんです」。
<それで、バイト三昧? その頃にはもう、独立志向はあったんですよね?>
「父親も経営者でしたから、小さな頃から社長になるっていうのは、頭のなかにあったと思うんです。でも、じゃあ、何をするのかっていうのがハッキリしていなかった。『何をしようか』が『これをしよう』となったのは、大学時代、バイトを通して、見えてきたことの一つでした」。
張さんがいうアルバイトとは、大箱の飲食店でやっていた、ホールスタッフのアルバイトのこと。
張さんはバイトリーダーとなり、同年代のスタッフから頼られ、上司や社長からは高く評価された。スタッフのマネジメントも、経営にかかわるコスト管理なども行っていたそうだ。
その経験を経て、「これをしよう」がかたまる。
つまり、「飲食で独立」。ススメ、独立へ。
卒業と同時に、友人と2人で、バイトをしていたお店を業務委託で運営することになる。
そして、大学を卒業した2年後、張さんの野望がかたちになる。
「会社設立は2016年。今は、川崎で店をオープンしていますが、業務委託の時にお金を出し合った友人と2人で新しいお店をオープンします。このとき設立したのが、エレガントエース株式会社です」。
すでに記載したが、張さんは、来日時と、大学進学時に1年ずつ遅れている。<すごいですね>というと、「大学卒業と言っても、もう24歳でしたからね」と、謙遜なのか、言葉のトーンを下げる。
理系出身のロジカルな思考、旺盛な好奇心。
食に関しては、料理人の祖父、父をもつサラブレッド。ともかく、独立のゴールテープを切る。
ただ、問題はここからだ。
どうなっていくんだろう?
しかもすぐにコロナ禍が始まる。

見て、盗んで、分析する。

会社を設立して以来、張さんは、旺盛な好奇心をかたちにするように、異なったブランドの飲食店を次々とオープンする。経営スタイルはピュアでシンプル。
「すべて、私のコントロールできるところに置く。私ができないことはしない。人にこびるタイプじゃないから、教えてなんて言わない。昔の職人さんじゃないですが、みて盗むのが私のスタンスでした」。
だから、盗むことはもちろん、みることに長けている。
「うちの父親もそうなんです。最初のお店をずっと経営していて、カウンター8席とテーブル席だけだったですが、月商800万円。かなりいい業績です。だから、そのままつづけていればよかったんですが、大きな店をオープンして失敗しました。経営者と言っても、父は職人なんで、マーケティングも、経営もできていなかったんです」。
父だけではない。失敗するオーナーたちを鋭くウオッチした。
「その原因を分析することで、失敗の確率が減ります。ロジカルな話だけじゃない。だいたいの人はうまくいくと、初心を忘れてしまう。たいてい、それで失敗します(笑)」。
たしかに。ただ、その初心とはなにか。どこまで、純度を高めて、心の奥に止めおくことができるのか。これこそ、人の生き様によるのだろう。
その観点から改めて、張さんの今の事業についてうかがった。今、ブランド化をめざす「鳥居くぐり」の話だ。

・・・続き

エレガントエース株式会社 代表取締役 張 瀟俊氏

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2025年6月12日木曜日

雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏登場。

本文より~

自己啓発セミナーでの学びは「ポジティブに生きること」。

「僕は『世の中のすべてのことは大したことじゃない』って思ってるんですよ」。
豪快に語るのは土屋大雅氏(38歳)。年商約80億円、沼津を中心にグルメ、カラオケなどを展開するエンターテイメント企業、雄大株式会社の二代目社長だ。「大変なことなんてないですよ」「二代目でラッキーだったと思っている」とインタビューでも常に前向きで、その主張には一点の曇りもない。
「いろんな自己啓発セミナーに参加したんですよ。行かされたもの、自分から参加したものといろいろありますが、どのセミナーも行きつくところは『ポジティブに生きろ』ってことだなと。じゃあ自分の人生もそうしようって。はっはっは」。
2018年に社長に就任して以来、飲食業をはじめ様々な企業相手に次々とM&Aを仕掛けていく手腕は見事なものだ。幼いころからさぞや英才教育を受けてきたのだろうと思ったら、意外なストーリーが飛び出してきた。

“売り言葉に買い言葉”で、中卒に。

まずは家庭環境を見てみよう。土屋氏の父である雄二郎氏は、若くして家業の旅館を継承。息子誕生の約半年前、併せて雄大株式会社の前身となる株式会社ユーダイを設立した。もともと商売の才覚があったのだろう、節電機器の開発・販売を皮切りに、携帯電話の販売や飲食店のFCなど幅広く展開。母が事業を手伝っていたこともあり、両親とも不在がちで親にかまってもらった記憶はほとんどないという。
自由奔放な環境で育ったせいか、中学時代の土屋氏は勉強せず遊び放題だった。ヤンキーと称されるほどの“ワル”ではなかったものの、授業を妨害したり提出物を無視したりと、その素行から学校では問題児として扱われていた。ある日両親が担任に呼び出され、父の堪忍袋の緒が切れる。
「お前みたいな奴に(将来の)可能性なんてねぇ!(だから高校の)学費なんか払いたくねぇ!」
「じゃあ、こっちもいかねえ!」 こうして高校進学を拒否した土屋氏は、周囲の反対を押し切り進路未定のまま中学を卒業した。

大検合格、高校は行かずに大学、そして大学院へ。

― それで中卒ということですが……でも最終学歴は早稲田の大学院卒なんですよね?いったいどうやって? ―
「大検(旧・大学入学資格検定)に受かったんですよ。で、大学時代に簿記一級を取りました。それで早稲田の大学院に進んだんです」。
中学を卒業し、アルバイト生活を始めたものの、徐々にその状態が嫌になっていった。友達とも話が合わないし、やはり中卒では誰も相手にしてくれない。やっぱり学歴がないとダメだ。中卒で大学に行くには大検に受かるしかない。
中学を卒業した翌年、すなわち本来なら高1時代の冬に土屋氏は大検に挑戦。見事合格し、大学入試に向け東京の予備校に通うこととなった。
「でも、当時の僕にとってはちょっと辛かったですね」。
勉強が難しくて辛かったのではない。土屋氏にはその環境が煩わしかったのだ。高校に通ったことのない少年向けのカリキュラムを擁す大検コースなど、当時の予備校には存在しなかった。ましてや予備校の同級生は全員浪人生。話題がかみ合わないだけでなく、年齢を聞かれるたびに「え?なんで?」と質問される。これは相当面倒くさい状況だったに違いない。
東京の大学に合格してからの土屋氏は、授業とアルバイトの両立で大学生活を謳歌する傍ら、公的資格の取得にも注力していった。
「当時はストックオプションの税制改正前で、報酬をもらう側の税率は2割で済むいい時代だったんです。これで40代くらいで数億円手に入れて、何もしないで遊んで暮らそうって。そのためには税理士になって、上場予定のある適当な企業に入ったらいいなって。はっはっは」。
在学中、難関とされる簿記一級に合格した土屋氏は、税理士になるべく早稲田大学大学院を目指した。疎遠だった雄二郎氏も、難関校の大学院に進みたいという息子を前に、学費や生活費を惜しみなく支援するようになっていった。

「入社させてください」「じゃ、5年後に社長な」

2年間の大学院在籍中、税理士資格に必要な会計学・税法のうち4科目に合格した土屋氏は、卒業後会計事務所に入社。最後の1科目をクリアすべく日々の業務に邁進する中、ある日突然「お父さんが倒れた」との連絡が。
検査入院の結果、肺に水が溜まっているという。豪胆でカリスマ性を備える雄二郎氏だが、子供のころは身体が弱く結核を患ったことがあった。また、50代半ばに癌で他界した祖父と現在同じ年齢であり、本人も以前から「俺は60歳まで生きられない」と口癖のように言っていた。そんな背景から父の肺がんを予見し、土屋氏は大きな決断を下した。
「父が死ぬかもと思った時、いろいろ考えました。一般の家族として過ごした時間は少なかったけど、学校にも行かせてもらったし、いろんなことをさせてもらった。それは親のおかげだってね。だから会社に戻れば一緒に過ごす時間も増えるし、一緒にできることも増えるんじゃないかと」。
「(僕が戻ってきたことを)オヤジは喜んでくれましたよ。で、サシで飲みに行った時に『会社に入社させてください』って頭を下げたんです。そしたら『じゃ、5年後に社長な』って」。
2014年、土屋氏が経営管理室長として入社したその日に、雄二郎氏は社員の前でこう言い放った。
「こいつはたぶん5年くらいで社長になる。これは決定事項だから、気に食わないヤツは辞めてくれ」。
飲食業未経験の二代目が入社した場合、内部から反発が出ることは少なくない。しかしこの鶴の一声が社員の結束を促し、分裂を防いだ。自らの体調を気遣いつつ、税理士の夢を捨てて戻ってきてくれた息子に贈る最大級の支援だった。

・・・続き

雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏

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