『時速200kmの世界から、ゴキブリ駆除の日本一へ。 「3K仕事を誇り高い仕事に変える」 元レーサー社長の挑戦! 』クリーンライフの創業者大野宗社長の物語、Amazonに昨日発注し本日手元に届きました。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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“飲食の戦士たち”でBONDZ株式会社 代表取締役社長 関川光之祐氏登場を取り上げました。
お父様は、秋篠宮家の専属料理人だった。お父様は、息子の関川さんをしばしば職場に連れて行った。
「母も宮内庁に勤めていた縁で、二人は結婚。2人の間に生まれたのが私で、じつは眞子さんや佳子さんといっしょに宮内庁のなかを走り回ったりしました」。
今回のインタビューはそんな話からスタートした。
改めて、今回、ご登場いただいた関川さんを紹介すると、現在、BONDZ株式会社の代表を務めておられる。1987年8月31日生まれ。
「祖父は染め物職人。神楽坂でお店を経営していました。父は料亭で修行したあと、調理師会の推薦で宮内庁に勤めます」。
園遊会のお料理も担当されたそう。
祖父も、父も、プロフェッショナル。プロの職人の背中をみて関川さんは育った。
「もう入れませんが、小学校のときには宿題の『お父さんの仕事のレポート』を書くために、宮内庁にも、赤坂御所にも行って。今思うとむちゃくちゃ貴重な経験だったな、と父に感謝しています。自己紹介では外せない鉄板ネタです」。
そういって、関川さんは笑う。
皇室ほどの英才教育ではないが、関川さんも、ピアノやバイオリンを習う。
「色々、習った気がします。ただ、ぼくは芸術系じゃなくって、スポーツ。ハンドボールなんですが、そちらに熱中します」。
小・中・高とチームのキャプテン。今のキャプテンシーの源流である。
ちなみに、東京都の小学校でハンドボールのチームが結成されたのは、関川さんらのチームが初だったそう。
「だから、試合も関東大会からスタートみたいな(笑)」。
大学は、スポーツ推薦で進む予定だったが、怪我がもとで推薦が受けられなくなり、指定校推薦で都内の大学に進んだ。
大学生活の話を聞くと、「ネズミ講」という。「先輩に『儲かるで』って言われて」と笑う。
「初期投資は10万円。高田馬場の学生ローンに行って、キャッシングして。儲かるはずが、初月も、その翌月も空振り」。
<10万円の投資を回収しないと>
「そう。だから、凹む暇もない。心を入れ替えて真剣にやります。すると、面白いもので、結果が表れ始めて。調子に乗って、スーツを着て、公民館に人を集めて、ホワイトボードを使って偉そうにプレゼンしたりして。1年弱で辞めちゃいましたが、3ヵ月目からは月に40~50万円は入ってきました」。
<それは、すごい!>
「それ以外にも、飲食や配達のバイトをしました。どこもかしこも、楽しかったですね」。
「仕事より、人間関係が面白かった」というところが関川さんらしい。
就職も、ネズミ講同様、ハイリスクで、ハイリターンな道を進む。
「オール電化や太陽光発電のセールスマンです」。
<インターホンをピンポンってするあの仕事?>
「ハッハ、そうです。車で決められたエリアまで連れていかれて、そこで、リリースされて。契約をいただくまで帰れません。営業の世界ってたいへんでしょ。そのなかでも、紛れもなくいちばん過酷な世界。新卒は200人。みんなであっちこっちをピンポンするんです」。
「ネズミ講で鍛えていただいたからでしょうか。新卒のなかでは群を抜く結果を残していました。秘訣ですか?秘訣は数。数はすべてを凌駕します」と関川さん。
渡された地図をみて、グルグルグルグル、もう一度、グルグルグルグル。ひたすら回る。
「ふつうの人は1ヵ月で3本、ぼくのマックスは12本です」。
商材はオール電化やエコキュート、IH、太陽光。
ちなみに配属されたのは、池袋。
「ネズミ講のときと同様に、そこも1年くらいで退職します。じつは、スカウトされたんです」。
「私の仕事を聞いて、じゃぁ、うちにおいでよみたいな(笑)。仕事はかわらなかったんです。ただ、アポインターもいたし、何より社用車もあって。特別待遇だったんです。ハイ。ラッキーと思ってすぐ転職しました」。
「商材はおなじ。結果も当然でます。だから、給料は悪くない。ただ、最初の会社とちがって、若い奴が多かったからか、いい時計買って、高級車乗って、キャバクラでパッと使って」。
「派手っていうか、見栄っ張りっていうか。車は、高級車なのにボロボロのアパートに住んでいる奴もいました。私は、ちょっと好きじゃなかった。そういうのは」と関川さん。たまに、つるむと「ノリが悪い」と笑われることも少なくなかった。
「けっきょく、1年くらいで、この会社も退職します」。
少しだけ、営業の様子もうかがったので、記載する。
「朝9時から1台の車に4人が放り込まれて、インターホンを押せる、ギリギリの、夜の9時くらいまでですね。グルグル、回るんです。9時、ギリギリにお客さんとつながったら、そこから契約をいただくまで2~3時間はかかります」。
「落とす」というらしい。
「車は1台。だから、1人がギリギリの時間にお客様をキャッチしたら、ほかの3人はやることがありません。そりゃ、苦痛ですよね」。
仕事が終わるのは、夜の12時。ときには深夜1時。
「ぼく自身は数字をあげていました。2社目では、アポインターさんもいたし、社用車もあったし。でも、支店長に手を抜いているのを見抜かれていたんでしょうね。直行直帰もできなくなって。だんだん、無駄にしんどいなと思うようになって」。
そのとき、関川さんは誘いに乗って、飲食の道に迷い込む。
「大学の最後のアルバイトが、神楽坂にオープンした焼肉店のオープニングスタッフだったんです。じつは、その時のスーパーバイザーが、のちの『株式会社ふたご』の李 純哲さんだったんです」。
<李さんとは、その時からのご縁だったんですね?>
「そうです。ただ、社員として働いたのは別の飲食店で、いうなら、これが私の飲食人生のスタートです」。
メニューづくりも、仕入れも初体験。しかし、業者との交渉や折衝はお手のもの。値決めのセンスもあった。
「むちゃくちゃ面白かったです。利益もでていましたから。で、本格的に飲食をやろうって決めたときでした」。
そのタイミングを計ったように1本の電話が入る。
「ふたごの李さんからでした。『今何しとんねん?』って」。
社員番号は「9番」。 これが、「ふたご」での関川さんの番号。
「正確にいうと、私は2店舗目からで。それ以降はほぼ全店でオープンから入り、最後はブランドマネージャーで70店舗を管理していました」。
<ブランドマネージャーってすごいですね>
「私だけではなく、今、社長をされている森川さんもいましたし、もちろん、創業者の李兄弟もいて。え? 李さんから教わったことですか?」。
「サボることと、遊ぶこと」と言って笑う。ただ、スケールはでかい。「ニューヨークのお客様と意気投合して、『じゃぁ、ニューヨークにだすわ!』って。あの2人ならほんとにやりそうなんです」。
じつは李純哲さんには2012年6月に、今、話にでた森川さんには2025年9月にインタビューさせていただいている。
森川さんに聞いたところ、ふたごの兄弟は今ドバイ在住とのこと。「日本には年の半分しかいない」という。たしかに、2人のスケールはちがう。
そのふたごの兄弟の下で、水を得た魚のように関川さんははたらく。「大阪焼肉・ホルモン ふたご」をはじめ、多くのブランドの責任者となり、事業をコントロールする。
森川さん同様。ふたごの兄弟の懐刀。切れ者の森川さんと、人望の関川さん。2人が事業の両輪となっていた。
「評価いただいていたこともあったし、『ふたご』のオープンな社風も気に入っていましたので、独立はもちろん、辞める選択肢はなくって、森川さんじゃないですが、『ふたご』で役員になろうと思っていたんです」。
「ところが」。
<ところが?>
「『私が役員といっしょに設計してスタートした『買取モデル』があって。ロールモデルをつくろうとしていたんですが、話を進めていく中で、新規で独立したほうがまわりに刺激を与えれるんじゃないかって」。
「言い出しっぺだし、『じゃ、オレが』と宣言するんです。李さんからは、『なんで関川が』って言われるんですが」。
言い出したはいいが、詳細が決まっていなかった。
「『ふたご』の看板を汚すわけにもいかないので、退職後、自力で、ゼロイチで、店をオープンします」。
<それが、ボンズですか?>
「そう。1号店はコロナのど真ん中の2021年8月。赤坂に『焼肉ホルモン ボンズ』をオープンしました。12坪で28席。家賃は48万円。助成金などは一切でません」。
ローリスク、ハイリターンのつもりが、けっきょくいつも通りハイリスク、ハイリターン。
コロナ禍の下、赤坂の夜は、ひっそりとしていた。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
“飲食の戦士たち”で株式会社トンボカンパニー 代表取締役 向井正史氏登場を取り上げました。
幼少期、短距離走は無敵だった。野球は5番を打ち、ショートかセンター。生まれは1975年だから、生徒数が多い。「中学は10クラスありました。」と向井さん。
「野球は小学3年生からはじめました。記憶に残っているのは、中学の監督やコーチがとにかく厳しくて、むちゃくちゃ尻を叩かれてました。おかげで『やり抜く力』というか、後に役立つ気力体力が身についた気がします(笑)」。
野球は中学まで。高校に進むと「甲子園に行けないのが分かったので、それならばもっと社会に触れたい」とアルバイトを開始する。
「大学進学は指定校推薦で、と思い勉強も頑張っていましたが、うちは貧乏だったので、大学進学は経済的に無理だったんです」。
最初のバイトは西友のお菓子の品出し。
「アルバイトを始めるときに振込用の通帳をつくるでしょ。じつは、通帳をつくって以来、お金に困ったことがないんです。いつも通帳には20~30万円が入っていました」。
<高校生の時も?>と聞くと「そうなんですよね。たぶん、母親の言うことを無意識に守っていたんですよね」との回答。
お母様は常々「欲しいものがあれば、必ず貯めてから買いなさい」とおっしゃっていたそうだ。
<安易なお金の使い方を注意されたんですね?>
「おかげで自動車免許のお金も自分で貯めました。当時から洋服もぜんぶ自分で買っていました。それでも通帳の残高はそんなに減らなかったです」。
バイトは週に4~5日。「勉強はそっちのけ?」と思いながら聞いていたが、「成績は悪くなかったですよ。3年間ずっとクラスで2位でした(笑)」と意外な答え。
「大学は、さっき言ったように経済的に無理だとわかってましたから、高校2年くらいには『進路を決めなきゃな』って。成績がよくても、大学には行けませんから。その頃、友達が数枚のCDを貸してくれたんです」。 長渕剛のCDだった。
「ハマった」と向井さん。借りたCDを聴きまくった。とくに「とんぼ」に酔いしれた。
「かっこいいでしょ。『コツコツと』で始まる。あの音を聴くと、いろんな思いが頭を駆け回ります」。
頭を駆け回る思いを、「反逆性」と、向井さんは表現する。
実は同じ頃、相田みつをさんにもハマっていたそう。
仏教の世界観を知ったとも言っている。
相田みつをさんといえば、「にんげんだもの」である。
改めて調べてみると、長渕さんと相田さんのメッセージには共通項が少なくなかった。「人間臭さ」や「生きる厳しさや切なさ」である。
「長渕さんや、相田さんの詩が頭のなかでこだますると、小学校の頃の、損得無しなあの無邪気さが無性に欲しくなってくるんです。そして、1人じゃなく、太い人間関係を取り戻したいって」。
その思いの先にあったのが、飲食店だった。
「小さな店でいいから、人の息遣いが聞こえるような店をつくりたいって思うようになったんです。煩わしさばかりを感じていた人間関係をもう一度あの頃のように取り戻したいと思うようになったんです」。
<それも、高校2年の頃の話?>
「そうです。それでですね、」と向井さん。
「高校2年の夏休み。コンビニでラーメン雑誌を買って、読み漁りました」。
<小さい店って、ラーメン店ですか?>
「そう、高校生じゃそれくらいしか思いつかなかったんです(笑)。それで、行ったこともない駅で降りて、旨そうなラーメン店を探す旅が始まります。ようやく1軒いいなって店があって。思い切って、暖簾をくぐるんです」。
向井さんは自身を「内気な少年」という。
「内気な少年がありったけの勇気を振り絞って、店主さんに『ここで働かせてください』って頭を下げたんです。そしたら店主さんに、怒られちゃったんですよ」。
<なんて、ですか?>
「『若いアンタにはまだまだ無限の可能性があるんだから、うちみたいな小さい店で働いちゃだめだ』って。思いやりのある一言なんですが、当時は、悔しくて。帰りの電車のなかで、泣きました」。
とんぼが舌を出して笑ったようだった。
「ラーメン屋のおじさんに怒られたからじゃないんですが、飲食店と言ったらラーメン店や定食屋くらいしか思いつかない。『これじゃいけない』『もっと広い世界をみないといけない』と、調理師の専門学校に進みます」。
「その専門学校は首席で卒業しちゃいました」と向井さん。
「調理が巧いっていうより、7割は学科ですし、だいたいみんな真剣じゃないんです(笑)。学費は、100万円以上かかりましたが自分で払いました。講師で来た先生(シェフ)をみて、かっこいいなって、むちゃくちゃ憧れたし、何よりはっきりとした夢があったんで誰よりも真剣だったんですよね」。
校長推薦で、赤坂にあった高級海鮮料理店に就職する。
「中華料理の奥深さにも驚きましたが、何と言ってもあの量です。たとえば、『ネギを切って』って指示されるでしょ。『何本ですか?』って聞くと、『2ケース』って(笑)」。
<2ケース?>
「そう。100本前後です(笑)。これが、専門料理店の世界だったんです。おかげで包丁スキルはめちゃくちゃ付きました」。
年上の料理人が多かったから可愛がられた。労働環境にも恵まれていた。料理は「石鯛や毛ガニ、伊勢海老、鮑など全て国産天然の活けでした。今考えると貴重な経験ですね」。
「ただ、9割がコース料理。創作的な料理はない。決められたメニューばかりをつくるより、料理をクリエイトしてみたかったんです。それで、希望していた世界とはちがうかな、と2年ほどで転職を決意します」。
そのあと、表参道や、阿佐ヶ谷のレストランを転々とした。
「キッチン内の先輩・後輩の関係ですか? 最初のお店は校長推薦でしたから、とくに理不尽なことはなかったんですが、つぎの店ではちゃんと、理不尽な拳骨を食らいました(笑)」。
当時のキッチンは、罵声も、拳骨も飛んだ。今とは大違い。
<楽コーポレーションは、このあと?>
向井さんは、頷く。
<楽コーポレーションで戸惑ったことはありましたか?>
レストランと楽コーポレーションとは、落差があると思ったから聞いてみた。
「楽しかったですね」。
意外な答えだった。
<楽しい?>
「ええ」と、向井さんはきっぱりという。
「楽コーポレーションでは、カウンターのすぐ向こうに、お客さんがいらっしゃるんです。いままではキッチンのなかでしょ。世界がぜんぜんちがいます。料理人にとって、これほど楽しいことはないです」。
「一方で、接客は難しかった」と正直に打ち明けてくれる。
「おやじ、創業者の宇野隆史さんのことですが、おやじがいうんです。料理をつくりながら、氷の音を聞けって」。
<氷の音?>
「グラスのお酒がなくなると、氷が音を立てるでしょ。それがおかわりの合図だって。料理をしながら、氷の音までも気にかける。スーパーマンでしょ。ほかにも、トマトってあるでしょ。冷やして、カットして、お出しすれば、一つ100円のトマトが、300円になる。好きなように味付けできる調味料をいくつかお出しすれば、お客様も喜ぶ。それもまた、料理なんだって」。
たしかに、そうだった。カウンターの向こうと、こちらで、言葉と心のキャッチボールをする。それが、接客の正体だった。
「だから、最初は苦労して、そして、最終的には、それがいちばんの楽しさであり武器になります」。
「楽コーポレーションには合計9年いました」と、向井さん。
「『30歳になったら独立する』って言ってたんです。でもね」といたずらっ子のように笑う。
「30歳のバースデーは、なんとカナダのバンクーバーにいたんです」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
完全ゴキブリ駆除率99.5%のクリーンライフ大野宗社長の漫画動画、その1です!
何故大野社長が害虫駆除業界に足を突っ込まれ高橋、その原点がわかります。
その2、その3、その4も発信していきます。
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)