今期のキイストンはまたまた新たな部門にトライ!
電気代が高騰してるので、その“電気代削減“にも力入れたいと思います。
やるなら圧倒的な削減額目指し、実績作りのため先ずは店舗数の多い飲食企業様に限定して案内していこうと考えるます。
そしてより多くの飲食企業様のサポート出来れば…。
「キイストンに任せたら安心」を浸透させたいです。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
今期のキイストンはまたまた新たな部門にトライ!
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「キイストンに任せたら安心」を浸透させたいです。
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
自分の著書があるので書籍の強さ・メリットがわかってますから言えますが、「書籍は武器になる」です。
それを実感してもらうように、2025年はキイストン出版から5冊企業様の書籍出版させる予定です。
既に3月末に1冊目を出版、6月末に2冊目の出版を予定で、いずれも飲食経営者の書籍です。
あと3冊の書籍出版に向け営業提案を開始しよう。
といっても、無理にではなくお客様の武器作りのお手伝いって感じかな。
今ならブレーンの方もしっかりいるので年内7〜8冊は可能かな。
是非ともキイストンにご相談ください。
https://www.keys.ne.jp/keystone-publishing/
戦略型総合人材採用サービス会社キイストン
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。
警察官だったというだけで異色のキャラだが、大学生時代に柔道で世界学生2位になったというから驚きだ。見た目はシャープで、スタイリッシュ。柔道で世界の強者たちとたたかった姿は思い浮かばない。
柔道と田中亮平。その両者のつながりを探るところから、今回のインタビューはスタートした。
「物心ついた時から柔道着を着ていましたから、柔道をはじめたきっかけを聞かれても困っちゃうんですよね」。
今回、ご登場いただいたのは飲食業界をリードする「バルニバービ」のグループ会社「バルニバービ オーガスト」の代表取締役社長、田中亮平さん。
話はつづく。
「オリンピックを意識したのは、中学3年生の時です」。
個人戦で全国優勝したそうだ。
「まさか優勝するとは思ってなかったから、びっくりした」と田中さん。じつは、全国大会に出場できただけで満足していたそうだ。
それが、結果、全国でいちばん。決め技については聞きそびれたが、この優勝が田中さんの人生の決め手となったのはたしか。
「優勝したことで推薦をいただき、産大高校という、兄も通った関西では名門の高校に進みました」。大学ももちろん、柔道で進学。軽量級が強かったという「京都産業大学」に進学し、全国2位が2回、3位が1回という好成績を挙げている。
「大学になると強制されることもなくなって練習も手を抜くからだんだん弱くなって。いままで負けたことがない相手に負けちゃいました」。
いままでは柔道が日常すぎて、特別な思い込みはなかったのかもしれない。
熱心に柔道を語ることはない。
「だけど、やっぱり、負けたら負けたで悔しくて。なんで負けたのか。はじめて自分の柔道について考えるようになったんです。 力・技・スピード。自分の長所・短所を分析して、改めて相手に向かっていくことで、勝ち負けとはまた異なる世界を楽しめるようになったんです」。
田中さんはトップレベルの選手になると、力の差はそうないという。これも、大学になって気づいたこと。
バンカラとは言わないが、恋とか、ファッションとかとはちがったもう一つの世界。大学を卒業した田中さんは、まっすぐに警察に就職する。
「私たちの世代は氷河期だったもんですから、民間で柔道をするのはむずかしかったです。それで、警察に就職したんですが。私の場合は大阪府警の看板を背負って試合をするのが、本業というか」。
もちろん、その本業で、大仕事をやってのけた。
田中さんは1976年、大阪府門真市に生まれている。お父様は大阪市内で問屋を経営されていた(現在は、お兄様が継がれ、30億円の売上を上げておられるそうだ)。
「警察に3年間務めたあと、その実家の仕事に参加します。ただ、父と兄が2人で経営していて、私は社員のなかでもいちばん下っ端です」。
<世界学生2位も、父や兄には頭があがらない?>
「そうですね。実家にいたのは2年くらいで、色々あって、追い出されてしまうんです。バルニバービに転職するきっかけと言えば、きっかけですね(笑)」。
27歳の時だったそう。
「それまで、アルバイトもしたことがないでしょ。警察に就職しましたが柔道が本業でしたし、そのあとは実家。そういうこともあって」。
じつは、田中さん。実家の仕事を辞めたあと、3ヵ月間、ニート生活を送っている。
その時を振り返り、「自由ってむちゃくちゃしんどいのがわかった」と笑う。
柔道で鍛えた筋肉が「何かをしろ」と、田中さんの背中を押したのかもしれない。
ともかく、27歳。はじめて、きらびやかな世界へ、踏み入る。田中さんの、新たな試合が始まった。
<初めての仕事はいかがでしたか?>
そうたずねると「イジメられた」と笑う。
「もう27歳、正社員になったのは28歳でしたから、年下の子から煙たがられたのか、イジメられて。私自身が勝手にそう思い込んでいたのかもしれませんが」。
飲食は未経験だったが、社会人経験は長い。警察という大組織も経験している。
「初めて、代表の佐藤(バルニバービの現会長、創業者の佐藤裕久さんのこと)のセミナーを受講したあとに、感想みたいなのを書くんです。はっきりと覚えてはないんですが、飲食というのは組織が弱いと生意気なことを書いたような(笑)。ただ、それをみた佐藤が『あいつを正社員にしろ』と。そういう意味では、評価されたのかもしれませんね」。
かくして、正社員へ。配属先は、当時の旗艦店、南船場の「CAFE GARB」。
「GARB」は1995年に創業。田中さんと同世代のトレンドに敏感な人は、だれもが知っていたんじゃないだろうか。カフェという文化をつくったのは、まちがいなく「GARB」である。
「最初はドル箱だったんです。ただ、私が配属されたのは、カフェってだれでもできるから競合もつぎつぎできて業績が落ち込んでいた頃です。たしか、7年目くらいだったかな」。
4階建、4フロア。3階、4階に客の姿はなく、2階は稼働するのも、週末のランチだけ。「GARB」の名だけが、残る。へたをすれば伝説になっていたかもしれない。
「業績が悪いから、当然、給料も安いです。労働時間はぎゃくに長い(笑)。とにかく、当時は終電が終わっても帰してもらえないから、車通勤です。でも、パーキングを利用してたら給料がそれで飛んじゃう。もと警察官ですから、だからどうしたかは、内緒ということで(笑)」。
給料の額を聞いて、驚いた。たしかに、顔をしかめたくなる。
<辞めようとは思わなかった?>
思わず、そう聞いてしまった。
「たしかに、そういう選択肢があったと思いますが、私の場合は辞めるというよりどうすれば給料が上がるのか、そっちを考えました。売上と利益、シンプルですが、まずそこだな、と」。
現実と向き合い、そこから逃げない。世界と戦ってきた人の発想は、やはりちがう。もっとも、飲食の経験は少ない。言うは易く、行うは難しである。しかし、田中さんは、その難しいことをやってのけてしまう。
「たまたま、高校時代のともだちが通信系の営業をしていて。まだ、ガラケーの時代だったんですが、彼と、戦略を色々立てて、今でいうWEBでマーケティングを仕掛けます」。
「GARB」という資産を活かした戦略的なアプローチを取る。「GARB」の魅力が改めて拡散されていく。それが功を奏したんだろう。最盛期にはウエディングのパーティーで、4フロアが各4回転することになったという。
「1000万円いくかいかないかだった利益が、8000万円くらいになった」と田中さん。とんでもないV字回復。いや、もはや、以前の「GARB」を追い抜いていたにちがいない。
田中さんの給料も、もちろん、うなぎのぼり。スタッフの給料は、田中さんの権限だったから、そちらも、改善した。
ちなみに、「GARB」はバルニバービが子会社化を進めるきっかけとなる。
この「GARB」で田中さんは9年連続、前年比の売上・利益をクリアしたと言っている。10年目はさすがに、売上はクリアできなかったが、利益ではクリアした。
なにが、それだけ、田中さんの背中を押すんだろうか?
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。
教室にピアノの音が響く。メロディが流れだすと、だれもが口を閉ざした。
「授業でピアノを弾いたとたん噂になって」。
これは、今回、ご登場いただいたバルニバービ インターフェイスの代表、中村さんが中学生の時の話。「小学2年生のときに、ともだちがオルガンでドラクエを弾いていて、かっこいいなと思って、ピアノを習いにいったのが始まりです」。
「中村はピアノがめちゃくちゃ巧い」。噂は学校中に広がって、合唱コンクールでも卒業式でもピアノを披露することになった。ホームページの自己紹介では「ピアノはショパンまで」と書いてあった。
「運動は苦手だった」と中村さんは正直だ。
「サッカー部に入りましたが、ほぼ幽霊部員。運動はイマイチでしたが、音楽は得意でしたから、将来は音大へ、なんて思っていました。でも、実際は京都外大です(笑)」。
「うちはガチガチの公務員一家ですから、息子の私にもとにかく『公務員になりなさい』と言っていました」。
実は、中村さん、公務員の試験を受けている。
「数学が苦手で、大学も外大でしょ。語学はできたんですが。公務員はマルチな分野の知識がないと、ちょっと無理。で、だんだん就活自体も面倒になって、公務員どころか就職もせずフリーター生活をはじめます」。
中村さんは、高校時代、大阪・梅田にオープンした「リッツカールトン」のオープニングスタッフとして採用されている。「こちらは高校時代の話です。リッツカールトンに直接採用いただたわけじゃなく、配膳会社に登録していましたから、ほかのホテルや芸能人のディナーショーでも配膳の仕事をしています」。
中村さんは、大学4年までこの仕事をつづけている。もっとも、就職で外食は選択肢になかった。
「車が好きだったんで、ディーラーもいいかな、とは思っていたんですが」と中村さんは苦笑する。飲食はもちろん、音楽の道もまた、なかったようだ。
「卒業してからは俗に言うフリーターになって、倉庫の仕事と、ワインバーの仕事をかけもちしていました。倉庫の仕事がいま一つだったこともあって、ワインバー1本にします。そうなると昼が暇でしょ。そのとき、バルニバービの求人に出会ったんです。7月にアルバイトで入り、翌年1月に正社員に登用いただきました」。
バルニバービは1995年、大阪の南船場に1号店となる 「アマーク・ド・パラディ」をオープンしている。以来、様々なカフェをオープンし、現在は「地方創再生事業」にも乗り出している。
「当時は、まだ10店舗程度で、何者かもわからないようなフェーズでしたが、バルニバービの世界観が私には似合っていたんだと思います」。
「でなきゃ、今頃、息苦しくて」と中村さんは笑う。中村さんは「セクシャリティがバイセクシャル」なんだという。
「カミングアウトは25歳のとき。バルニバービに就職していて、ある上司に相談したのが最初です」。
そのときの上司とは「バルニバービ オーガストの田中亮平社長」のこと。
田中さんとの関係についてもうかがった。
「田中さんにお会いしたのは、2004年にカフェカーブに配属になったときです」。
「田中さんのほうが3つ上」と中村さん。たがいにないモノをもっていたという2人は、上司と部下という関係でもあったが、ともにたたかってきた仲間でもあった。
田中さんの役職が上がると、いっしょに中村さんの役職もあがった。
「田中さんも経歴がユニークで、大学時代に柔道で世界2位になっていたり、前職が警察官だったりで。でも、公務員って頑張っても、頑張らなくても給料はおなじでしょ。そういう世界が、いやになってバルニバービに転職してきたそうです」。そういって、中村さんは可笑しそうに笑う。
「田中さんと出会った『カフェカーブ』は、バルニバービの初の子会社です。そこからも、だんだんと分かれ、今(2024年)では、10の子会社があります。私が社長を務めるバルニバービ インターフェイスもその一つ。バルニバービが店をオープンして、子会社が、その店を運営するというスタイルです」。
「会社単位ですから、ハンドリングもわりと自由です。利益は、本体とシェアしますから、利益を上げれば当然、みんなのギャランティもあがる。運営の方法も私たち主導で行っていきますので、実績があがれば自信になりますし、失敗も含め、それが経験になっていきます。この経験はグループの新たな店づくりに参加したときや、独立して店をするときにも役立ちます」。
たしかに、たしかに。すでに独立した人も少なくないらしい。「うちでは、独立希望者も積極的に採用し、独立の支援も行っています。バルニバービのネットワークをそのまま利用することもできますから、比較的独立のハードルは低いです」。
ところで、田中さんに最初にカミングアウトしたときの話。田中さんは、どんな反応だったんだろう。
「田中さんは、ぜんぜん驚かないで、逆に半泣きになってはやく気づいてやれなくて、ごめん、って。田中さんのおかげでマイノリティっていう意識が、いい意味でなくなりました」。
以来、2人は、互いの得意分野と苦手分野をカバーするようにして、二人三脚で、業績を上げてきた。
「仕事のパートナーっていうとおこがましいですが。そうそう、じつは、このインタビューが始まる少し前にも話をしていたんです」。
2人の関係がうかがえる話ですね?。「そうですね。実際、いっしょに店をやったのは3~4年ですが」。田中さんが子会社の社長になると、中村さんが、執行役員となって田中さんをサポートしてきた。
切磋琢磨、というのは、この2人のことをいうのだろう。「性格もちがうし、思考もちがう。ちがうからこそ、気づきもあるし、おぎなうこともできたと、私はそういうふうに思っています。もちろん、感謝は尽きません」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
「飲食の戦士たち」見て、いろんな出版社がアプローチしてます。
採用の武器としては書籍は強いツールとなります。
「飲食の戦士たち」シリーズ“再現ショートドラマ編(season2)”に続き、コロナ前から進めてた「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”を2025年は5冊やる予定です。