2025年5月21日水曜日

株式会社ZENJI 代表取締役 工藤拓也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ZENJI 代表取締役 工藤拓也氏登場。

本文より~

原材料費が高騰するなか、現れた平均30%の営業利益率を記録する「油そば専門店」

今回、ご登場いただいたのは「らぁ麺善治」と「油そば専門店 麺と油」を経営する株式会社ZENJIの工藤社長。インタビュー時で29歳という若き経営者。
コロナ禍の下、2021年12月にオープンした「らぁ麺善治」はコロナ禍の最中に関わらず初日から大行列をつくり、坪売上80万円を記録。
現在は、そのノウハウをもとにフランチャイズ化を進め、開業支援も積極的に行っている。
現在の、原材料費が高騰するなかで注目されているのが、2024年11月にリリースした<油そば専門店「麺と油」>。通常のラーメン店と比べ、「原価率を約12%も削減できる」とのこと。
実際、オープンから平均30%の営業利益率を記録しているというから驚きだ。
もちろん、「油そば」、そのものが旨い。
油はサラダ油ではなく「鶏油(チーユ)」と「豚油(ラード)」の2種類。醤油、塩、赤味噌とバリエーションも豊富で、卓上調味料は10種類、トッピングも10種類(50円~)用意されていて好みによってカスタマイズできる。
「らぁ麺善治」同様、こちらの「麺と油」でもフランチャイズも進めていて、2025年3月現在、10店舗限定だが、「加盟金200万円が、0円」と大盤振る舞いのキャンペーンを打っている。
原材料費が高騰するなか、ラーメン店の経営者にとっても、気になるブランドだ。
さて、その話はいったんわきに置き、いつも通り、工藤社長の話である。
工藤社長は、1995年、生まれ。
父親は法律関係、母も、今は姉も行政書士という家柄。お父様は、北海道大学出身。
「父親はきびしい人でした。とくに勉強については」。
なんでも、小学生のときには「1日9時間勉強しろ」と命令されていたそうだ。「めざせ、開成中学」。「姉は父親が望むように育ちましたが、私はね」と破天荒な話が始まる。

両親が離婚。父親から解き放たれた少年は。

「小学4年生のときに両親が離婚します。父親から開放されたもんですから、今までの反動で漫画を読み漁り、卒業式にも出席しない少年になりました」。
<開成はどうなりました?>
「もちろん、頭のすみにもない(笑)、進んだのはふつうの中学です」。
進んだ中学はふつうだったが、工藤社長は、ぜんぜんふつうじゃなかった。
地元でいちばん顔が広い、やんちゃな中学生。
「通学が面倒で2年生は学校にも行かず、中学3年生からは心を改め、学校に行くんですが。進学には2年時の内申がカギなんだそうですね。そういうのも知らなかったから。だって、もう3年でしょ(笑)」。
進学したのは「『こころざしを漢字で書け』っていうのが、入試問題の定時制です」。
もう一つの設問は「あめにもまけずを同様に漢字で書け」という問題だったらしい。
もちろん、宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ…」の冒頭の一文である。
ともかく工藤社長は、雨ニモマケズ 風ニモマケズの、やんちゃぶり。
17歳のときには警察沙汰を起こし、退学している。町いちばんのやんちゃものが、野に放たれる。非行に走ったが、受験で書いた一文字、そう「志」はあった。
「ビッグになる」が少年の口癖だったそうだ。

26歳。ビッグになる一歩を踏み出す。

「やんちゃ」だが、ご両親譲りなんだろう。頭は、いい。ビッグになるという「志」もある。ただ、何をしていいかわからない。アルバイトの、その先に、飲食があった。
「飲食のアルバイトが、この世界に入るきっかけです。19歳からは飲食のキャッチをはじめます」。
21歳で、キャッチを卒業した工藤社長は、そのあと飲食店を2社、経験。人生の師匠という人物にも出会い、26歳のとき、かつての暴走少年は、事業家としてスタートする。
そのときの話もうかがった。
「デリバリーからのスタートです。業務委託のようなスタイルで、オリジナルでバーチャルレストランをはじめ資金をためて、いきおいにまかせて起業します」。
<それが2021年12月、横須賀にオープンした「らぁ麺善治」ですね?>
「横須賀に縁もゆかりもなかったんですが。もともと単価900円の飲食店が6年つづいていたもんですから、6年は大丈夫だろうと(笑)」。
<ビッグになる、一歩を踏み出したわけですね?>
工藤社長は、ちからづよく頷く。

直感力×マーケティング。ロジカル思考は、ご両親譲りか。

さすが、前職では若くして事業部長を経験している工藤社長である。
「いきおいで」とのことだったが、話を詳しく聞くと、マーケティングにもそつがない。やはり、ご両親同様、ロジカルな思考が得意なんだろう。
「横須賀は濃厚なラーメンの聖地で、ラーメン激戦区です。ただ、ラーメン店は多いものの、あっさり系が意外になかった。人口を調べてみると、若者だけじゃなく、60代以上の方も少なくない。だったら、その方々をターゲットにして、細麺のあっさり系で勝負してみるのもありかな、と」。
「あっさり系と、もう一つは濃厚なラーメン」と工藤社長。2本立てだが、あっさり系のラーメンがプラン通り年配者の志向をキャッチ。初日から大行列をつくり、わずか10坪で月商800万円。つまり、坪売上80万円を記録したのは、すでにお話した通り。 額にも驚くが、コロナ禍の下での記録というから、なおさら。
「ヒットしたのには、もう一つの仕掛けがあって」と工藤社長。
<もう一つの仕掛け?>
「ええ、じつは、380円のうな丼をメニューに入れていたんです。原価は60%でしたが(笑)」。「ミニサイズ」といいつつ、写真をみさせていただくと、ちょうどいいボリューム。
「横須賀って米軍の人もいるでしょ。彼らの志向を調べると『EDO(江戸)』が一つのキーワードになるとわかって。江戸って言ったら、天ぷら、あなご、うなぎ。そのなかから再現性が高い『うなぎ』をやろうということになって」。
<ラーメンとうな丼?>
「セットではなく、単品です。ミニサイズですが、380円でうなぎが食べられるのはうれしいでしょ。最初は、うな丼をめあてにしていらっしゃるお客様も多かったです」。
<思い切った発想が功を奏したわけですね。奇抜ですが、大きな差別化のポイントですね?>
「そう、ちなみに、月商は今もキープしていて、昨年12月には1000万円台を記録しています。善治のラーメンファンが多くなった証です」。
ちなみに、横須賀店の隣に出店したラーメン店(こちらは豚骨)が、今の「油そば専門店 麺と油」。2店で工藤ワールドをつくっている。

証明してみせたのは、修業しなくていい、という事実。

話を聞いていて、浮かんだ疑問を、そのまま質問してみた。
<いつ修業されたんですか?>
「ラーメンですか?」
<そうです。ラーメン店では勤務されていませんよね?>
「そうですね。じつは、そこが私の話の、また今の事業のなかでの、ポイントなんです」。
どういうことだろう?
「みなさん、ラーメンをどこで修業した?と、おっしゃるんですが、飲食の人って、キッチンでも、はたらいているから、何でもつくれちゃうでしょ。パスタだって、〆のラーメンだって。そもそも、ラーメン店って修業しないとオープンできないって思い込みにすぎないんです」。
「事実、私はラーメン専門店で、修業はしてないですから」。
「私に言わせれば、ぎゃくにそのほうがいいんです。ラーメンの経営者って、みんな『あとちょっと』って言うでしょ。たとえば『塩をあと少し、醤油を』なんてやる。それで味がブレちゃう」。
「だから、最初からOEMでと決めていた」と工藤社長。「もちろん、OEMと言っても、うち独自のレシピでつくってもらっています」。
<独自のレシピ?>
「私の祖父が飲食をやっていて、その時のレシピが残っていたんです。それを祖母から譲り受けて。じつは、『善治』は、祖父の名前なんです」。
<お祖父様のお名前?>
「そうです。ストーリー性もあるでしょ」。
たしかに、たしかに。
善治さんの手によって生まれ、工藤社長によって令和に再現された、ひとつのヒストリー。ネーミングも鮮やか。
「もうおわかりいただけたと思いますが、ラーメン店は修業しなくていいんです」。
乱暴なようだが、お手本が目の前にいる。
「もちろん、飲食の経験は大事です。ただ、うちではそれもゼロから指導していますので、まったくの未経験でもスタートいただけるパッケージになっています」。
ブレないことで、味が保証される。
もちろん、工藤社長は修業を否定しているわけではない。一杯のラーメンのオリジナリティを高めることも、否定はしない。しかし、ラーメン店の経営は修業をしなくてもできる、これが、事実。
それも、とびきり繁盛するラーメン店をつくることが可能だということを証明している。実際、繁盛ぶりを目にすれば、反論はむずかしいだろう。

株式会社ZENJI 代表取締役 工藤拓也氏

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2025年5月14日水曜日

営業未経験、2~3人採用したい。

私も最初は営業未経験でした。


キイストンは創業当時から営業マンはほぼ9割が営業未経験者の採用してきました。

営業未経験者の人たちは、学ぼうと一生懸命頑張ってくれるので教えがいもあり、また一人前なるのが早いです。

今期も黒字で4期連続となりました。

基盤はしつかりしてるので、営業未経験者中心に2~3人採用したいです。

キイストン採用ページ→こちら

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一世風靡したステーキけんの創業者、株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏登場。

本文より~

ロードサイドのハイエナ。

「ロードサイドのハイエナ」という二つ名をつけられた。メディアはこぞって、そのハイエナを追いかけた。「飲食の戦士たち」にも、ご登場いただいている。
「あれはたしか」。
今回のインタビューはそんな昔話から始まった。
<2009年の3月3日に掲載させていただいています>
「そうでしたね。エムグラントフードサービスを設立したのが2006年ですから3年経った頃ですね」。
<井戸さんは、まだ32歳。ご自身でも「ロードサイドのハイエナ」というブログを綴られていて。さぁ、いくぞ、と>。
「ただ、今だから言うと、あのときは3期目で、まだ赤字だったんです(笑)」。
<そうだったんですね。アクセル全開というイメージでお話をうかがっていました>
「全開だったのは、たしかで、あるファイナンスから2億円までの融資枠をいただいたんで、使い切るまで、いくぞ、と(笑)」。

「ど根性ガエル」の「梅さん」に憧れた少年。

井戸さんは1978年、3人兄弟の末っ子として生まれている。小学時代、アニメの「ど根性ガエル」に登場する佐川梅三郎こと「梅さん」に憧れ、寿司職人をめざす。
<これが、始まりですね?>
「『梅さん』とはずいぶんちがう世界に来ちゃったなと思いますが、『梅さん』がまちがいなく私の原点です」。
情に厚く、どこかおっちょこちょい。生きる世界はたしかにちがうが性格はどこか似ている。かつてハイエナと厳つい2つ名をつけられたが、イメージは、むしろ「梅さん」だ。
高校を卒業した井戸さんは「梅さん」になるべく、寿司の修業を開始する。
<たしか、異例のスピードでカウンターに立たれたんですよね?>
「そう。20歳でカウンターに立たせていただきました」。
<12名いた同期は、1年で2人になったと話されていました。16時から朝の4時まで勤務して、その日の午前中には、もう店にいたというお話が印象的でした>
「とにかく、少しでも早く、腕を磨いて独立する。その思いだけで突っ走っていた頃です」。
<方向転換されたのはいつでしたっけ?>
「22歳です。薄給だったこともあって、このままでは独立資金が貯まらないことに気づくんです(笑)」。

「けん」は、「けんちゃん」の名だった。

当時、井戸さんのプランでは独立資金は2000万円。たしかに寿司職人にとっては天文学的な数字。
「それで、牛角のレインズインターナショナルに転職します」。
その頃の話をかいつまんで紹介すると、「レインズインターナショナル」で寿司職人とはまったく異なる店舗開発の仕事に従事。立地開発とフランチャイズビジネスのノウハウを獲得する。とある会社で業態開発を経験したのち、「店舗流通ネット」に転職。
<「ステーキけん」は2006年の7月が創業ですね?>
「店舗流通で出会った上司が会社を立ち上げ、私は取締役として参画します。その後2006年1月に、取引先の肉屋さんの支援をいただき、郊外のロードサイドで運営されていた『ステーキ&ハンバーグ いわたき』の経営権を引き継ぎます。その際、経営権はOKだが、商標はダメっておかしな話だったんです(笑)」。
「創業者が『いわたき』の4文字に思い入れがあって』と井戸さん。
「創業した4人の頭文字をとって名付けられたそうなんです。そんな話を聞くと無下にできないでしょ。だから、どうしようって」。
<メディアでは、当時、もっとも有名だったステーキハウスがひらがなの2文字だったので、それを真似たと言われていましたね>
「あとづけでそうなっちゃったんで、パクったって思われても、まぁ、いいかって黙っていたんですが、実はステーキ事業のトップだったスタッフが小林けんと言って、その名を借りて『けん』でいいじゃんって。それが、店名の由来。『ステーキみのる』より響きがいいでしょ」。
<その話も今回、初めて聞きました(笑)>
井戸さんは前回のインタビューとかわらない。言葉の一つひとつに想いが乗ってくる。ただし、挫折を知った今は、当時より、心が底が深くなった印象を受ける。

夕刊フジの記事で、祭りが始まる。

「全盛期は、2012年」と井戸さん。
「2009年10月に、夕刊フジに掲載されたのが引き金ですね。千葉県の松戸のデニーズの跡地に『ステーキけん』をオープンしたことが取り上げられ、新進気鋭の若手経営者と紹介いただいたんです」。
この記事がきっかけとなり、メディアがロードサイドの救世主と、なかば崇め、なかば「ハイエナ」と揶揄し、井戸さんを追いかけ回すことになる。
改めて当時のいくつかの記事をみたが、そのなかに「ハイエナ商法で会社設立から4年で売上高140億円」という印象的な見出しがあった。
たしか、そうだった。4年で140億円。だれが実現できた数字だろうか。
<1号店は千葉県の南柏でしたね?> 
「ジョリーパスタさんの居抜きです。それが、2006年の7月です」。
家賃45万円、60席。サラダ・バーをつくったことで300万円かかったが、初期投資はそれだけ。オープン初日、窓からパーキングをみる井戸さんの目が丸くなる。
「つぎからつぎってあのことですね。30分も経たないうちに広いパーキングが満杯になりました」。
その様子をみて「金脈を掘り当てた」と、井戸さんは小躍りした。
初月の売上、1200万円。
500万円いけばいいと思っていたが、予想はいいほうに大きくブレた。2号店、3号店、フランチャイズも含め、つぎつぎにロードサイドに「ステーキけん」がオープンする。
そして、夕刊フジの小さな記事で、「祭り」が始まる。
「3期まではまだ赤字だったんですが、4期目になり年商は47億円、5期目には165億円になります」。
<5年で100億円を軽くオーバーって、そりゃマスコミも放っておいてくれないですね>
「当時、ファミリーレストランをはじめロードサイドから撤退する郊外店が少なくありませんでした。『ステーキけん』は、居抜きで入り、内装から設備、什器までもらい受けてスタートしますから、出店コストの低さは段違いです。そのうえ、当時、ドル/円は90円程度だったんです」。
ステーキ肉はミスジ。全量輸入。
「円安になった今じゃ絶対、無理。消費税も5%だったから、ステーキ150gとサラダバー・カレー・フルーツ食べ放題で税込み1050円です」。
たしかに、かなり破格。当時でも、暴力的な価格だったにちがいない。
ファミリー4人で、ミスジのステーキを食べ、サラダバーとフルーツと、なんといっても子どもが大好きなカレーも食べることができて4200円。
ちなみに、とある大手ステーキレストランチェーンのメニューをみて、現在の価格を調べてみた。ランチだったとしても、ステーキなら1000円を軽くオーバー。ライス・パン・スープは食べ放題・飲み放題だが、サラダとカレーは追加料金がかかる。
時代がちがうといっても、やはり溜息がでる。当時、「ステーキけん」に行く機会が少なかったのが悔やまれる。「ステーキけん」も今では、ミスジ150gは2000円オーバーだ。

祭りのあと始末。

「最盛期の2012年には『ステーキのけん』238店、『フランス亭』30数店、『ヴォーノイタリア』を含めると300店以上はあった」と井戸さんは振り返る。
すべて井戸さんが失ったものだ。
<聞きにくい話ですが、原因はなんだったんでしょう?>
「虎の尾を踏んだんでしょうね(笑)」。
<虎の尾?>
「うちは、所詮、ハイエナ。相手はファミリーレストランのガリバー企業です。競争だから仕方がないし、そりゃ、怒ると思うんです。いきなり小僧が、主戦場のロードサイドに現れて、ワーワー騒いでマーケットを食いあらしていくんですから。でも、最初は、逆に、飲み込んでやろうと威勢のいいことを言っていたんですがね」。
<相手にならなかった?>
「参りました。たたかうレベルじゃなかった」。
話をきいて、<そこまで、する?>と言ってしまった。
「そういいたくなりますよね。でも、これがリアルです。近隣のファミリーレストランを、うちとおなじステーキレストランにしていくんです。サラダバーも、カレーもいっしょ。1店舗できれば、そのぶん競合しますから、売上が数百万円単位で下がります」。
道路沿い、左右、数キロ先にある同系列のファミリーレストランが、「つぎつぎとステーキレストランに衣替えされていった」という。
「スパイまで送り込まれた」と苦笑いする。
「ビジネスって、そこまでしないといけないんだと、私の甘さを思い知らされた格好ですね。しかし、スパイまでとは(笑)」。
<巻き返すことはできなかったんですか?>
「じつは、その時、M&Aにからむ案件で6億円を取られてしまったんです。詐欺とまではいいませんが、ギリギリのひどい手口です。巻き返そうにも軍資金がない」。
「あれで、終了した」と井戸さん。
2012年をピークに業績は右肩下がり。防戦一方のハイエナに、巨大な虎は容赦なく襲いつづけた。井戸さんがジー・コミュニケーションに事業を売却したのは2019年。
自己破産も経験する。
最盛期には、肉の輸入で相場を動かすほどだったが、もう、何かを動かすお金も残っていなかった。
「昔、『100億円で買う』って言われたことがあったんですが、その時は、100億積まれても『なんだよそれ』って息巻いていたんです。ビジネスの怖さがわかった今だったら、3秒で売却しちゃいますね(笑)。若手の経営者には『いいときばかりじゃないんだぜ』って、体験者として心からいいたいです」。
お金は失ったが、信用は失わなかった。これが井戸さんのすごいところ。じつは、訴訟合戦も少なくないフランチャイズビジネスを行っていながら、加盟店から訴訟は1回も受けたことがないそうだ。
「笑い話なんですが、うちが逆に訴えたい会社はあったんです。『ステーキけん』の加盟店だったんですが、『けん』ではなく、自社で経営するほかの業態で赤字をだして、『けん』の仕入業者への支払いが遅れて。それで、契約を解除したんですが、ある時、業者さんが写真をもってきて、『あの店まだつづけてます』っていうんですね。『そんなはずはない』と言って写真をみると、たしかに『ステーキけん』って看板がでているんです。『おいおい』『…』『うん?』。でもよくみると、『けん』の下に小さく『しろう』ってあって『けんしろう』になっとるやん!」。
爆笑してしまったそうだ。
「こんな事で裁判沙汰にはしたくなかったんで、まぁ、いいかって。笑って済ますことにしたんですが」。
甘いといえば、甘いという人がいるかもしれないが、これが井戸実という人。なんとかつづけたいという相手の想いまで笑うことができない人なのだ。

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株式会社TWENTY NINE 会長 井戸 実氏

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2025年5月8日木曜日

いつの間にか求人部門含め8部門(商材は複数)動かしてます。

キイストンはコロナ禍のあと求人部門だけでなく、全部で8部門(商材は複数)を動かしています。

コロナ禍の時は超ピンチがでしたが、逆転の発想でチャンスに転じ、今に繋がりました。

今考えたら、コロナがなかったら逆に厳しかったかもしれません。

もちろんマイナス面も多かったです。しかし今までやってきたことがプラスに働き、プラス面が多かった気がします。

そのプラス面の1つに「食べログ」があります。

コロナ禍後に、「食べログ」は現在正規代理店38代理店のうち、トップ10に入りできるほどになりました。

また「飲食の戦士たち」は2008年からスタートし、昨年5月30日で1つの大きな目標の1,000連載突破しました。そこで潮目が変わった気がします。

そしてこの5月には早くも1,100連載達成します!

時間はかかってますが、全てコツコツ積み上げてきた結果なので、そこは自信持ってます。

今期は特に求人部門を伸ばしたいと考えてますが、もちろん決めた全部門目標達成に向け頑張ります。

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2025年5月3日土曜日

今期、新たな部門にトライ!

 今期のキイストンはまたまた新たな部門にトライ!

電気代が高騰してるので、その“電気代削減“にも力入れたいと思います。

やるなら圧倒的な削減額目指し、実績作りのため先ずは店舗数の多い飲食企業様に限定して案内していこうと考えるます。

そしてより多くの飲食企業様のサポート出来れば…。

「キイストンに任せたら安心」を浸透させたいです。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年5月2日金曜日

「書籍は武器になる」2025年は企業様の書籍を5冊は出版します!

自分の著書があるので書籍の強さ・メリットがわかってますから言えますが、「書籍は武器になる」です。

それを実感してもらうように、2025年はキイストン出版から5冊企業様の書籍出版させる予定です。

既に3月末に1冊目を出版、6月末に2冊目の出版を予定で、いずれも飲食経営者の書籍です。

あと3冊の書籍出版に向け営業提案を開始しよう。

といっても、無理にではなくお客様の武器作りのお手伝いって感じかな。

今ならブレーンの方もしっかりいるので年内7〜8冊は可能かな。

是非ともキイストンにご相談ください。

https://www.keys.ne.jp/keystone-publishing/

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2025年5月1日木曜日

『 Rocket Now(ロケットナウ)』凄いわ!!。


“Rocket Now(ロケットナウ)”運営の『coupang(クーパン)』様凄いわ~!!。
年商45兆ウォン(4兆5千億円)
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2025年4月28日月曜日

株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バルニバービ オーガスト 代表取締役社長 田中亮平氏登場。

本文より~

世界大会2位の大仕事。

警察官だったというだけで異色のキャラだが、大学生時代に柔道で世界学生2位になったというから驚きだ。見た目はシャープで、スタイリッシュ。柔道で世界の強者たちとたたかった姿は思い浮かばない。
柔道と田中亮平。その両者のつながりを探るところから、今回のインタビューはスタートした。
「物心ついた時から柔道着を着ていましたから、柔道をはじめたきっかけを聞かれても困っちゃうんですよね」。
今回、ご登場いただいたのは飲食業界をリードする「バルニバービ」のグループ会社「バルニバービ オーガスト」の代表取締役社長、田中亮平さん。
話はつづく。
「オリンピックを意識したのは、中学3年生の時です」。
個人戦で全国優勝したそうだ。
「まさか優勝するとは思ってなかったから、びっくりした」と田中さん。じつは、全国大会に出場できただけで満足していたそうだ。
それが、結果、全国でいちばん。決め技については聞きそびれたが、この優勝が田中さんの人生の決め手となったのはたしか。
「優勝したことで推薦をいただき、産大高校という、兄も通った関西では名門の高校に進みました」。大学ももちろん、柔道で進学。軽量級が強かったという「京都産業大学」に進学し、全国2位が2回、3位が1回という好成績を挙げている。
「大学になると強制されることもなくなって練習も手を抜くからだんだん弱くなって。いままで負けたことがない相手に負けちゃいました」。
いままでは柔道が日常すぎて、特別な思い込みはなかったのかもしれない。
熱心に柔道を語ることはない。
「だけど、やっぱり、負けたら負けたで悔しくて。なんで負けたのか。はじめて自分の柔道について考えるようになったんです。 力・技・スピード。自分の長所・短所を分析して、改めて相手に向かっていくことで、勝ち負けとはまた異なる世界を楽しめるようになったんです」。
田中さんはトップレベルの選手になると、力の差はそうないという。これも、大学になって気づいたこと。
バンカラとは言わないが、恋とか、ファッションとかとはちがったもう一つの世界。大学を卒業した田中さんは、まっすぐに警察に就職する。
「私たちの世代は氷河期だったもんですから、民間で柔道をするのはむずかしかったです。それで、警察に就職したんですが。私の場合は大阪府警の看板を背負って試合をするのが、本業というか」。
もちろん、その本業で、大仕事をやってのけた。

新たな試合。

田中さんは1976年、大阪府門真市に生まれている。お父様は大阪市内で問屋を経営されていた(現在は、お兄様が継がれ、30億円の売上を上げておられるそうだ)。
「警察に3年間務めたあと、その実家の仕事に参加します。ただ、父と兄が2人で経営していて、私は社員のなかでもいちばん下っ端です」。
<世界学生2位も、父や兄には頭があがらない?>
「そうですね。実家にいたのは2年くらいで、色々あって、追い出されてしまうんです。バルニバービに転職するきっかけと言えば、きっかけですね(笑)」。
27歳の時だったそう。
「それまで、アルバイトもしたことがないでしょ。警察に就職しましたが柔道が本業でしたし、そのあとは実家。そういうこともあって」。
じつは、田中さん。実家の仕事を辞めたあと、3ヵ月間、ニート生活を送っている。
その時を振り返り、「自由ってむちゃくちゃしんどいのがわかった」と笑う。
柔道で鍛えた筋肉が「何かをしろ」と、田中さんの背中を押したのかもしれない。
ともかく、27歳。はじめて、きらびやかな世界へ、踏み入る。田中さんの、新たな試合が始まった。

アルバイトから正社員、へ。配属先は旗艦店「GARB」。

<初めての仕事はいかがでしたか?>
そうたずねると「イジメられた」と笑う。
「もう27歳、正社員になったのは28歳でしたから、年下の子から煙たがられたのか、イジメられて。私自身が勝手にそう思い込んでいたのかもしれませんが」。
飲食は未経験だったが、社会人経験は長い。警察という大組織も経験している。
「初めて、代表の佐藤(バルニバービの現会長、創業者の佐藤裕久さんのこと)のセミナーを受講したあとに、感想みたいなのを書くんです。はっきりと覚えてはないんですが、飲食というのは組織が弱いと生意気なことを書いたような(笑)。ただ、それをみた佐藤が『あいつを正社員にしろ』と。そういう意味では、評価されたのかもしれませんね」。
かくして、正社員へ。配属先は、当時の旗艦店、南船場の「CAFE GARB」。
「GARB」は1995年に創業。田中さんと同世代のトレンドに敏感な人は、だれもが知っていたんじゃないだろうか。カフェという文化をつくったのは、まちがいなく「GARB」である。
「最初はドル箱だったんです。ただ、私が配属されたのは、カフェってだれでもできるから競合もつぎつぎできて業績が落ち込んでいた頃です。たしか、7年目くらいだったかな」。
4階建、4フロア。3階、4階に客の姿はなく、2階は稼働するのも、週末のランチだけ。「GARB」の名だけが、残る。へたをすれば伝説になっていたかもしれない。
「業績が悪いから、当然、給料も安いです。労働時間はぎゃくに長い(笑)。とにかく、当時は終電が終わっても帰してもらえないから、車通勤です。でも、パーキングを利用してたら給料がそれで飛んじゃう。もと警察官ですから、だからどうしたかは、内緒ということで(笑)」。
給料の額を聞いて、驚いた。たしかに、顔をしかめたくなる。
<辞めようとは思わなかった?>
思わず、そう聞いてしまった。
「たしかに、そういう選択肢があったと思いますが、私の場合は辞めるというよりどうすれば給料が上がるのか、そっちを考えました。売上と利益、シンプルですが、まずそこだな、と」。
現実と向き合い、そこから逃げない。世界と戦ってきた人の発想は、やはりちがう。もっとも、飲食の経験は少ない。言うは易く、行うは難しである。しかし、田中さんは、その難しいことをやってのけてしまう。

GARB、ふたたび。

「たまたま、高校時代のともだちが通信系の営業をしていて。まだ、ガラケーの時代だったんですが、彼と、戦略を色々立てて、今でいうWEBでマーケティングを仕掛けます」。
「GARB」という資産を活かした戦略的なアプローチを取る。「GARB」の魅力が改めて拡散されていく。それが功を奏したんだろう。最盛期にはウエディングのパーティーで、4フロアが各4回転することになったという。
「1000万円いくかいかないかだった利益が、8000万円くらいになった」と田中さん。とんでもないV字回復。いや、もはや、以前の「GARB」を追い抜いていたにちがいない。
田中さんの給料も、もちろん、うなぎのぼり。スタッフの給料は、田中さんの権限だったから、そちらも、改善した。
ちなみに、「GARB」はバルニバービが子会社化を進めるきっかけとなる。
この「GARB」で田中さんは9年連続、前年比の売上・利益をクリアしたと言っている。10年目はさすがに、売上はクリアできなかったが、利益ではクリアした。
なにが、それだけ、田中さんの背中を押すんだろうか?
・・・
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2025年4月24日木曜日

「食べログ求人」、これからが楽しみです。

「食べログ求人」、これからが楽しみです。

「求人飲食店ドットコム」の競合になるのかな・・・。

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株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。

本文より~

ピアノと、少年と。

教室にピアノの音が響く。メロディが流れだすと、だれもが口を閉ざした。
「授業でピアノを弾いたとたん噂になって」。
これは、今回、ご登場いただいたバルニバービ インターフェイスの代表、中村さんが中学生の時の話。「小学2年生のときに、ともだちがオルガンでドラクエを弾いていて、かっこいいなと思って、ピアノを習いにいったのが始まりです」。
「中村はピアノがめちゃくちゃ巧い」。噂は学校中に広がって、合唱コンクールでも卒業式でもピアノを披露することになった。ホームページの自己紹介では「ピアノはショパンまで」と書いてあった。
「運動は苦手だった」と中村さんは正直だ。
「サッカー部に入りましたが、ほぼ幽霊部員。運動はイマイチでしたが、音楽は得意でしたから、将来は音大へ、なんて思っていました。でも、実際は京都外大です(笑)」。
「うちはガチガチの公務員一家ですから、息子の私にもとにかく『公務員になりなさい』と言っていました」。
実は、中村さん、公務員の試験を受けている。
「数学が苦手で、大学も外大でしょ。語学はできたんですが。公務員はマルチな分野の知識がないと、ちょっと無理。で、だんだん就活自体も面倒になって、公務員どころか就職もせずフリーター生活をはじめます」。
中村さんは、高校時代、大阪・梅田にオープンした「リッツカールトン」のオープニングスタッフとして採用されている。「こちらは高校時代の話です。リッツカールトンに直接採用いただたわけじゃなく、配膳会社に登録していましたから、ほかのホテルや芸能人のディナーショーでも配膳の仕事をしています」。
中村さんは、大学4年までこの仕事をつづけている。もっとも、就職で外食は選択肢になかった。
「車が好きだったんで、ディーラーもいいかな、とは思っていたんですが」と中村さんは苦笑する。飲食はもちろん、音楽の道もまた、なかったようだ。

バルニバービと、カミングアウトと。

「卒業してからは俗に言うフリーターになって、倉庫の仕事と、ワインバーの仕事をかけもちしていました。倉庫の仕事がいま一つだったこともあって、ワインバー1本にします。そうなると昼が暇でしょ。そのとき、バルニバービの求人に出会ったんです。7月にアルバイトで入り、翌年1月に正社員に登用いただきました」。
バルニバービは1995年、大阪の南船場に1号店となる 「アマーク・ド・パラディ」をオープンしている。以来、様々なカフェをオープンし、現在は「地方創再生事業」にも乗り出している。
「当時は、まだ10店舗程度で、何者かもわからないようなフェーズでしたが、バルニバービの世界観が私には似合っていたんだと思います」。
「でなきゃ、今頃、息苦しくて」と中村さんは笑う。中村さんは「セクシャリティがバイセクシャル」なんだという。
「カミングアウトは25歳のとき。バルニバービに就職していて、ある上司に相談したのが最初です」。
そのときの上司とは「バルニバービ オーガストの田中亮平社長」のこと。
田中さんとの関係についてもうかがった。
「田中さんにお会いしたのは、2004年にカフェカーブに配属になったときです」。
「田中さんのほうが3つ上」と中村さん。たがいにないモノをもっていたという2人は、上司と部下という関係でもあったが、ともにたたかってきた仲間でもあった。
田中さんの役職が上がると、いっしょに中村さんの役職もあがった。
「田中さんも経歴がユニークで、大学時代に柔道で世界2位になっていたり、前職が警察官だったりで。でも、公務員って頑張っても、頑張らなくても給料はおなじでしょ。そういう世界が、いやになってバルニバービに転職してきたそうです」。そういって、中村さんは可笑しそうに笑う。

バルニバービの初の子会社。

「田中さんと出会った『カフェカーブ』は、バルニバービの初の子会社です。そこからも、だんだんと分かれ、今(2024年)では、10の子会社があります。私が社長を務めるバルニバービ インターフェイスもその一つ。バルニバービが店をオープンして、子会社が、その店を運営するというスタイルです」。
「会社単位ですから、ハンドリングもわりと自由です。利益は、本体とシェアしますから、利益を上げれば当然、みんなのギャランティもあがる。運営の方法も私たち主導で行っていきますので、実績があがれば自信になりますし、失敗も含め、それが経験になっていきます。この経験はグループの新たな店づくりに参加したときや、独立して店をするときにも役立ちます」。
たしかに、たしかに。すでに独立した人も少なくないらしい。「うちでは、独立希望者も積極的に採用し、独立の支援も行っています。バルニバービのネットワークをそのまま利用することもできますから、比較的独立のハードルは低いです」。
ところで、田中さんに最初にカミングアウトしたときの話。田中さんは、どんな反応だったんだろう。
「田中さんは、ぜんぜん驚かないで、逆に半泣きになってはやく気づいてやれなくて、ごめん、って。田中さんのおかげでマイノリティっていう意識が、いい意味でなくなりました」。
以来、2人は、互いの得意分野と苦手分野をカバーするようにして、二人三脚で、業績を上げてきた。
「仕事のパートナーっていうとおこがましいですが。そうそう、じつは、このインタビューが始まる少し前にも話をしていたんです」。
2人の関係がうかがえる話ですね?。「そうですね。実際、いっしょに店をやったのは3~4年ですが」。田中さんが子会社の社長になると、中村さんが、執行役員となって田中さんをサポートしてきた。
切磋琢磨、というのは、この2人のことをいうのだろう。「性格もちがうし、思考もちがう。ちがうからこそ、気づきもあるし、おぎなうこともできたと、私はそういうふうに思っています。もちろん、感謝は尽きません」。

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株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏

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2025年4月15日火曜日

「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”もスタートします。

「飲食の戦士たち」見て、いろんな出版社がアプローチしてます。

採用の武器としては書籍は強いツールとなります。

「飲食の戦士たち」シリーズ“再現ショートドラマ編(season2)”に続き、コロナ前から進めてた「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”を2025年は5冊やる予定です。

74歳、人生で“やり残した夢”に挑む――とんきゅう株式会社・矢田部武久会長が綴る、感動の実話ノンフィクション!

新刊『Feel The Earth 74歳アメリカ大陸縦断トラック・キャンパー夫婦旅』刊行のお知らせ

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キイストンよりニュースリリース配信しました。

株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏登場。

本文より~

高校を卒業するまでの、髙上さんの話。

「中学入学早々、どつかれた」と笑う。
今回、ご登場いただいたのは株式会社ピアッティーベッラの代表取締役社長、髙上 彬さん。ピアッティーベッラは、あのバルニバービの子会社の一つ。
バルニバービのグループ会社は、バルニバービ インターフェイス、バルニバービ オーガスト、バルニバービ ウィルワークスにつづき、今回で4社目となる。出会ったのは、いずれも異色のキャラクターだった。今回も、「どつかれた」から話がスタートしたから、期待せずにはいられない。
では、お話をうかがっていこう。
「私は小学6年生まで神戸市で育ちます。小学生の頃の楽しみは、祖父が経営する酒場のお手伝い。毎日のように通ってお小遣いをもらっていました」。
小学生にとっては確かに楽しいアルバイト。さぞ、赤ら顔の大人たちに可愛がられたことだろう。
「中学から広島に引っ越し、私はバスケットボールを始めます。どつかれたのは、この時。髪の毛を染めていたのがあかんかったですね。バスケットボールの成績は市で2位、県でベスト4、近畿大会まで進みました」。
「もし戻れるならもう一回やってみたい」と、当時の話をしながら、髙上さんは目を細める。「監督から、彬は誰より『楽しんどけ』『笑っとけ』と言われていました。副キャプテンで、ムードメーカーだったんです」。
最初から意識していたわけではないが、そう言われて、「はじめて意識してやるようになった」とのこと。
これは、今も実践していることの一つだそう。
「バスケットボールを引退した後、ボクシングを始めました。母親から『男は格闘技やれ』と言われていたんです。階級はバンタムあたりです。高校3年間はボクシング漬けでしたが、プロは意識していなかったです。ただ、楽しいからつづけていたっていうのが、正解です」。
小学生の時と背丈はちがうが、あの時とおなじように「大人に混ざってやってるのが楽しかった」らしい。
ボクシングのかたわら、ダンス教室にも通っている。
ボクシングに、ダンス。だれよりも笑って、たたかい、踊っていたに違いない。その一方で、「じつは、高校1年の時から海外に関心があって行ってみたいと思っていたんです」。
話は、いろいろなところに飛んでいく。

バンクーバー。ストリップと黄昏時のメキシコ。

「黒人の文化っていうんでしょうか、彼らの音楽にハマってダンスが好きになって。その延長線上で、海外に行きたいと思うようになるんです」。
行動力は、ピカイチ。今までの話でもわかるが、高校を卒業するとためらうことなく日本を離れる。
「学生ビザで、カナダのバンクーバーに渡ります」。「じつは、辻調理師専門学校にも興味があった」という。
やりたいことが、満載。バンクーバーでのお話もうかがったが、いかにも髙上さんらしかった。
「語学を覚えなきゃいけないんですが、私の場合は、ストリップ劇場でマスターします」。
<ストリップ?>
「ストリップといっても、ワンドリンクをオーダーすればいいだけです。ストリップとお酒を楽しみながら、会話を楽しむ感じです」。
なんだかバンクーバーっぽい。ただ、そのバンクーバーっぽいロケーションのなかで、東洋から来た青年は、どんなふうに映っていたんだろう。
ドレッドヘアで、リンゴを齧り、自転車に乗る。風景がいい感じに後方に流れていく。「そう、そういうのをやりたかったんですが、買った自転車は、その日にパクられます(笑)」。
旅にも出た。
「もともと、海外に行く目的の一つに人見知りを直すっていうのがあったんですね。周りからはムードメーカーなんて言われていたんですが、じつは案外、人見知りで」。
<だから旅にでた?>
「そうです。1人でテントで野宿したこともありますし、ともだちと2人でメキシコまで行こうと言って、国境で色々あって、なぜか私だけメキシコに放り出されて。もう、黄昏時だったんですが、ギャングみたいな人がいっぱいいて(笑)」。
「もうあかん、と思った」とこちらを笑わせてくれる。
言葉は、つたないままでもなんとか通じたそうだ。
青年時代の1ページ。
「バイトは、ホットドッグショップで」。
ボディーランゲージ入りのコミュニケーションで、ホットドッグを渡し、お客様と会話する様子が目に浮かんできた。

かっこいい、飲食店。

バンクーバーでの留学生活は2年。帰国した髙上さんは、広告代理店に就職する。
「求人広告の代理店で、私の戦場はスナックビルでした(笑)」。契約をいただくために、スナックに飛び込んでいたんだろうか?
「じつは、この仕事が、今の仕事に就くきっかけ」と髙上さん。
<どういうことだろう?>
「心斎橋の、これはスナックじゃなく、カフェに営業をかけた時に相手の担当者がむちゃくちゃ格好いい人で。営業マンの私がぎゃくに心をつかまれてしまって」。
<それでどうしました?>
「急に、飲食へ進みたくなるんです。ただ、働くにしても、飲食店は言うたら山のようにあるでしょ。それで、リサーチしようと思って厨房設備のメーカーでアルバイトを始めます」。
<いいお店はみつかりましたか?>
髙上さんは、「うん」とうなづく。 
「ある日、イタリア人がオーナーのレストランに冷蔵庫を設置しに行くんです」。
急な階段を上がる。その急な階段が「イタリアにある洒落たレストランのようだった」と髙上さん。内装も、イタリアさながらで、当時はめずらしいピザ窯もおいてあったそう。
厨房からは、笑い声がもれてくる。「オーナーも男前で、とにかく、かっこいいの一言。翌日さっそく、食事に行きました」。
トントン拍子とは、このこと。
食べに行って旨かった→働かせて→じゃあ、明日から。
「君は『ジャコミ(GIACOMI)』ねと、あだ名までつけられた」と笑う。
このあだ名は今使用しているジャコモ(GIACOMO)とは意味合いが少し違うらしい。
ジャコミは、イタリア語圏の男性名で、どちらかというと小さい子供につかうあだ名。バルニバービで働く中でGIACOMO(ジャコモ)に、大人になろうという気持ちを込め、現在ではGIACOMO(ジャコモ)を名乗っているそう。
それにしても、翌日からとは営業の仕事のほうはどうしたんだろうと、多少、気にはなるが、はしょってつぎに進む。

イタリアレストランから、バルニバービへ。

「オーナーはイタリア人でしたが、従業員は日本人です。ホールからスタートします。厳しかったですね。朝から夜までです。2年半くらい経ってポジションが空いたのでキッチンに配属してもらったんですが、こちらもむちゃくちゃ厳しかったです。でも、そのおかげで、本格的なイタリア料理をマスターできました」。
「合計5年働いた」という。
「流行っていましたしね。私も正直、天狗になっていたと思うんです。ホールの時にはソムリエの資格を取得していましたし、もちろん、料理は本格イタリアンです」。
<退職されたのは、どうして?>
「この頃には、もう立派な飲食人ですから、いつかは独立というのが頭にあって。この店では料理はマスターできたんですが、お金のことはオーナー以外ノータッチ。経営に関してなにか言おうもんなら、『出ていけぇ~』ってなるようなオーナーだったもんですから。経営について勉強できる店に移ろうと思っていたんです」。
<それがバルニバービ?>
「正確にいうと、バルニバービの創業者で現会長の佐藤裕久さんがちょくちょく食事にいらしてたんです」。
<佐藤さんもかっこいいですよね>
「そうですね。で、それが縁で、バルニバービではたらかせていただくことになりました。最初に配属されたのは、『アマークドパラディ』で、席数60席。私は、数字のほうを管理したかったから、ホールとして採用いただきました」。
「ぶっちゃけ、下にみていた」と、髙上さん。
「当時、バルニバービって言えばガーブだったんですが、私たちからすればカフェでしょ。こっちは、本格イタリアンですから。料理については、特に下にみていたんです。でも、すぐに鼻を折られたっていうか」。
「とんでもない人がいた」と髙上さん。
バルニバービの創業メンバーで、内定をもらっていた就職先を蹴って、創業者の佐藤さんと冒険にでた人だという。「もう、むちゃくちゃ怒られた」と笑いも多少ひきつる。

佐藤会長からの一言。

「入社してすぐにランチ、担当です。『なにをやってもいい。とにかく、ランチのセールスをあげろ!』って。そんなことを言われても、なにをどうすればいいかわからない。窮地に追い込まれます」。
<どうされたんですか?>
「もう、捨て身で、『じゃんけん大会』でしょ。『◯◯さんを連れてきたら、ドリンク一杯サービス!』なんて無理くり企画を絞りだして。ところが、案外、その捨て身の企画があたって、ランチが大盛りあがり」。
飲食のカテゴリーが、食事一つでないことがわかった。お客様がハッピーになる。飲食の正体は、たぶん、これ。ジャンルは、その方法論のちがいなのかもしれない。
<佐藤会長とは、お会いされましたか?>
「入社してからは、そうそう話す機会はなかったです。ただ、一度、食事をする機会をいただいて」。
「経済か、経営か、そういう話を期待していた」と、髙上さん。経営を知るのが、バルニバービに転職した理由だったから、それも当然だ。
「でも食事の間、佐藤はぜんぜんそんな話はしないんです。こっちはなにか指導して欲しいんですが。ただ、その時、言われたことは今も鮮明に頭に残っています」。
<何を話してくださったんですか?>
「佐藤会長って言うたら、私らからしたら、むちゃくちゃかっこいい神のような経営者です。さぞ、かっこいいことをおっしゃるんだろうと。話についていけるか心配していたんです。でも、ね。昔、中学の時、バスケの監督に言われたようなことを言うんです」。
「へぇ、佐藤さんも、こんな泥臭いこと言うんや。そうか、飲食の大事なことはやっぱりそこなんやって」。
むちゃくちゃ感動したにちがいない。たぶん、飲食の仕事をしている限り、忘れない。
佐藤さんは、髙上さんをみてつぎのように言われたそうだ。
「お前の仲間は笑っているか? お前はだれより笑っているか?」

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株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏

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