2017年2月28日火曜日

株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏登場。
本文より~

仲間と別れ、改心するために、向かった四国。

中山氏が香川県で生まれたのは、まだ父親が修業中のことだった。
「讃岐ですから、うどんの修業です。私が5歳の時に、父の実家があった茨城県結城郡に引っ越し、念願の店をオープンします。そうですね。かなり大きなお店でした。バブルが終わったあとですが、それなりに儲かっていたように記憶しています」。
中山氏は3人兄弟の次男で、兄と妹がいる。「兄は結構マジメだったんですが、私は中学の頃から周りにもたくさん悪友がいて、学校にもあまり行かない悪ガキでした」。
両親は仕事でいそがしい。中学の頃から早くも親離れである。しかし、いつまでも周りの悪友と付き合っているのも、性に合わなかったそうだ。
「だいたい人からとやかく命令されるのがイヤな性格なんです。にもかかわらず、周りの奴らといっしょにいると、だんだん先輩たちがいろんなことを指図するようになってきて、組織を抜け出そうと思ったんです。ですが、ご想像通り、縁を切りたくても、そうは簡単にはいきません(笑)」。
ヤキの一つでは済みそうもなかった。
「それで、逃げ出したんです」。
逃亡先は、四国。
「逃げ出したもう一つの理由は母親です。母は、私がどんなことをしても、陰であの子は『いい子なんだ』と、私をかばいつづけてくれていたんです。そんな思いをさせるのが、もう苦しくなって。だから、改心する意味もあったんです」。
父は、修業のために瀬戸内海を渡った。息子も、また、目的は違うが、そのあとを追った。

逃亡先でみつけた、音楽の魅力。

「四国では、母の知り合いの店ではたらかせてもらったんですが、逃げ癖がついていたんでしょうね。最初は、『はたらいては、辞める』の繰り返しです。ぐーたらが染みついていたのかもしれません」。
初めての社会である。きびしいことにも、理不尽なことにも慣れなければならない。「指示」という「命令」も、当然ある。それでも、母の知り合いのラーメン店からスタートし、会社は替ったりしたが、ともかく2年間、四国で暮らした。
「四国で暮らしてから、独り暮らしのわびしさっていうんでしょうか。それを紛らわせるためもあって、音楽に傾倒していきます。好きだったのは、XJAPANです。だんだん、音楽に対する思いが膨らみ、今度は東京にある音楽の専門学校に進みました」。
もともと音楽が好きだったわけではないらしい。楽器の経験があったわけでもないそうだ。にもかかわらず「専門学校」に進む選択をする。それなりの自信があれば別だが、かなり勇気もいり選択ではなかったか。
「ちょうど18歳の頃ですね。学校に通いながら、バンドも組んでいました。音楽活動一本です」。
実は、中山氏は専門学校も途中で辞めている。だが、今度は逃げるためではなかった。むしろ、アーティストになるために、進んで「専門学生」という肩書を捨てたと表現したほうがただしい。
「私は学校も辞めて『デビューにまっしぐら』と思っていたんです。メンバーたちと温度差があったのは事実です。彼らは、趣味のレベルを少し超えたくらいだったんです。彼らは、だんだんかけていきます。年齢も、もう25歳くらいの人もいましたから、仕方ないといえば仕方ないですよね。現実と向き合う、そういう選択を迫られていたわけですから」。
理屈ではわかっても、心では理解できないこともある。「結局、2年くらいで私自身ギターを置くようになりました。それ以上、バンドをつづけることができなかったからです」。

なくした指標とみつけた志。

バンドを組んで、メジャーになる。人生の羅針盤は、その方向に向いていた。しかし、メンバーがかけていくこともあって、いつしか、その思いへの磁力がなくなった。
「バンド活動は、週2~3日。結構、マジメにやっていました。もちろん、バンドだけでは生活できません。当時、勤務していたのは、貿易会社の社長が趣味と言っては怒られるかもしれませんが、片手間で経営していた居酒屋です。だから、好きなことをさせてもらえました」。
もともと飲食を仕事にすることに抵抗はない。逃亡先の四国でも飲食の仕事をしていただけに、即戦力になれるくらいの自負もあった。
「もっとも最初は、バンドがメインで、こちらも片手間のアルバイトです。その店でアルバイトを始めたのは、バイトなのに寮までついていたからです。ま、代わりにバイトでも週5日は入らなければいけなかったんですが(笑)」。
最初は、たしかにバンド優先だった。しかし、バンドへの思いがなくなってからは、飲食が第一になった。いい店長に出会えたことも大きかった。
「当時の店長が経営のことが好きで、いっしょに株主総会とかに連れて行ってくれたり、『ビジネス本を読め』ってハッパをかけてくれたりして。あの頃は、レコード会社をつくるつもりだったもんですから、私自身、前向きに勉強しました。言い方をかえれば、そのおかげでレコード会社はつくれませんでしたが、飲食会社はつくることができました」。
バンドを辞めて、みつけた志。それは「独立」という二文字に凝縮される。

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株式会社SSS(スリーエス)代表取締役 中山俊士氏
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2017年2月21日火曜日

株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エスクリ 代表取締役 社長 渋谷守浩氏登場。
本文より~

4代目。

奈良県桜井市は、奈良県の中部に位置する都市。歴史は古く、ヤマト王権の中心地とも言われている。今回ご登場いただいた、株式会社エスクリ代表取締役社長、渋谷守浩氏が、この桜井市に生まれたのは1966年のことである。渋谷家は、代々事業家であり、創業者でもある曾祖父は、郵便を山間部の人たちに届ける飛脚業をされていたそうだ。
「曾祖父から数えて私で4代目です。2代目の祖父は、曾祖父の事業を、木材を運送する事業にシフトします。山間部では吉野杉という有名な杉が採れますから、郵便よりこっちが儲かると判断したからです」。
儲かると言っても危険で、当時のように牛や馬で木材を運ぶことは、それ自体が命がけだったそうである。
「私の父の代になってからは、運送より林業家のほうが儲かると、今度は製材業にシフト・チェンジです。とにかく現状に甘んじない、変化をし、進化をし続ける、これが、たぶん、うちの一族の正体なんです(笑)」。
いまはもう、渋谷氏の代になっている。「私は、製材業から建設業にシフト・チャンジします。4代かけ、だんだんと進化をしてきたわけです。さらに、私の代でパラダイムシフトを行いました。挙式・披露宴の企画・運営を行う、上場企業、株式会社エスクリのグループ会社となったんです。
建設業へのシフトは父親も賛成だったが、エスクリの傘下りについては猛反対。父親だけではなく、親戚一同からも猛反発をくらったそうだ。しかし、すでに社長になっていた渋谷氏は反対の声を押し切った。

少年に起きた、奇跡。

渋谷氏は、3歳の時に大怪我をした。父親が製材業を開始した直後、フォークリフトの下敷きになったのだ。
「足切断のピンチだったんです。医師からは切断を勧められたそうなんですが親父がまったく納得しません。医師が黙って切断しないように、手術室まで入って見張っていたそうです」。
手術はとりあえず終わったが、切断しなかったことで状況は以前より悪くなる。「そうなると親父も観念したのか、有名な医師を連れてきて、『これでだめなら』という話に落ち着いたそうです」。
つまり、だめなら足切断。だれもがあきらめていたそうだ。
ところが最後の最後になって父親の思いが天にとどいたのだろうか。

奇跡が、起こる。
「切断しなければいけないと言われていたのに、やがて格闘技も習いますし、高校ではレスリングの国体強化選手に選ばれました。足は奇跡的に治り、治ったどころか、それだけ動かせるようになったんです」。
いつの時の運動会だっただろうか。渋谷氏が出場するというので、親族も集い、固唾を飲んで渋谷氏の走りを見守っていてくれたそうだ。果たして、うまく走れるんだろうか? しかし、渋谷氏は、そんな心配もどこ吹く風というかのように、観戦する親族の前を駆け抜けた。あとから大歓声が追いかけてきたそうだ。
「みんなが泣いてくれていて、あのシーンはまだ記憶しています」。
足が完治する。もともとわんぱく小僧だ。しかし、小学校ではイジメにもあったそうだ。
「『お金持ちやろ』って。金持ちがええかっこしぃにみえた時代だったんです。昔のイジメはカラっとしていたっていう人もいますが、あいつらは、けっこう陰湿やったんちゃいますか」。
いまとかわらない陰湿なイジメ。しかし、当時はいまと違って登校拒否などできなかった。
「最初は、からかわれるたびに落ち込んでもいたんですが、段々、言われっぱなしっていうのが我慢できなくなって。でも、ケンカしても体格が違うし、敵いそうありません。実はそれで、格闘技を習い始めたんです」。
4代かけ、4つの事業を行い、上流工程に上り詰めたように、これも渋谷家の伝統か、とにかく長い目でものをみる。いまは敵わないが、いつかきっと。
格闘技のセンスがあったのだろうか。それとも目的があったからだろうか。ともかく渋谷氏は、みるみる上達する。体格で劣っても、もう負けないと思うまでになった。
2年生になった時にはメキメキと頭角を現した渋谷氏は、イジメの筆頭だったクラスメイトとも対等な関係となるどころか、上回る存在になっていた。
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2017年2月17日金曜日

株式会社富士達 代表取締役社長 川上富達氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社富士達 代表取締役社長 川上富達氏登場。
本文より~

鹿児島県最南端の島。

与論島は、沖縄にもっとも近い鹿児島県最南端の島である。地図で確認いただければ、日本の領土の広さを再確認できる。南の海のはてに、鹿児島県の小さな島があることがわかるからだ。
さて、今回ご登場いただいた川上氏が、この与論島に生まれたのは1956年で沖縄返還以前。だから与論島は異国と接していたと言える。
0歳から5歳までは、与論島で暮らし、教師だった父の赴任にともなって、いったん与論島より2,3倍大きさのある島に渡り、小学5年生の2学期になって与論島にふたたび戻りました。沖縄が返還されたのは、私が中学2年生の時です」。
腕っぷしが強かったのだろう。中学生時代、柔道の団体戦で群の大会で準優勝し、個人でも3位に入っている。ところで今では観光スポットの一つだが、当時の様子はどうだったんだろう?
「いまは飛行機がありますが、当時は、島を出るには船しかありません。だから、私も高校までは家族旅行など以外では島をでたことがなかった。もっぱら海が遊び相手でした」。
いまでも美しい島だが、当時は、いまよりも尚、美しかったに違いない。その美しさに憧れ、やがて多くの人たちがやってくるようになり、観光名所の一つとなる。しかし、島に憧れるのは都会の人間で、島で暮らす住民にとっては、便利で、近代的な都会に憧れていたはずだ。川上家の兄弟も、みんな島を出た。

千数百キロ離れた街へ。

「高校生の時に、東京の立川で電気店を経営していた兄を頼って初めて上京します。東京は、それこそ憧れなんですが、一方では怖い街だっていう刷り込みがあって。笑い話ですが、お金を取られないように靴下にしのばせておいたほどです」。
島の高校生が初めて都会にでる。立川といえば23区外だが、それでも少年には目がくらむような街だったに違いない。
「あの頃から、漠然と起業を意識していたと思います。兄の影響もあったんだと思いますが。むろん、私だけではなく、みんなそういう風に何かを求めて島を出ます。島を出る最大のチャンスはいうまでもなく大学進学です」。
川上氏は、校長の推薦で法政大学の短期学部に進んだ。無事、島、脱出。千数百キロ以上離れた都会へと旅立った。観るものすべてが新鮮だった。
東京での暮らしは、少年を青年にする。大学を出ても島に帰るという選択肢はない。「大学を卒業して、求人誌をみて『吉野家』に就職します。『海外へ』と書かれていた求人誌の広告のキャッチフレーズが、心に響きました。もちろん、吉野家がダメだった時のために、他社も検討していたんですが、無事、合格。面接で人事の方にかなり褒めていただいて、『よっしゃ!』って感じです」。
「よっしゃ!」のはずだったが、入社してみると、全員、いたく褒められていた。川上氏だけが、特別だったわけではなかったようだ。
「ちょっとがっかりだった」と川上氏は、笑う。ともかく、社会人生活がスタートする。

吉野家、倒産。

余談ではあるが、「吉野家」についてである。
「吉野家」の創業は明治32年まで遡る。チェーン展開を開始するのは、1968年。「新橋駅前店」が2号店目である。7年後の1975年には、米国デンバーにも進出。積極出店をつづけた。
ところが、海外進出から5年後の1980年には会社更生法の申請を行い、事実上、倒産する。無理な拡大路線と、輸入牛肉の制限などが引き金となったようだ。
1980年と言えば…。
「そうなんです。私が入社して2年目です。2年目に倒産してしまうんです。もっとも倒産の理由は、客離れもというより、負債が最大の原因で、店自体は、それなりに繁盛していました。そういうこともあって、私は『吉野家』のフランチャイズをされていた会社に仲間8人で転職。ただ、色々あって、2年後の1982年の6月に退職し、『どん亭』大井町店をオープンします。こちらが創業店です」
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2017年2月7日火曜日

有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社アール.アンド.ビー守破離 代表取締役 増田 昭氏登場。
本文より~

両親の焼鳥屋さん。

「日本でいちばん給与が高い会社を作る」とスタッフにとっても嬉しい目標を掲げるのが、今回ご登場いただいた、有限会社「R&B守破離」の増田昭社長である。同社の看板メニューの「ローストビーフ丼」は、TVでも何度となく取り上げられているので、ご存じの方も少なくないはずだ。
 増田氏が生まれたのは、1958年。兵庫県の神戸市出身である。
「父は淡路出身で、母は高知出身です。父と母は、2人で屋台の焼鳥屋をしていました。小学校の頃は、好き放題。勉強もあまりした記憶がありません(笑)」。
ご両親の屋台は繁盛していたようで、屋台も2連結だったそうである。増田氏が、好き勝手できたのも、ご両親の目が、忙しい仕事に向けられていたからだろう。
ともかく昔の少年は、増田氏に限ったことではなく、ともかく奔放だった。TVゲームの代わりに、メンコやビー玉で遊んだ時代である。増田氏も、その1人だったに違いない。
 「中学でハンドボール部に入りました。ほんとは野球部とかが良かったんですが、何分、グランドが狭くって、そういう部活がなかったんです。でも、ハンドボールをやったのは正解でした。高校も、スポーツ推薦で、進むことができましたから」。
 高校時代には、ハンドボールでインターハイにも出場している。増田少年は、ともかく運動神経、抜群の少年だった。

息子は、焼鳥BAR。


「高校を卒業してからは、知人の紹介で東京にも行きました。遊び半分でしたが、和食の店に住み込んで1年半くらいは向こうにいました」。
増田氏は、「面白かった」と表現するが、住み込みに逃げ道はない。給料は安く、それでいて長時間労働が当たり前の時代の話である。
 「1年半くらいで神戸に戻ってきます。家の手伝いも少しはしました」。
実は、増田氏。1度だけ、サラリーマンの経験がある。「この時、知り合いに頼まれて、創業してすぐの会社に就職しました」。
着慣れぬスーツ、カッターシャツにネクタイをまき、革靴を履いた。
しかし、3日で、断念したそうだ。
「いやぁ、ぜんぜんあきませんでした。向いてないって思って、それで3日目に『辞めます』っていったんです」。
 「相性が悪かった」と増田氏。親和性という意味では、やはり飲食だったのだろう。
「両親が飲食店だったことも影響していると思いますが、私自身が昔から、『好き』だったんだと思います。起業しようと思い立って、最終的に独立したのは、私が25歳の時です」。
9坪で20席くらいの「焼鳥BAR」だった。

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2017年2月1日水曜日

株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏登場。
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「ホテルニューオータニ」に入社するまで。

「会社を立て直してくれ」の一言で、ネオ・エモーションと桑田氏の付き合いは始まる。「お世話になっていた現石橋会長の言葉ですから無碍にはできません。まずは取締役任期でという約束で、現在1年経ったところです」。
桑田氏が1年といったのは、2016年4月のことである。
桑田氏は1963年東京都葛飾区に生まれる。3人兄弟の長男。
「父は高校の教師で、予備校でも国語を教えていました。母は保育士。どちらも教育関係です。だからでしょう。教育にはかなり熱心でした。私も小学3年生から塾通いです。当時、塾に通っているような子はそういませんでした」。
「私が中学2年の時、妹の受験の関係で北千住に引越しました。それまで暮らしていたのは清瀬市です。当時は、すごい田舎でした。登校途中に鶏舎・牛舎があったくらいですから(笑)」。
北千住に引越した時には、カルチャーショックを受けたそうだ。都会はすごい。対照的に清瀬市が益々、田舎に思えたに違いない。
桑田氏は中学からバスケットボールを始めている。一方、猛勉強も開始し、見事、「立教高校」に進学。高校でも好きなバスケットボールに熱中した。
「大学は、社会学部観光学科に進学します。その一方で、かつて通った清瀬中で、女子バスケット部のコーチとしてデビューします」。
朝夕、練習に参加し、土日には試合を指揮した。女子生徒たちからは、鬼コーチとして怖れられたそうだ。
空いた時間を利用して、父親が経営する塾や友人の勤めるファミリーレストランでバイトもした。
「ファミリーレストランでのバイトが引き金です。漠然とですが、外食をやりたいと思うようになり、大学卒業後、『ホテルニューオータニ』に就職しました。もっとも叔母のコネ入社です(笑)」。

ホテル、調理師学校、イタリアレストラン…、旅が始まる。

当時、「ホテルニューオータニ」では入社から3年間のジョブローテーションがあり、4年目に行きたい部署を選択する制度が敷かれていたそうだ。研修制度も様々なものが用意されていたようで、桑田氏がチャレンジした海外研修もその一つである。
「社内で開催される英語のスピーチコンテストで、いい成績を残すとスイスのローザンヌ学校のサマースクールに行かせてもらえたんです。当時、私たちのなかでは最高峰の学校です」。
「何が何でも、と頑張った結果、選んではいただけたんですが、いかんせん実務経験が足りずに入学できませんでした(笑)。さすがに、かわいそうだってことになって、代わりにサンフランシスコのホテルで研修させていただきました」。
「『ホテルニューオータニ大阪』に転勤が決まったのは、その後」と桑田氏。この転勤が、人生の大きなターニングポイントになった。
「『ホテルニューオータニ大阪』では勤務も楽しく、学べることも多かったのですが、もっと勉強したいと欲がでて、辻調理師専門学校に勤める大学の先輩に相談したんです。その際、山縣副校長先生と出会いました。『ホテルニューオータニ大阪』に転勤していないと、山縣先生にお会いすることもなかったと思います。そういう意味でも、この転勤は一つの転機でした」。
面接で「学ぶのではなく、教えてみてはどうだ」。つまり、「生徒ではなく、講師をしてみろ」、とアドバイスされたそうだ。
「それで実は、大阪辻調理師専門学校で9年間、生徒を教えているんです。生活が安定したこともあって、37歳、2000年の2月に結婚。しかし、その翌月に辻調を退職します」。
結婚して、すぐに退社。奥様から見れば、心もとない選択である。しかも、しばらくして、山梨に向かった。むろん、理由がある。
「山縣先生の息子さんがイタリアレストランを経営されていまして、その方が、山梨のブライダル施設のなかにイタリアンレストランをオープンすることになったのです。それをサポートするために、1年間、向こうで寮に入って仕事をしました」。
 季節が一回りし、桑田氏は38歳になる。東京に戻った桑田氏は、前職の山梨のブライダル施設で知り合った総料理長が経営していた会社を手伝い、2001年8月からは半年、会議の運営代行を行う会社に勤務した。
「せっかく、就職した会社だったんですが、社内の労働環境が厳しい会社で、正義感じゃないんですが、経営陣の前で『やってられるか』と啖呵を切って、退職したんです」。桑田氏の男気を示すエピソードである。しかし、またまた職探しがスタートする。
「そのあとは、例の総料理長の会社を、企業化するコンサルティングを行いました。この時、1000万円を借り入れ、法人化を進めます。それを1年間で返済し、コンサル契約は、満了です」。
不安がなかったといえばウソになる。しかし、転々とすることで、新たな力を習得したのも事実だ。むろん、そのなかで、新たな人とも出会った。実は、この時、同社の法人化に尽力いただいた方が、ネオ・エモーションの現会長の石橋幸男氏である。

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株式会社ネオ・エモーション 取締役社長 桑田朋之氏
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