2016年1月29日金曜日

さらに拡大中の「飲食の戦士たち」の社長取材、充実していってます!!

ここ最近「飲食の戦士たち」で社長取材させて頂いた飲食企業の社長様です。
社長1人1人、生きざまにはいろんなドラマありますね~。
3月以降の「飲食の戦士たち」にて掲載しますので、乞うご期待ください!!
このペースでいくと3年以内に500社突破(取材総数1,000社)してしまいます。
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2016年1月26日火曜日

株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏登場。
本文より~

「韓国人の誇りを持って生きろ」という父親の言葉。

父は韓国済州島の生まれである。「父は18歳の時、裸一貫で済州島から日本に来ました。10人兄弟の長男で、家族を養うためもあったのでしょう」。当時、済州島での生活はけっして恵まれたものではなかったようだ。
母方も、在日韓国人である。「『韓国人として誇りを持って生きろ』が、父の口癖でした」と韓。来日し職を転々としながらも韓国人の誇りをけっして忘れなかった人である。
韓が3歳の時に、赤羽で喫茶店のマネージャーをやっていた父が亀有に焼肉店を開業する。
「亀有にいた頃は、祖母が私たちの世話をしてくれていました。当時の私は天真爛漫を絵に描いたような少年で、小学1~2年生の頃は夕方暗くなっても帰ってこないので良く『捜索願い』が出されたそうです(笑)」。「亀有の店を母の弟に譲って、小松川に移ったのは、私が小学4年生の時です。祖母は亀有に残ったものですから、それから兄弟3人、向かいの定食屋でごはんを食べるのが日課になりました。父も、母も忙しかったからです。数字のことまではわかりませんでしたが、流行っているのは子ども心に判っていました」。
父も、母も頑張った。子どもに注ぐ時間もなかった。子ども達もそのことは理解していたに違いない。ただ、父親に対する韓の気持ちは複雑である。頭では理解できたが、感情では理解に苦しむ父親だった。
「からだの大きな父は、正義感も強く、人望も厚い」と韓はいう。今では、ある団体のトップとなり、韓国大統領が来日した際には、会話も交わしている。
また、「済州島に残した家族には、来日してからずっと仕送りを続けていた」というから頭が下がる。だが、反面、家族に対しては、一方的でしかなかった。
韓は父のことをどう思っているのだろう。敬愛していることは事実だが…。いずれにせよ、その父のDNAは間違いなく、韓に受け継がれている。正義感も、大胆さも含めて。

国も、人も華やかな、バブル時代。

韓は、幼稚園から合気道を始め、小学2年生の頃には剣道も習い始めている。運動神経も悪くない。韓の兄弟は3人。韓は、長男である。「昔から仲がいい3人で、親父からもみんな平等に怒られた」と言って笑う。
もともと裕福だったが、それ以上の暮らしが始まったのは、高校1年生の頃からである。
「店を鉄筋3階建てに増築。菊川を買収し、新たに土地も仕入れました」。購入した土地を利用し、1階にゲームセンターをオープンし、2階で雀荘を営業した。バブルの頃である。その波にうまく乗った。そう言えなくもないが、借金も5億円程度に膨らんでいた。
「毎月の返済だけで、数百万円です。それでも、ぜんぜん問題がなかったようですね。もちろん、後にこの時の借金がクビをしめるんですが、当時は、日本全体がイケイケです」。たしかに、韓がいうように日本国中がアクセルを目一杯踏み込んでいる時代だった。その時代、韓は大学生だった。
「明治学院に進学しました。うちの家もバブル真っ最中です(笑)。小遣いが月5~6万円。私もバイトで月に十数万円儲けていたもんですから、お金には困りません。また、親父にソアラを買ってもらい、フェアレディZも乗り回していました」。
いま振り返っても、楽しくて仕方なかった時代だと韓はいう。
ところで、当時の新卒採用は売り手市場で、大企業が値札も観ずに学生たちを買い漁った時代である。それほど学生に優位な時代だったが、韓は「就職」しようと思わなかったそうだ。韓国人というレッテルが貼られてしまうことに、違和感があったからだ。
だから、企業に属さない「税理士」になろうと思っていたそうだ。実際、簿記の専門学校に入り直している。まだまだ学生をつづけていたい、という気もなくはなかったから、それで安堵したことだろう。 しかし、入学してからしばらくして、父から突然、呼び出された。

・・・続き

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株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏登場。
本文より~

高校を中退して、飛び込んだラーメン店。

幼稚園で、突然、極貧になった。父の会社が倒産し、両親が離婚したからだ。母と妹、3人、食べることも難しかった。
妹はまだ3歳。「いつの頃からか、私が父親代わりのような存在になって。母だけじゃなく、妹にも貧乏な思いはさせたくなかった」と新山。しかし、それが実現できるのは、まだ先の話。3人の生活は、まだ母親1人の背にかかっていた。
「母が、スナックをオープンしてからは、経済的には安定しました。しかし、それも一時の話で、私が高校生の頃に、母の店も閉店をよぎなくされました」。
新山氏は、高校を中退する。
「中学生になるまで風呂もないアパートに何年も住んでいました。だから、貧乏には慣れていましたが、もどりたいわけじゃない。もどらないために、私は、高校を辞め、翌日から台湾ラーメンの店で勤務します」。
店主からは、「やる気を持ってこい。汚れてもいいジーパンをはいてこい」と言われたそうだ。その店が、台湾ラーメンの名店「幸龍」である。

修業期間、12年。でも、オレは、まだまだだと思っているよ。

新山氏の修業は、12年に及ぶのだが、最初の2年で挫折しかけたことがある。
「幸龍は、すごく流行っていたラーメン店です。しかし、きつい。店主も、こわい。だから、だれもつづかない。私も、2年くらいで、一回、逃げ出してしまうんです(笑)」。
ラーメン店をトンズラし、引越しのアルバイトをしたり、イタリア料理店、大手ラーメンチェーン等で1年ちかく勤務した。
しかし、やはり中華だと思い直し、頭を下げ、「幸龍」に舞い戻った。
「幸龍は私とって、原点です。合計4年、イタリアン、大手ラーメンチェーンも含め6年ですね。そろそろ視野を広げたくなって、『白揚』というお店に転職します。幸龍も原点ですが、こちらも私のコアをつくってくれたお店です」。
「白揚」は「薄味だった」という。
「なにしろ、師匠はトンカツにも何もかけないんです。うそだと思うでしょ。でも、師匠に言わせれば、『揚げたパン粉には塩分があるだろ』って。最初は、ぜんぜんもの足りなかったんです。スープをいただいても、『これ、お湯だろ』みたいな(笑)。でも、慣れてくると師匠の言葉を、私の舌が理解するようになったんです」。
「この味を理解できたのは、大きい」と新山氏はいう。
「薄味とは元の食材の旨味を最大限感じられるよう、調味料を少なくしたもの。調味料で味付けしていないスープ、野菜を食べて甘いと感じるのは旨味を感じている証拠です」。
「薄味というのがわかって初めて濃い味もつくることができる。それを知ったのも、この店です」。
残念ながら、「白揚」は今はクローズしてしまったそうだが、新山氏がいた頃には、社長クラスの人たちをはじめ、野球選手、芸能人もお忍びで来るような隠れた名店だったそうだ。
この店で新山氏は6年間、勤務している。もっとも、計12年の修業生活も、新山氏にとっては「まだまだ」とのこと。自惚れないのが、新山氏らしい。

2008年8月1日、オープン。17歳から追いかけた独立の1日目が始まる。

17歳の頃から思っていたことがあった。独立である。
「だって、そうでしょ。母や妹にひもじい思いをさせないためには、それしかないから」。ちなみに、新山氏は、幸龍で勤務するようになってから、月に8万円ずつ母に渡している。そんな新山氏である。氏の言う通り、母と妹のためにも「独立」という二文字は、いつか実現すべきことだった。
「小さな頃から料理が好きで、中学校の頃にはもう周富徳さんが書いた料理の本を参考に料理をつくっては、友だちにふるまっていました。しかも、12年間の修業をへての独立です。まずいはずはないんです。ですが、自信とはうらはらに、オープンしてから何日たっても、1日、数人しか客がこないんです」。
「まじかよ」と、口をついた。「私がオープンしたのは、いまとおなじラーメン店です。ラーメンでもいちばん難しい塩ラーメンで勝負しました」。
 しかし、客が来ない。とはいえ、それでへこたれる新山氏ではない。ちなみにオープンは、2008年8月1日。

・・・続き

株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏
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2016年1月25日月曜日

はっ!としたこと。

「社員が8時間働いてくれることは、その命をもらってるの同じこと。」
先日の坂東太郎様の社長交代パーティーでコンサルの先生が挨拶でそんな話をされ、身が震える思いでした。

確かに、人は誰でも確実に歳をとり、有限である人の命の1日8時間はかなり貴重です。
若い時はそれがあまりわからない。
それがゆえ、昨日より今日。今日より明日なにか自身の成長につながり、結果関わる皆が幸せに感じないとダメだ!

人材育成と会社を強くすること。
そのために、毎日毎日後悔しないよう頑張ろう。

1月23日、山国小学校・昭和50年卒同窓会やりました!!

1月23日(土)、母校の山国小学校・昭和50年卒同窓会(男20人・女10人の計1クラス)を地元の京都府立ゼミナールハウスやりました。
30人中26人参加(ただ不参加の方からもビデオレターやメールもらいました)と参加率も高かったです。
※恩師の磯部洋先生もご健在で、同級生も全員元気です。

これも私たちの世代だけ当時担任の磯部先生が、実に42年前に企画・作成して頂いた記録映画『山の子の詩』のおかげです。
これがあったことがキッカケで楽しい同窓会が出来ました!
1つしかない貴重な8ミリフィルムを今回DVD化にして個々に渡せることが出来き、参加者の全員「すごく楽しくて、すごい良かった!」と・・・・。
1クラスで小学校6年間(幼稚園~中学含むとすごい期間)過ごしてきただけあって、皆本当に仲がいい
本当にやって良かった!!
恩師の磯部先生、8ミリフィルム保管してくれてた安井君、今回同窓会のキッカケ作ってくたれた上西君、女性まとめ役の二井(旧姓草木)さん、そして男性のまとめ役と今回の同窓会を企画・運営・進行を取りまとめてくれた高室君、そして参加者全員感謝です。

昭和49年制作の記録映画「山の子の詩」上映開始
皆、昔を振り返り楽しそうです。

今回、この上西君が東京の事務所に顔出してくれたことがキッカケでした


最後にわが恩師の磯部先生にプレゼント進呈
参加者全員が心のこもったメッセージ書きました。
 女性のまとめ役の二井(旧姓草木)さん
男性まとめ役の高室君(大幹事)
この同窓会を企画・運営・進行全て担当してくれた高室大幹事!!

2016年1月20日水曜日

坂東太郎グループの五誓成河の会に参加させて頂きました。

1月19日、坂東太郎様の社長交代挨拶も兼ねたパーティーに参加させて頂きました。
青谷会長はお客様と従業員の幸せを一番にされており、人として、また経営者として大尊敬してます。
社長に就任された新社長青谷さんも会長のDNA&坂東太郎イズムがしっかり染み込んでおられ、いいタイミングでいい社長交代されたと思います。
さすが、人作りが素晴らしい!
今日もまたまた勉強させて頂きました、ありがとうございます。

キッカケ作ってくれた当時インターンで営業研修に来てくれてた李君に感謝!!