2015年2月28日土曜日

ランチパスポート品川・田町版vol.2、3月1日発売!!

ランチパスポート品川・田町版vol.2、3月1日発売です。
第2弾は、エリア拡大し大井町も追加しました。
 
正直、効果あり過ぎます!!
イマドキ、紙メディアは効果無く、廃刊・休刊が多いなか、あり得ない効果です。
第1弾ご掲載頂いた店舗で効果あり過ぎて、第2弾はやりませんと断られた店舗も想像以上多かったのはビックリです。
 
あるラーメン店では数回頼んだり、当たりが出るとトッピングは無料になるカード発行するところあります。
効果あるということはそれだけ安く食べたいという消費者のニーズが多いがゆえ、夜の集客のため、思い切った『半額券』とか『ランチパスポート同額割引券(990円)』、もしくは遊び心で『抽選券』とか作ったらいいのにな・・・・・って思いました。
 
こうして効果あると、昔よく求人誌で応募ありすぎて困るって怒られたことを思い出す(笑)
(アサヒドライゼロ1本お試し企画も有ります)

2015年2月27日金曜日

2月27日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝”は、「有限会社アペタイト」の飯野雅司社長登場。

2月27日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)は、両面焼きそばの『あぺたいと』を展開されている「有限会社アペタイトの飯野雅司社長を取り上げさせてもらいました。
「有限会社アペタイトの飯野雅司社長
 
2月26日(木)より“あぺいたと”דなんでんかんでん”コラボの
高島平限定! なんでんかんでんあぺたいとラーメン』が期間限定販売でスタートしました。
(やはり一世風靡しただけある、旨い!!)

(こんなところにもマネーの虎の川原さんが・・・)
 (麺最強のおやじコンビ!!)
(プロデュースさせて頂きましたので生花をお贈りしました)
 

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2015年2月24日火曜日

有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏登場。
本文より~

八百屋の長男。

「八百屋」の主人と言えば、愛想も、元気もいいのだが、大抵体格がいいからか、怖そうなイメージもしなくはない。今回、ご登場頂いた有限会社アペタイト代表、飯野雅司氏の父もそうした八百屋の主人だった。
「私が生まれたのは1961年、昭和36年です。兄弟は3人で私は長男。親父は、長男の私を跡取りに考えていたんだと思います」。
小学校の時も、学校から帰ると兄弟みんなで店を手伝わされた。怖かったから、親父には刃向えない。「内心、嫌だった」と飯野氏。「特に、夏は暑いし、冬は寒い。たまに飲食店に野菜を届けに行く時があるんですよ。すると店内は、夏は涼しいし、冬は温かい。あの頃から漠然と飲食店はいいな、と思っていた気がしますね(笑)」。
勉強も出来たし、スポーツも出来た。「まぁ、いい子だったよね、店の手伝いは良くするしね。でも、反動が来ちゃったのよ」。

父親という存在からの脱出。

「高校進学の時の事です。親父も『いい』って言うもんだから、千葉にある全寮制の高校に進学しました。本心は言わなかったけど、『これで店の手伝いから解放される』って思っていました。それなりの進学校だったしね」。
高校では空手部に入る。子供の頃から剣道、卓球、バレーと、スポーツはだいたい何でも出来た。だから、空手もすぐに巧くなった。心も解放された。何しろ、親父の目が届かない自由な生活である。
「それまでの反動だろうね。でも、好きにし過ぎて停学3回くらいました(笑)。4回目は無かったな。退学しちゃったから」。
退学したのは、高校2年の夏の事。
「高校を辞めてすぐに中学時代のツレに紹介して貰った中華料理店で住み込みで働き始めました。給料は確か月7万円位だった」。
手取りも少なかったが、貰った回数も又少なかった。
「親父が店に来てさ。店主と話をつけて、退職する事になったんです。親父は、八百屋を継がせたかったんだろうね。でも、私は嫌だった。八百屋と言うのも嫌だったし、何より親父に支配されたくなかった。だから、家には帰らなかったんです」。

新宿の街を闊歩する。

「どこでもいい」と思って、歌舞伎町にあった蕎麦の店に飛び込んで運よく雇ってもらった。「でも、タイミングが悪くてさ。熱を出して3日で辞める事になっちゃった」。
その頃にはもう新宿のアンダーグランドに足を踏み入れていたのかもしれない。職は無いが、食べるには困らなかった。風を切って、新宿の街を闊歩した。
「そんなある日、たまたま、職務質問で引っかかってさ。それで、親からも『校正させてくれ』って事になって…」。
半年間くらい、今までの人生を振り返る機会(チャンス)を与えられた。
「その頃になってようやく、親父の言う事は聞かないといけない、と思うようになったんです。申し訳ないな、とも初めて思うようになって」。
「父親の知っている社会教育のとあるセンターに出向きました。すると『東京はまずい!九州に行け』と指導されて、大分にある、親父も知っている教育機関に行き3年間過ごしました。こちらで高校の単位を通信教育で取得しました」。
あらぬ方向に向かっていた時計の針が、元に戻される。「向こうでは、色んな会社の社長が来られてね。直接、話をして貰ったりしていたんです。それが、独立のきっかけになったかも知れませんね」。
ともかく3年間、全うして卒業した。紆余曲折もあったが、ある意味、高校を合計6年かけて卒業したと思えばいい。

 
・・・・続き

有限会社アペタイト 代表取締役 飯野雅司氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2015年2月23日月曜日

人で大きく変わるのを改めて学びました。

人材紹介業務は、他のモノ売りやシステム売り、広告取りと違い、人を相手にする仕事のため見合いと同じで感情をともなう仕事です。
ゆえに、サラリーマン思考の機械的に進めたりする営業姿勢では転職者はよく見ておられるので信頼得ないとなかなか決まらないもんですね。
そう考えると人材紹介でよく実績出してくれた営業マンは営業として優秀でした。

やはり人の人生変える仕事がゆえ、いろんな苦労経験あったり人の気持ちがわかる様でないと人材紹介業務は無理です!
誰でも出来ると思いましたが、やはり人相手ゆえ我が強く、自分のことだけしか考えてない人にカウンセラー業務は出来ないのがわかりました。
ほんといい勉強になりました。

2015年2月20日金曜日

2月20日(金)発行の夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝”は「芝 湯浅」の湯浅孝雄社長登場。

2月20日(金)発行の夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝”(細見連載中)は、弊社事務所のある田町(三田)の慶応仲通商店街の会長で、商店街をもっと盛り上げるため頑張っておられる「芝 湯浅の湯浅孝雄社長を取り上げました。
「芝 湯浅の湯浅孝雄社長
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

『あぺたいと』×『なんでんかんでん』 コラボ企画、2月26日スタートします。

両面焼きそば・B級グルメでメディアにも多数取り上げられている
『あぺたいと』本店:東京都板橋区高島平7-12-8)にて、
2月26日よりあの『なんでんかんでん』のラーメンを提供します。
高島平限定“なんでんかんでんあぺたいとラーメン”!!

2015年2月17日火曜日

ジェイアール東日本フードビジネス株式会社 代表取締役社長 明智俊明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” ジェイアール東日本フードビジネス株式会社 代表取締役社長 明智俊明氏登場。
本文より~

エキナカに新時代を!

「駅はね。日に2回は使われるんです。乗車駅として、また降車駅としてね。それだけ、人の行き来がある。それが駅なんです」。
そう言われると、日々、何気なく通り過ぎる駅の風景が頭に浮かんだ。時には急ぎ足で、時には疲れた足取りで通っている、いつもの「駅」。そこでは、私たちの気づかないところでさまざまなドラマが生まれているのだろう。
さて、今回、お話を伺ったのは、この「駅」を主な舞台として事業を展開しているジェイアール東日本フードビジネス株式会社の社長、明智俊明氏。
同社はJR東日本の各「駅」でみかける、コーヒーショップの「BECK’S COFFEE SHOP」、ハンバーガー&サンドイッチの「Becker’s」、ジューススタンドの「HONEY’S BAR」など、「エキナカ」にある、さまざまな飲食店の企画・運営を行っている会社である。
私も良く利用する。朝、取材先に向かう前、会社の最寄りの駅のカフェに駆け込んで、お腹といっしょに元気を充電する。スピーディな朝食だが、これがいい。現代人にとって、「エキナカ」のショップは、便利このうえない存在だ。
しかし、「エキナカ」という言葉自体、まだ定着して日が浅い。これから「エキナカ」はどうなっていくのだろうか。
「エキナカに新時代を!」。
新たな時代に歩み始めたジェイアール東日本フードビジネス株式会社。その舵を取るキーパーソン、明智俊明氏の話に耳を傾けてみよう。

新潟県小出町には、ローカル線の始発駅があった。

「父親はゼネコンに勤める技術者です」と明智氏は切り出した。
「私が生まれたのは新潟県の小出町という町です。いまは合併して魚沼市となっています。この町には只見線というローカル線の始発駅があるんです。親父は、当時、黒又川ダムの建設を行っていて、その時、私が生まれたんです」。
当時は水力発電が主流で、旺盛な電力需要を背景にダムも次々に建設されていったはずだ。一つのダムが完成すると、新たな現場に向かうことになる。
明智氏は小出町で生まれたが、育ったのは父と母の故郷でもある北海道である。
「小学校に上がるときに、引っ越しました。父親は、仕事の関係上、単身赴任も多く、私たち兄妹は母に育てられました」と言って明智氏は笑う。
ちなみに、兄妹は妹が1人。2歳、離れているそうだ。
長男の明智氏は、むろん、父の影響を受けて育った。

やんちゃ坊主。半年で転校させられる。

「小学校1年生の時、半年で田舎の学校から転校しているんです」と明智氏。どうしてですか? と尋ねると、氏は笑いながら「授業にならないんですよ、私がいると」と答えてくれた。なんでも、先生が問題を出すとあてられてもいないのにスグに答えてしまったそうだ。「だから、授業にならない(笑)。それで、もう少し都会の学校にということで、転校させられてしまったんです」。
 最初に書いておくと、明智氏は東京大学を現役で合格している。当時から頭脳明晰だったのだろう。もっとも本人は、「やんちゃだったから」と笑うだけなのだが。
少年野球に入って野球もした。「当時は、野球しかなかったもの」という。
中学2年生の冬、父の転勤で、一家は東京に出てくることになる。「2年生の1月です。もうそろそろ受験に備えなければいけない時でしょ。北海道では、あの学校と決めていたんですが、引越しちゃったからまたイチからです」。
北海道から来た、やんちゃな少年。言葉のカベもなくはなかった。「いじめられていたわけじゃないけど、みんなに訛りがあるとからかわれた、そんな記憶があるな」といって笑う。ともかく、明智少年は、東京で新たなスタートを切った。

・・・・続き

ジェイアール東日本フードビジネス株式会社 代表取締役社長 明智俊明氏
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2015年2月13日金曜日

鶏冠菜(とさかーな)グループ代表・池田健一氏の書籍発売されました(キイストン書籍プロデュース)!!

キイストン書籍プロデュース第2弾!!

焼き鳥チェーン鶏冠菜(とさかーな)グループ代表・池田健一著書
 『金のない奴は、海外で商売をやれ!』が、
Amazon にて2月9日より販売開始されました!! 

池田社長自身が辿ってきた成功までの道のり、
繁盛店になるまでのプロセス、
そして今後の大きな夢を語った! 

起業を夢見る若者に著者自身が語る経営哲学は、
刺激的な言葉に満ち、
細かな気遣いにもその哲学が滲み出ている。
また、海外に出ろと訴えるその理由とは? 
チャンスを掴みたい若者にとっては必読の書だ!
 『飲食の戦士たち』にもバナー貼ってま~す。
有限会社鶏冠菜 代表取締役社長 池田健一氏( その『飲食の戦士たち』より)

2015年2月10日火曜日

株式会社若竹 代表取締役 田口優英氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社若竹 代表取締役 田口優英氏登場。
本文より~

建築関係の仕事に、と思っていた少年時代。

田口は1972年10月18日、川崎市で木材商を営む田口家の次男として誕生する。小さな頃からスポーツが得意で、小学高学年から中学まで陸上部に所属。何でも100メートルを11秒台で走ったそうだ。好きだったのは、魚釣り。友人と自転車を漕いで、海釣りに出かけた。「釣りはいまもやっています。うちには釣り部もあるんですよ」と田口は笑う。
仕事観はどうだったのだろう。直裁に尋ねてみた。「父が木材屋だったでしょ。だから将来は建築関係の仕事に進むんだろうな、と漠然と思っていました」と田口。実際、建築関係の仕事に就くため、建築科がある工業高校に進んでいる。

高校中退、17歳店長誕生。

「もし、あの時、バイトをしていなかったら、私の人生は全然、違っていたかも知れません」と言って田口は、高校時代の話を始める。
高校に進学した田口は、1年時から川崎の駅ビルにある「お好み焼き店」でアルバイトを開始した。「店長がとてもいい人だったこともあるんですが、楽しくてしかたなかった。学校より楽しくなって、1年で中退。17歳の時には、最年少で店長に抜擢していただきました」。17歳で、店長。さすがに、この「飲食の戦士たち」のなかでも最年少記録かもしれない。この時、田口が店長となったのは、「お好み焼き」「ステーキ」等の飲食店を全国に展開する大手飲食チェーン店だった。このチェーン店で、田口は飲食の戦士として、また経営者としての才能を開花させていく。

33ヵ月連続、前年同月比を超えの記録を達成。

「私が最初に店長になったのは川崎の駅ビル店。12~13人のスタッフがいました。私が17歳だから、全員、年上です。だからって、店長にもなって何もしないわけにはいきません。私は、品質はもちろん接客の向上に取り組みました。最初は、背中でみせて。そして1人1人、引き込んでいったんです」。
驚くべきことに、店長になった田口は33ヵ月連続で前年同月比を超える売上を達成した。「最初の12ヵ月は、先輩が残した数字です。13ヵ月目からは私が去年残した数字ですから、越えるのが至難の業だった。それでも、なんとか33ヵ月というレコードをだして19歳の時に、統括マネージャーに昇進しました」。17歳で、店長。19歳で、統括マネージャー。まだ、二十歳にもならない青年である。陰口を叩かれないほうが不思議だ。だが、田口青年は、実績を通して、すべての声を押し込めたのではないだろうか。会社の業績は悪くはなかった。その業績を二十歳にもならない青年が、ひっぱっていることもまた事実だったからである。

倒産と再出発。

順風満帆だった。田口は、会社からも評価され、スタッフからも慕われる存在になっていたはずである。しかし、平成9年、突如、会社が倒産する。1997年のことだから、田口25歳の年だ。「最後は22店舗をみていました。社長から可愛がっていただいていたこともあって、その後は、新会社を作る社長の息子さんのお手伝いをすることになります。ただし、3年という期限は設けさせてもらいました」。最後のご奉公という意味もあったのだろう。「6店舗くらいですか、出店もサポートし、期限の3年が過ぎたもんですから退職させていただくことにします」。
 若竹のホームページを観ると、創業は2000年4月となっている。ちょうど3年、育ててくれた会社、社長への恩返しを果たし、田口は新たなステージへと踊り出す。

・・・続き

PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2015年2月6日金曜日

飲食店繁盛会さんより飲食店向けのセミナーのDVDが発売されるようです。

飲食店繁盛会さんより
昨年秋に開催した飲食店向けのセミナーのDVDが発売されます。
スゴいね。

2月6日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝は、「株式会社坂東太郎」の青谷洋治社長登場。

2月6日(金)発行夕刊フジ“波乱万丈起業家列伝(細見連載中)は、幸せ日本一の家族レストランばんどう太郎の「株式会社坂東太郎の青谷洋治社長を取り上げさせてもらいました。

青谷社長に誕生日のお花頂きました。
PRバナー
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2015年2月4日水曜日

キシュウの前木社長、迎賓館にて京野菜(京北も)PRに!

京都市が行う京都の魅力発信事業「京あるきin東京2015」のオープニング・セレモニーで、なんと京都大学の学生ベンチャー企業・キシュウの前木社長、迎賓館にて京野菜(京北も)PRに!
セレモニーは京都市と外務省の主催で、出席された約150カ国の駐日大使や海外メディアに向けて京都の文化や食、観光を発信してくれました。
門川京都市長や 田中英之衆議院員、宝酒造社長らも来られたらしく、またまたスゴいことやってくれてます。
世界に京都・京北のPRにもなり、京北生まれの私も大変うれしいです。
京北出張所所長の片山さんの粋な計らい、またキシュウさんの行動力、ほんとスゴいです。

1月30日、52歳になりました!!

おかげさまで52歳になりました。
生まれた昭和38年も記録的な大雪だったそうです。

しかし、早いですね~。
40歳過ぎてからは人生の速度が2倍以上の気がします。

もう私を産んでくれた母親は他界していますが、
生前よく言ってました。
「あんたは大きく生んで小さく育った」って・・・(笑)。
でも、今までなんの病気しない身体、感謝です。

昔は何も考えていませんでしたが、
時間というか若さは今が一番若い時。
もっと時間を1日1日無駄に過ごさないように大事にしたいです。
今年も例年同様、自宅で“すき焼き”。
やっぱり自宅が一番、家内に感謝です!!

スタッフからはおふろの王様回数券もらいましたので
早速活用しました。
リブセンスの村上さんからは色の変わる生花頂戴しました。

また多くのメッセージを皆さまより頂きありがとうございました。

修造カレンダー30日は「打ち上げてごらん、心の花火を」