2012年4月24日火曜日

株式会社きちり 代表取締役社長 平川昌紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社きちり 代表取締役社長 平川昌紀氏登場。


きちり


本文より~


「ユダヤの商法」と「思考は現実化する」。出会った二冊の本。


平川が外食で起業をめざした背景には二冊の本との出会いがある。一冊は、日本マクドナルドを創業した故藤田 田氏の「ユダヤの商法」である。「ユダヤの商法を読んで、これからは食と女性がターゲットの時代になると確信しました。それで、<外食産業の新スタンダードの創造>というビジョンを設定したんです」。ちなみに、平川の世代は、ファミリーレストランの勃興と衰退を同時に観ている。セントラルキッチンを軸にしたチェーンオペレーションはたしかに一つの時代を築いたが、すでに全盛期のパワーはない。そう考えると、外食は移り変わりが早い。ならば、自分にもまたチャンスがある。新たなスタンダードを創造することで、新たな外食ビジネスのイノベイターになれるのではないか、と平川は考えた。
もう一冊は、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」である。「この本を読んで起業を決心した」と語っている。二冊の本との出会いは、平川の創造的かつ野心的な部分を刺激したのではないだろうか。
ところで本を読むということはどういうことだろう。先達がさまざまな経験を通して手に入れた思考やノウハウを、時間をかけず手に入れることだという人がいる。彼によれば、本を読み、活用するということは、たとえるなら数学者たちが苦労して編み出した方程式を利用するようなものなのだそうだ。
もちろん、文字と格闘しただけではない。外食で起業すると決めた平川は、肉体労働など賃金の高いアルバイトに精をだし、お金がたまると、それを軍資金にホテルの高級レストランなどで食事をした。味とサービスの研鑽である。印象に残っているお店を伺うと、神戸三ノ宮にあったある店の名が挙がった。「8割が女性なんです。若い女性だけじゃなく、年齢層も広い。インターネットがない時代で、口コミだけなのに、行く度に行列です。私も、女性客をターゲットにと考えていましたので、勉強になりました」と語っている。 ・・・・・。


株式会社きちり 代表取締役社長 平川昌紀氏


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株式会社ヴィクセス 代表取締役社長 中元孝太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ヴィクセス 代表取締役社長 中元孝太氏登場。


ヴィクセス
本文より~


3番、エース。


狛江市という東京都のなかで最も小さな市がある。東は世田谷区、北と西は調布市、南は神奈川県川崎市に接している。日本でも、2番目に小さな市だそうだ。「こまえし」と読む。今回、ご登場いただく、株式会社ヴィクセス社長、中元孝太が、この狛江市に生まれたのは1984年9月22日のこと。下に弟、妹が生まれ、3人兄弟の長男となる。
中元が、生まれた1984年は、日本経済がバブルに向かって駆け足で登り始めた時代である。飲食でいえば、ディスコなどが流行り、一時期のファミレスなどから、高級志向のレストランへ世代交代が進んだ頃と言えるだろうか。
中元は小学1年生から野球を始めている。運動神経の良さに加え、練習にも熱心に取り組み、エースで3番をつかみ取った。ところが、小学4年生から1年半、父親の転勤で新潟に引っ越すと2番手ピッチャーに降格してしまう。「野球が盛んなうえに、ハンパじゃない運動神経の奴らばっかりで、レギュラーにはなれたものの2番手ピッチャーが精一杯だった」と悔しがる。小学生の頃の中元は、メガネでスポーツ刈り。「目立ちたがりで、学級委員もやっていた」そうだ。将来の夢は、もちろんプロ野球選手。
ところが、中学になって、元気で明るく、野球熱心だった少年は、髪をのばし、ピアスをし、タバコをふかす少年になる。「いったん公式のクラブチームに入るのですが、坊主頭になるのがイヤで、辞めてしまったんです(笑)」。中学3年生の時にはバンドもやった。引越業者やラーメン店でバイトもした。心を入れ替え、狛江市を離れ、渋谷の祖母の家にバックレタのは、高校2年生のことだった。 ・・・・。


株式会社ヴィクセス 代表取締役社長 中元孝太氏



そろそろ本格的に求人難突入か…。

これから飲食業界の人材採用はまたまた厳しくなる!
世の中全体に求人案件が増えている。
そんな時ほど、これまた辞める人も増える。
今から人材採用に力を入れ、自ら人が集まる手を打っておかないと成長はおろか、足元ぐらつく。
勝つための武器作りが必要となる。

2012年4月21日土曜日

本日、4月20日の夕刊フジにギャルソン岡部一己氏。

7店舗のフランス料理店(プラス2店舗のプロデュース)を展開されているギャルソン 岡部一己(おかべかずみ)氏が夕刊フジに掲載されていた。


夕刊フジ ZT5A0099


(4月20日発行の夕刊フジ)       (ギャルソン 岡部氏)


岡部
なんとお店は、「オーグードゥジュール ヌーヴェルエール」がミシュランの1つ星を獲得(2008年版、2009年版、2010年版、2011年版、2012年版5年連続)。


「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」もミシュランの1つ星を獲得(2008年版、2009年版、2011年版、2012年版)。


「オーグードゥジュール」、「オーグードゥジュール メルヴェイユ」、「ミノビ」、「オーグードゥジュール ヌーヴェルエール」、「ル・ジュー・ドゥ・ラシエット」の5店舗は2012年版「ザガット」において高評価。


まさに、サービスのプロだ。


この6月には、大学で講義され、5月~6月には居酒屋を展開されている飲食企業や洋食関係の飲食企業のコンサルもされるようだ。



2012年4月20日金曜日

キイストンならではの武器、着々と・・・。

戦略型人材採用のキイストンですが、この1年でかなり『キイストンならでは』の武器が増えた。


4月からスタートさせたメディアPR事業部も、予想以上にいい感じで流れている。


テレビや新聞、業界誌も入れるともう20メディアは入ったかも・・。


人材サービス以外の商材も飲食企業様に役立つものが増えてきた。


食材からコスト削減、動画、販促関連などなど・・・。


全ては信頼関係あってのこと。


皆さんに協力してもらいながら、コツコツ足元からも固めていきたい。


自社の営業マンには、厳しいこと言ってるが、2~3年前と比べると本当にお客様思いになってきた。


本来のキイストンイズムを徐々に取り戻せてきてる。



2012年4月18日水曜日

株式会社トラジ 代表取締役 金 信彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社トラジ 代表取締役 金 信彦氏登場。


金
本文より~


母のもとで修業。「トラジ」1号店オープンまで。


「私は、兄弟のなかでいちばん早く母の手伝いをするのですが、離れたのもいちばん早かったんです。長男は、日本の大学を卒業し、就職します。次兄は、高校を卒業して金融機関に勤めました。私は、大学を卒業して、母の手伝いをはじめました。だから、店に入ったのはいちばん早かったんです。当時、バブルということもあって、店舗数が拡大していきます。最盛期には6店舗ありました。それで、兄2人もいっしょにはたらき始め、現在は、次兄が社長を務めています。兄たちがもどってきた一方で、私は、母とそりが合わなくなっていきます。母は料理も、接客も抜群で文句の付けようもないのですが、スタッフに対する態度があまりに厳し過ぎると私には思えたのです」
「そういう意見をぶつけているうちに、母から『それじゃ、あなたもお店を経営してみなさい』と言われるんです。簡単にいえば、でていきなさいということです(笑)。もちろん、母子ですから、独立する店も母が探してくれました。それがトラジの1号店となる恵比寿のお店です」。いまでこそ恵比寿といえば、人気のエリアだが、金が独立した当時は、焼肉店もトラジを含め3店舗しかなかったそうだ。
2店のうち一方は、超高級店、もう一方はチェーン店だった。「自信がなくはない。仕込みは全部、私が担当していたし、母から料理も、タレの作り方も、丹念に教えてもらっていましたから。ただ、いくら自信があっても、初めてですから期待があれば、不安もある。そういうなかで、オープンの日がやってくるんです」。 ・・・・。


株式会社トラジ 代表取締役 金 信彦氏


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株式会社プレジャーカンパニー 代表取締役 望月大輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社プレジャーカンパニー 代表取締役 望月大輔氏登場。


望月
本文より~


米国、留学。


受験せずに、推薦で大学生になった。サッカーは止めた。「東京に出たいという思いがあって、たまたま推薦の枠があったので、亜細亜大学に進みました。亜細亜大学在学中に、留学システムを使って1年間米国アイダホ州の大学に留学します。アイダホは田舎町です。英語なんて、もちろん流ちょうにしゃべれるわけはありません。でも、せっかくアメリカまで来たのに日本人ばかりで固まっていてもおもしろくないでしょ。だから、私は、向こうの人にバンバン接していきました」。
何ヵ月経った頃だろうか。猛アタックしていた女性から、はじめて「YES」の一言が返ってきた。「その子と付きあったおかげで、いっぺんで英語ができるようになったんです。もちろん、付き合いはじめたのは、そんな下心からではありません。綺麗だったし、純粋に好きだったんです。でも、付き合い始めると普段の会話でも言葉を教えてくれるんです。いまの、発音はこうだよ、って」。心を通わすために、言葉のレッスンが始まった。メキメキ、英語が巧くなった。あっという間に1年が経過する。 ・・・・・。


株式会社プレジャーカンパニー 代表取締役 望月大輔氏



2012年4月17日火曜日

もしかして、BCG(串もん酒場 ちゃい九炉)の皆さん?

フジテレビの“めざましテレビ”にBCG(串もん酒場 ちゃい九炉)の永原さんが・・・。


BCG2


 


BCG1
やっぱり、上司の前で呼び捨てはできないでしょ・・・・・・(笑)



父親、退院!!

細見秀夫2


(3月 母親の7回忌のため入院先から一時退院し飲食店にて)
12月中旬に病院に入院してから、介護老人保健施設にお世話になっていたが、ようやく退院した。


やっと自宅に・・・。


祝 祝 祝


花1 花2 花3
退院し、近所の方も来ていただけたりするので、父親もうれしいと思う。


ただ、なにせ一人暮らしのため介護ヘルパー等も入ってもらい手厚いサービスをしてもらう段取りしてあるが、やはり不安は残る。


元気で長生きしてほしい。



2012年4月15日日曜日

青山学院大学の総合文化政策学部堀内ゼミにて。  

この度、キイストン主導で青山学院大学の総合文化政策学部の堀内ゼミにて飲食経営者による講義して頂きます。


5月.サブライム 花光社長


6月.オークードジュールグループ 岡部社長


6月.玉海力 河邉社長


7月.物語コーポレーション 小林会長


少しでも学生の皆さんに対し飲食業界の業界認知と地位向上になればうれしいです。


青山学院大学の堀内教授、武蔵大学名誉教授の一樂先生、ありがとうございました。



2012年4月13日金曜日

まずは周辺から固めて…。

ここにきて、優秀な方がブレーンで揃ってきた。
今の業務遂行する上でありがたい。
これで最強のチームが編成できそう。
あとは社内の営業のみ。
ここが一番難易度が高い。
若手でポテンシャルの高い人材がほしい。
男性より女性の方が精神力も強く、負けん気や達成意欲強い。
この際、女性対男性で競わすか、若手対ベテランで競わすか…。


ワーホリ帰りの方から・・・・。

人材パンフ
提携先のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリスにある8拠点に弊社の資料が無事着きだした。


予想以上にワーホリ帰りの応募が多い。


そうだ!!


留学生向け、ワーホリ向けのリクルーティング動画として


海外留学やワーホリ経験ある社員の方(社長や人事担当者なら尚Good)から


英語でメッセージってのがあったらいい。


提案してみよう。



2012年4月11日水曜日

夢のコラボレーション、実現させたい。

今、少しずつおもしろそうなことができそうな環境になってきた。


ある企業様とある企業様を結び付け、夢のコラボレーションを実現させたい。


キイストン発、やってみたい。



ポッカクリエイト(カフェドクリエ)の飯沼社長が記事に・・・。

飯沼

飯沼社長、すごく多趣味だ。


知らなかった!!


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株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏登場。


ペッパー
本文より~


母の一言で起業を決意。


一瀬が高校を卒業したのは、1960年のこと。昭和でいえば35年。戦後の爪跡が消え、いよいよ高度成長経済がスタートする頃だ。「ナポリって店に就職したんですが、おふくろに『日本で五本の指に入るコックになれ!』ってハッパをかけられたんです。そうか、でも、いまのままじゃ無理だと思って、本格的な料理を勉強するために旧山王ホテルに転職しました」。旧山王ホテルは、戦前、帝国ホテル、第一ホテルと並ぶ、東京を代表する近代的ホテルの一つ。ただし、一時アメリカ軍に接収され、アメリカ軍の専用施設になっている。一瀬は、このホテルで9年間、勤めた。
「いつまでも人に使われていてはいけない」。転機はまたも母の一言だった。一瀬、27歳、1970年のこと。母の一言で、独立に踏み切った。その店が『キッチンくに』。東京の下町・向島に生まれた、たった3坪7~8席のステーキ屋である。
「最初に勤めたナポリから、椅子とかテーブルとか冷蔵庫とかをもらってきて、ペンキを塗り直して」と、一瀬はふりかえる。独立と同時に結婚した奥様も手伝った。『キッチンくに』の船出である。むろん、自信に溢れていた。
ところが、閑古鳥が鳴いた。どうすればいいのか。知恵を絞る。答えはごく単純なところに落ちていた。
「ステーキというだけで、敬遠されてしまうような時代だったんです(笑)。いまもステーキは高いと思われがちですが、当時は、その傾向がいっそう強かったんです。で、そうかと気づいて、とにかく目につくところにメニューと料金を載せた看板をかかげたんです」。
これが、功を奏する。敷居は高いが、その一方で誰でも惹かれるステーキである。価格さえ分かればあとは財布と相談すればいい。良心的で、美味しいステーキの店があるとたちまち人気化する。数年後には、4階建ての自社ビルを建てるまでなった。
だが、いっけん順調にみえたが、問題もあった。スタッフが続かないのだ。なぜだろう。一瀬は思案する。「そうか、いつまでも1店舗だからいけないんだ」。「だから、希望が持てずに辞めてしまうに違いない」。そう考えた一瀬は、多店舗化に舵を取る。43歳の時である。だが、それは険しい山登りの始まりだった。


株式会社ペッパーフードサービス 代表取締役 一瀬邦夫氏


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株式会社C&Mフードリンク 代表取締役 菊地 努氏登場。

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C&M
本文より~


珍満(ちんまん)。意味もわからず店名をきらった。


「中学生の頃だったと思います。珍満(ちんまん)という店名がイヤで、父親まできらいになったことがありました。そのくせ、店の手伝いをしてちゃっかりお小遣いはもらっていたんですが(笑)」。当時は、周りに大手の工場があり、珍満はいつも客でにぎわっていた。「そのおかげで私は1浪もさせてもらえたし、大学にも進むことができました。いまでは珍満にも、オヤジにも感謝の気持ちでいっぱいです」。大学に進むと、少林寺拳法部に入った。「サークルとかではなく、ちゃんとした部に入りたかったんです」。ただ、抱いていたイメージとは少し違った。合宿になると浜辺を走り、夕日に染まった海に向って1000本突き。辞めようと心に決めたことも少なくなかった。4年間の部活はけっしてたのしいとはいえなかったが、就職に有利にはたらいたのは事実である。


一部上場の食品メーカーに就職。


「美人のアナウンサーと付き合ってやろうとTV局も受けました。でも、さすがにどの局もなかなか相手にしてくれません。飲食店からはスグに内定をいただけたんですが…」。サラリーマン志向だった。父をみていたからだろう。結局、メーカーに就職する。食品加工の大手メーカーだった。「当時は、海外志向が強くて、海外部門に入って世界を転々とするサラリーマンになろうと思っていたんです(笑)。ただ、1流大学出身の奴らもたくさんいましたから。私たち3流大学は、もっぱら国内、専門です」と言って笑う。ただし、一部上場の食品メーカーである。将来は、安定していた。 ・・・・。


株式会社C&Mフードリンク 代表取締役 菊地 努氏


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2012年4月10日火曜日

あれ? もしかして武田・・・・・・・。

武田ディノス2 武田ディノス1
はい、そうでした。


うちの武田でした。


いつの間に・・・・。



若手未経験の人材募集スタート。

伝説


自らの力で今までの常識を破れる若手人材(営業未経験者)を募集します。


飲食の経営者たちの人材ネットワークやメディアとのネットワーク、強い商材を持ち合わせているキイストンでやってみませんか?


営業経験は要りません。


経験浅くてもちゃんと実績つけれれば“下克上”本当にやっちゃいます!!


お問い合わせは info@keys.ne.jp で「細見昇市ブログ」を見たとご連絡ください。



キイストンの経営理念を実践中。

キイストンの経営理念は、『より多くの人・企業に夢・希望を与える』である。


現在、少しずつ多くの企業様を多くの人たちに知ってもらう動きをしている。


先週金曜の6日(金)はすずやの蟹江社長が登場。


今週の9日(月)~12日(木)は銀座ルノアールの小宮山社長が登場だ。


すずや 小宮山社長

また、TVでは日テレのニュース番組にて弊社からの企画が採用され推薦したなかから2店舗登場予定である。


少しずつではあるが、企業と企業とのコラボ・提携などいろいろと夢のある、また希望の持てることを実践できてきた。


コツコツと足元固めてるので、こうして拡がっていくとうれしいものである。



2012年4月4日水曜日

仕事は信頼関係がすべて。

いよいよ2012年度がスタートした。


2011年度は皆がよく頑張ってくれたので、 いい形で終えれた。


特に営業面では、若手社員と未経験者の活躍が目覚ましかった。


今、求人市場は、かなり上向きになってるので、 もさらなるお客様から信頼得るため 地盤を固めコツコツ積み上げたい。


そのためにも切っていくことも大事である。


やらないって表では言っておいて 実は裏でコソコソやり、 時間経ったところで、 あたかも筋通してるフリする偽善者や 口だけ達者で、行動が伴っていない人間とは一線引いていく。


その反面、能力がなくても一生懸命頑張ってる人間は 大事にしていきたい。


特に若者で夢のある人間は、男女問わずいろいろ教えてあげたい。



2012年4月3日火曜日

株式会社シンプライズ 代表取締役 大野太陽氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社シンプライズ 代表取締役 大野太陽氏登場。


大野
本文より~


アルバイトがきっかけとなり、飲食にハマる。独立をめざし、奮闘。


その一方で、ドイツ料理店でのアルバイトにハマった。アルバイトにかかわらず、メニューも任せてもらったりしたからだ。「コースの前菜をやってみろ、って言われたり、数字(原価)までいじらせてもらったりして。人間、ほめられ、任されるとうれしくなるじゃないですか」。ますますのめり込む。独立という二文字が、この頃から明確なかたちを持ち始めた。「独立を前提に、いろんな店でバイトをします。バーテンダーもしたし、バーテンダーの募集だと思って行ったらホストクラブだったこともありました(笑)。ファストフードとファミレス、それ以外は全部しました。厨房も、ホールも経験しました」。すべて実地。ノウハウ本からは得ることができない貴重な経験を積み重ねていく。反面、貪欲な大野に対する店側の評価は二つに分かれた。「できる奴」という評価と「生意気なヤロー」という評価である。「アルバイトなのに名刺を刷ってもらったこともありましたし、フライパンが飛んでくることもありました」と笑いながら修業時代を振り返っている。常時、数軒かけ持ち、朝から晩ではなく、朝から朝まではたらいた。それが血肉になる。・・・・。


株式会社シンプライズ 代表取締役 大野太陽氏


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株式会社ホイッスル三好 代表取締役 三好比呂己氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社ホイッスル三好 代表取締役 三好比呂己氏登場。


三好
本文より~


(株)楽コーポレーションで「オヤジ」との出会い。


都心から少し離れた町田市にある玉川学園。中・高を、この学園で学び、大学も系列の玉川大学に進んだ。文学部である。成績はお世辞にもいいほうではなかったのではないか。
大学では中退まで考えた。とはいえ、学業に熱心になれなかったせいばかりではない。直接的な引き金になったのは、(株)楽コーポレーションでのアルバイトだった。
「私がアルバイトをした頃はまだ宇野さんが鍋を振っていた時代です。恵まれているでしょ。宇野さんと一緒に仕事ができたんですから。それで、すっかり宇野さんと仕事にハマって大学を辞めようと決意するんです。でも、頑張りすぎたんでしょうね。カラダを壊してしまいました。兄弟達にも大学だけは卒業しろと言われ、結局、退学は諦めます。もっとも、卒業までの残り1年半も楽でアルバイトを続けたんですが」。
三好がいう(株)楽コーポレーションは飲食の戦士でも度々名前が登場する。「当時は楽の真似さえすれば、人気の店ができた」と三好が言うように、相当なノウハウも影響力もあったようだ。中でも三好がオヤジとも呼ぶ代表取締役社長 宇野隆史氏は飲食を志す人間にはカリスマ的な存在であり、今なお師と仰ぐ人間が後を絶たない。・・・。


株式会社ホイッスル三好 代表取締役 三好比呂己氏


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