2009年11月25日水曜日

株式会社かばはうす 代表取締役 松田幸紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社かばはうす 代表取締役 松田幸紀氏登場。


かば


本文より~


継ぐはずだった店がなくなった。


小・中・高と、野球に明け暮れる。これが松田の記憶だ。「まとめ役を好んでやり、野球ではもちろん、クラスでもリーダー的な存在だった」という。一方で、いずれ「洋菓子店」を引き継ぐだろうと考えていた。高校卒業後、京都の「調理学校 製菓衛生士課」に進学したのも将来、店を引き継ぐための準備だった。この学校でケーキ職人の土台を作った松田は、その後、京都の、ある「ケーキ屋」に入店し2年間、修行する。しかし、彼が2年の修行を終わる頃になって祖父と父が店をたたんでしまった。松田の未来図が崩れていく。
母から「居酒屋」を引き継いでくれないかと誘われたのは、そんなとき。快諾とはいかなかったが、松田は、居酒屋の経営に初めて乗り出すことになった。この店が「かばはうす」の起点になる。引き継ぐといっても、居酒屋のノウハウはない。マスクをかぶりケーキをつくるケーキ職人とは、まるで違うにぎやかな世界だ。だが、むしろこちらのほうが、水があった。・・・。


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株式会社せたが屋 代表取締役 前島司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社せたが屋 代表取締役 前島司氏登場。


せたが屋


本文より~


ラーメンに目覚める。そして、37歳で店を構える。


失意の中でゴルファーの道も諦め、父親の経営する割烹料理屋を手伝おうと池袋へ戻った。しかし、再婚した義理の母親とウマが合わず、黙って店を飛び出してしまった。その後有名プロゴルファーが作った会社で、ゴルフ会員権の営業をしたり、電話営業の会社でひたすら電話をしたりするのだが、どれも1年と続かなかった。唯一長く続いた仕事は「ペンキ屋」。自分の都合で仕事の段取りを組み立てられ、給料もよかったからだ。3年勤めて、その後、独立。多くのお客さんが自分についてきてくれたおかげで、仕事は順調だった。
この頃、前島は、すでに「ラーメン屋をやろう」と心に決めていた。仕事が終わった後に同僚と飲みに行ったり、食事に行く機会が増えた。〆はラーメン。・・・。
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株式会社RYコーポレーション 代表取締役 横山藤雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社RYコーポレーション 代表取締役 横山藤雄氏登場。


RYコーポ


本文より~


25歳で独立。周りの反対で、独立を断念。挫折を味わった。


25歳で独立する、と考えていた。だから、その年齢に達した横山は、7年間勤めた会社を退職した。「いま思えば有頂天になっていたんですね。結局、周りに説得され、その歳での独立は断念しました」。振り返れば、その決断が、のちにより大きな横山自身を作り上げるきっかけとなる。起業をあきらめた横山は、より大きな舞台、つまり年商80億円、34店舗の精肉、スーパーを経営する会社へ転職する。一つの挫折が、横山をさらに仕事に駆り立てる。「34店舗でトップになる」、25歳の横山はそう考え、ひたすら働いた。早いときは朝4時30分に、店に入っている。オープンは10時。通常でも7時30分には店に入り、同じスーパーに入っている店の前も掃除したということだ。精肉をさばく技術も徹底的に学び、研究した。・・・・。
 



2009年11月22日日曜日

キイストンでしかできないこと。

他社とは違う大きな特徴。


●どこよりも多くの飲食企業の社長の生い立ちから独立までの背景とこだわりや理念を聞いている事実。


●景気や世の中の構造変化の激しいなか人材採用業務一筋に極めてきた事実。


●元キイストン社員が飲食業界で独立、人事として活躍している事実。独立2名、経営・人事関連4名を創出している事実。


これをうまく活用しよう。 


キイストンロゴ



2009年11月21日土曜日

問題です。

Q.さて、これはなんでしょう?


のりぴー


A.のりぴー初公判の抽選です。


※ちなみにこれは頼まれて行ったものです。



粋である。

先日、リブセンス様より粋なものを頂いた。


なんと4つ葉のクローバーの種である。


夢と癒しがある。


クローバー



ここ最近見た映画。

ほぼ毎週のように映画を見に行ってる。


最近は、ほんと邦画が面白い。


映画はいい気分転換になるんでお薦めです。


Photo_kaiji-movie20091010


カイジ 人生逆転ゲーム


Photo_thisisit20091028


マイケル・ジャクソン THIS IS IT


Photo_nakumonka20091114


なくもんか
 
 Photo_warau-keikan20091114


笑う警官


Photo_zero-focus200911 
 
 ゼロの焦点
 



2009年11月18日水曜日

株式会社セクションエイト 代表取締役社長 横山淳司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社セクションエイト 代表取締役社長 横山淳司氏登場。


セクションエイト


本文より~


22歳。北海道から東京へ。新宿歌舞伎町に第一歩を記す。


早熟といえば、そうかもしれない。ただ周りの、たとえば同年代の友人たちと比較すると、そういえるだけで18歳の青年にとっては、ビジネスの道も、大学などへの進学も、そうかわるものではない。ただし、「高校時代の友人とは遊ばなくなりましたね。持っているお金の額も違うし。遊びに行くところも違いますから」と。大学には行かなかった横山は、その分、ビジネスの現場で、人間学や経営学、経済学も学んできたのではないだろうか。大学卒業の年齢となる22歳。横山は、単身、東京に進出してくる。お店を経営するためである。同じ22歳といっても、目的意識には雲泥の差がある。
「私が東京に来るまえに、父の会社で30坪程度の居酒屋を出すことになったんです。その店が『はなこ』の原点です。居酒屋は素人でしたから、職人さんたちとなかなかうまくいかなかった。そういう経験も、いまの財産になっています」。・・・。
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2009年11月14日土曜日

ぞくぞくと社長取材進行中!!

ここ最近も多くの飲食社長様を取材させてもらった。


麦企画・田原旬時社長


一滴八銭屋・大薮 由一郎社長


高田屋・鹿中一志社長


とり鉄・小林剛社長


リアルテイスト・路次徹夫社長


縁商事・ イ キョンミン氏


ゴダック・荒谷公彦社長


ダイネット・中川徹也社長


ケーズネットワーク・山友浩司社長


ピューターズ・松下義晴社長


ポポラマーマ・安家美津志社長


モミアンドトイ・エンターテイメント・川上統一社長


日本レストランエンタプライズ・浅井克巳社長


今月もあと5社は取材させてもらう予定である。



2009年11月13日金曜日

株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“クロスα”に株式会社ジェーシー・コムサ 代表取締役CEO 大河原毅氏登場。


大河原


■エリートになれなかった少年。


「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。兄は東大に進学したが、大河原は当然それはかなわず、防衛大学を受験するが失敗、かろうじて上智大学に滑り込んだのである。・・・。


■栄光学園で学んだこと。


一度目の落第で、大河原には、ペナルティが課せられた。校庭でも遊ぶことが許されないのだ。「遊ばず、学べ」ということだろう。大河原は遊びもしなかったが、学びもしなかった。実は、一人で掃除を徹底的にやった。「他にすることがなかったから」というのが本人の弁。しかし、この大河原を見ていた神父が、少年の寡黙で献身的な姿に心を打たれた・・・。


■学生時代に見せた非凡な才能。


「非凡な才能」という言い方をすれば、そうじゃないと大河原は否定するだろう。大河原には秀才の兄がおり、その兄と比較することで、劣等感を感じずにはいられなかったからだ。「エリート街道まっしぐら」といっていい兄、そして弟の自分は二度も落第という「栄光学園、初の汚名を持つ」身である。・・・。


■1970年万博。「カーネルおじさん」、日本に降り立つ。


さて、少し先を急ごう。上智大学を卒業した大河原は、大日本印刷を受けるが、失敗し、日本プラント協会という、今で言う経済産業省の外郭団体に就職する。しかし、仕事に満足できず再び大日本印刷にチャレンジする。万博要員。若い人には、ぴんとこないかも知れないが、当時の日本は経済成長の真っ最中にあり、それを象徴したのが、大阪府吹田市で開催された「日本万国博覧会」である。・・・。


■1号店は半年で閉店。会社は債務超過に。もう、後がない。


いままでバラバラだったいくつもの出来事が、まるで最初から決められていたように、ひとつの線になり、つながる。万博終了後、フランクフルト駐在員の打診を受けた大河原だったが、それを断り、まだまだ水商売としか思われていなかった飲食業に進む。そう、前述のロイ・ウエストンに請われ、日本ケンタッキー・フライド・チキンの設立に参加するのである。・・・。


■カーネル・サンダースの片腕、ハーマン氏との出会い。


そんなときに、大河原は、アメリカの本社を訪れる。何かのヒントを探しにいく決死の思いもあったのだろう。しかし、本部はその直前に買収されてしまっていた。ここでも大河原は途方に暮れる。そのとき偶然、彼の肩を叩いてくれたのが、カーネル・サンダースと共にKFCコーポレーションの基盤を作ったピート・ハーマン氏なる人物だった。・・・。


■社長就任、そして退職。


店長からスタートし、1年で営業部長の要職に就き、その後、常務、副社長を経て1984年に代表取締役社長に就任する。大河原、41歳の時である。大河原が敬愛してやまない彼の父はかつて、息子の大河原に次のように言ったことがある。中学校で落第し、その報告をした時のことだ。・・・。



有限会社OEC(オーイーシー) 代表取締役社長 小口俊也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社OEC(オーイーシー) 代表取締役社長 小口俊也氏登場。


OEC


本文より~


飲食業の奥深さを知り、活動の範囲を広げていく。


父からの誘いがあったのは、ちょうどそんな時であった。むろん、返事は「Yes」。こうして玉川に、尊敬する父との共同作業で、「郷林坊」という初の店舗が誕生した。「父が蕎麦を打ち、私が支配人となって。江戸会席、蕎麦会席をメインにしたお店でした。おかげさまでオープンから、順調に滑り出し、好調な業績を残すことができました。JAS時代の付き合いでパイロットの人や、Jリーグの選手やOBの人たち、女優さんにもいらしていただいて」。評判になる。一方で、小口は、蕎麦や豆腐料理の修業を重ねる。水産加工会社に入って日に何百匹という魚をおろして腕を磨いたこともある。・・・。


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株式会社グッドスパイラル 代表取締役 熊谷光裕氏登場。

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グッド


本文より~


企業成長や成功社長には共通要因がある。それを学ぶため転職。


さて、熊谷氏は27歳のとき、株式会社グローバルダイニングに入社した。東京・恵比寿にある同社の「ZEST」をお客として訪れ、衝撃を受けたからだ。
「和気あいあいというより、ピーン!と空気が張り詰めていました。ホールスタッフの声がとてもハキハキしていて、体育会系の雰囲気。実にいい店!」。さっそく翌日、同店の門を叩いた。
しかし入社後、飲食業界未経験に近い熊谷氏が、「誰も、何も、教えてくれない~!」となげいていると、ある日、上司にこう言われてしまう。「教えてくれない?なんで自分で勝手に覚えていこうとしないの?」。
この言葉で、熊谷氏は自分の甘さを改めて認識し、その後、約2年間で同社のホールリーダーにまで昇格する。さらに、外食人として精進すべく、株式会社クリエイト・レストランツなどにも転職し、人気店の新規立ち上げなどに積極的に参画していくのである。・・・。
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2009年11月3日火曜日

株式会社エスエルディー 代表取締役 青野玄氏登場。


 

SLD

 

本文より~


名門ラ・サールから一流企業へ…の道を選ばなかった理由


同社代表取締役 青野玄氏は福岡県の出身。父親が転勤族だったことから、幼少時代は転校を余儀なくされるが、昔から勉強は得意な方で、中学・高校は名門ラ・サールへ進学する。
「別段、変わったところはなく、普通の子だったと思いますが、小さい頃から周りに流されるのがとにかく嫌いでしたね。ラ・サールに通っていた頃は、周りはほとんど東大進学を目指していました。そうやってそのままエリートサラリーマンになって、一流企業に就職する…という道が、私には描けなかった」と話す青野氏。
そんな青野氏が選んだのはクリエイティブな仕事だった。
「メディアとか映像とか、そういうクリエイティブな仕事なら、受け身ではなく、すごくアグレッシブな人生を送れるのでは…と期待したのです」と青野氏。・・・・・。
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株式会社平城宛 代表取締役社長 鏑木順之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社平城宛 代表取締役社長 鏑木順之氏登場


平城苑
本文より~


職を転々とする。それでも信念を曲げることはなかった。


正しいと思ったことは、曲げない。だから、意見が食い違い会社を辞めざるをえないこともあった。鏑木 順之、株式会社「平城宛」代表取締役社長の過去を振り返ると、そんな葛藤が見えてくる。
「平城宛」はいうまでもなく、昭和45年開業の焼肉の名門店。株式会社「平城宛」は、関東圏に焼肉専門店「平城宛」をはじめ、5業態32店舗を展開する老舗のフードビジネス企業でもある。創業者は、現在会長を勤める内田 寛氏。鏑木は、今年、2009年4月、その内田氏から社長椅子を引き継ぐことになった。
鏑木が「平城宛」に入社したのは、26歳の時。すでに、大工、ガソリンスタンド、居酒屋、焼肉店など、職を転々として、この年に「平城宛」に入社することになる。・・・・。


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2009年11月2日月曜日

実家の父親から丹波松茸が。

まったけ
京都の実家にいる父親から、今年初の松茸が2つ出たと連絡があり、日曜着で送ってくれた。


本当にありがたい。


この前は新米を送ってくれた。


もともと東京で飼っていたダックスフンドのたかすぎももう17歳になろうとしているが、


今だ老衰で弱っているが生きている。


昔からあまり多くを語らないが、父親の愛情をこの年齢になり、本当に感じる。


全て何でも自由にやらしてもらった。


全部が自分の意思で何も言わなかった。


感謝・感謝!!